4-3

 部屋に続く短い廊下を進むと、おぼろくんは昨日と変わらずぴったり後ろについてくる。淹れたての紅茶が乗ったお盆を音も立てずに運ぶ姿を見て、やっぱりおぼろくんは素敵だなぁとこっそり好きを重ねた。


 部屋のドアを開くと、背後から息を飲む音が聞こえた。ティーカップが受け皿の上で震える音が続く。恐る恐る振り返ると、おぼろくんは目を巨大化させていた。

 グラスさえ片付けていない私に呆れて声も出ないかと思いきや、彼の目を膨らませていた正体は、使用済みのグラスではなく置き去りにされたままのメイクボックスだった。


「昨日のあれ、まだ中も見てなかったよね。せっかくだから開けてみる?」


 私の言葉に、おぼろくんは勢いよく頷いた。カタカタと音を鳴らしティーカップたちも賛同している。私にではなく、今日はこれに会いに来たのかもしれないと拗ねたくなってくるほど、おぼろくんの目は眩い。


「中って、どんなものが入ってるんだろう」


「前にお兄ちゃんが使ってるとこ見たけど、色々出てきたよ。手品みたいに次から次へと」


「へえぇ、見たい見たい!」


 お盆を置き自由になった手で拍手をしながら、おぼろくんは雲柄の座布団に腰を落ち着けた。昨日一度座っただけなのに、まるで昔からそこが自分の居場所だったみたいな自然な動作だ。昨日は正座をしていたくせに、今日は脚を揃えた女座りだった。


 現実味のない光景を前にして、私は頬をつねる代わりに熱い紅茶に口をつけた。これはちょっとした革命だ。おぼろくんが茶葉を持ってきてくれなかったら、そして今日家にやって来てくれなかったら、絶対温かい紅茶なんて口にすることはなかった。

 夏に熱いものを飲むなんてお年寄りくらいだと思っていたけど、温かい紅茶はアイスティーにはない芳醇な香りに満ちていて夢のように美味しい。


 これはいかん、とクッキーを手に取る。ひとくちで齧って私は納得する。やっぱりこれは現実だ。夢の世界だったら、可愛らしいクッキーにこんなショッキングな後味が採用されるわけがない。


 おぼろくんはメイクボックスの中を、慎重な手つきで探り始めていた。物が手に触れるたび「これは何だろう」とか「この色きれーい」だとか、ひとつひとつに違った反応を示す。そのたび私はクッキーを口に運び、着色料の味を噛み締めた。


 兄が開いたときには色んなものが飛び出す魔法の小箱に見えたけど、今は薄汚れた箱にしか見えない。昨日から放置されたままのグラスを気にも留めない寛大なおぼろくんは、使い古されたメイク道具に目立つ汚れも、私がハート型のクッキーばかりを狙い撃ちして食べていることも、まったく気にならないらしい。


 やっぱり私に会いに来てくれたわけじゃないのだと思い知らされたら、何だかいじけたくなる。色とりどりだったクッキーから赤を消し去った唇が尖っていった。


「……夢中だね」


「あ、ごめん。さっきから僕ひとりで楽しんで。……うん、何だかそう、夢中になっちゃった」


 しどろもどろになりながらもえくぼを浮かべたおぼろくんは、また鼻の頭を掻いた。そして紅茶をひとくち啜ると、目を閉じて鼻から息を漏らす。無理やり夢中を追い出そうとしているような、深く長い息だった。

 消沈っぷりに胸が軋んだ私は、差してしまった水を急いで回収する。


「せっかくだから、見てるだけじゃなくて使ってみたら?」


「いいの?」


「そのためにお兄ちゃん、くれたんだし。遠慮なくどれでも使ってよ」


「うわぁ。じゃあ、お言葉に甘えて」


 てっきり自分の顔で試すのかと思ったら、私の頬に触れてきた。驚きのあまり「むぉう」と声が漏れた私を無視し、もう片方の手でボックス内を探っている。

 おいおい嘘だろせめて選んでから触っておくれよ、と文句をいえるのは心の中だけで、私はそのままパトリシアさんのように瞬きもできなくなった。


 頬に押し当てられた指は、さっきまでティーカップを持っていたのが信じられないほど冷たい。それとも、私の頬が熱いのだろうか。

 そんなことを考えるだけで、指と頬の温度がますます広がっていく気がした。人の気も知らないおぼろくんは、たくさんあるメイクブラシをひとつひとつ手に取って悠長に吟味している。片手では選びづらそうなのに、私の頬から手を離してくれない。


 今日の突然の訪問といい、上手く意思の疎通が取れなかった。繊細そうに見えておぼろくんは、案外マイペースなのかもしれない。早く彼のペースに染まってしまいたい。そうしたら、心臓がいちいち萎んだり膨らんだりを繰り返さなくてすむ。私の寿命もだいぶ伸びる気がした。


 選び終わったのか、おぼろくんは枝豆色の粉が詰まったコンパクトを片手で器用に開く。筆先に鮮やかな色を含ませると、手元に落としていた視線を不意に上げた。私を見据える瞳はとても真剣で、おぼろくんはどこか厳粛な雰囲気を纏っている。

 きっと彼が見ているのは、私の腫れぼったい瞼だけだ。そう分かっているのに、深く見つめ合っているような錯覚から抜け出せない。


「じゃあちょっと、付けさせてね」


 いい終わる前に、ブラシが瞼に触れた。ぴょこんと立った犬の耳が触れたみたいにくすぐったい。

 目を閉じたほうが塗りやすいだろうけど、こんな至近距離でおぼろくんを前にしたまま目を閉じたらますます平常心でいられなくなる。かといって、このままずっとおぼろくんを見つめ続けるのも心臓にかなりの負担が掛かりそうだ。


 戸惑いが洪水のごとく溢れる私を差し置いて、おぼろくんは次々に新しいコンパクトを取り出し、顔のあちこちにブラシを走らせていった。

 私の顔は今、何色になっているのだろう。


 熱中しているせいか、どんどん顔を接近させてくるおぼろくん。左右の目が、近すぎてぼやけひとつに重なって見えた。一生分のおぼろくんを一気に見てしまったようなもったいなさに襲われながら、相変わらず瞬きもできなくて、改めて痛感した。

 やっぱり私は、つくづくこの人のことが好きみたいだ。そんな分かりきった事実を再確認しただけで、意味もなく涙が出そうだった。


「ごめん、目に入っちゃった? 大丈夫?」


 おぼろくんの手が顔から離れた。間近で囁かれた紅茶の香りのする声が、鼓膜から入り込んで体中を駆け巡る。


「大丈夫!  なんっともない!」


 おぼろくんが吐き出した空気を存分に吸い込んでから放ったそれは、自分でも恥ずかしくなるほど上ずった声だった。「よかった」と口角を上げたおぼろくんは、再び私の頬に手を添えてくる。もう冷たさは感じなかった。だけど、温かくもなかった。


 ぷちぷちと小さな文字を紡ぎ、正当な手順でこだわりの紅茶を淹れ、可愛らしいクッキーを作り出す、白くて長いおぼろくんの指。


 何も頬張っていなくても「何食べてるの?」と鮎子によく尋ねられ、でも本気になればおまんじゅうを四個は収納できる、丸くて年中赤い私の頬。


 そのふたつが溶け合って今、同じ温度になったのだと思うと、涙の代わりに今度は鼻血が出そうだった。


「はい、できたぜ」


 鼻血が飛び出る前に、おぼろくんは手を離し、寄せていた顔も遠ざけた。同じ温度になっていたはずなのに、なぜだかとても頬が涼しい。幸福な気持ちは、いつも余韻も残さずすぐに逃げ去っていく。


 おぼろくんは長い間ほったらかしにしていた紅茶を手に取り、ティーカップの中を覗き込むと、頬をぷぅっと膨らまし水面に息を吹きかけた。

 つられて私もカップに手を伸ばす。紅茶はすっかり冷めていて、ガブガブ飲めた。おぼろくんはひとくちずつ静かに啜りながら飲んでいる。こんなぬるい紅茶をお行儀よく飲み進むおぼろくんが、「できたぜ」という。


 今時、少年漫画の主人公だって語尾に「だぜ」なんて付けない。静かな鼻声に無理のある男言葉は似合わなかった。

 だけど、虚勢も性別も取っ払ったおぼろくんがどんな話し方をするのかを考えてみても、上手く想像できない。その事実が、何より私の気持ちをざらつかせた。

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