4-2

――ピーンポーン。


 三度目のチャイムで私は目覚めた。目を開けると頭上に広がるのは青い空などではなく、見慣れた白い天井がのっぺりと見えるだけだった。顔だけは夢の中と一致していたようで、速やかに表情を戻すとこめかみの辺りがピリピリと悲鳴を上げた。


 汗だか涙だか分からない顔面の湿り気を肩先で拭っていると、四度目のチャイムが鳴った。密閉された空気を、チャイムの音が無機質に揺さぶる。家族が出払った状態で止まったままだった時間が動き出すのを感じ、逃げるようにベットから飛び出した。


 時刻はすでに正午を過ぎている。五度目のチャイムを聞きながら覗き穴に顔を近づけた私は、驚きのあまり扉に額を打ち付けた。その音に反応し、ビクッと肩を怒らせ一歩後退する訪問者の姿が小さな穴の向こうに見てとれる。それは、夢にまで見たおぼろくんだった。


「なんで……何でおぼろくんがいるの」


「え、だって昨日、約束したよね?」


 衝撃のあまり口をついたひとりごとに、思いかけず返事がきた。扉を隔てているため不鮮明で聞き取りづらかったけれど、紛れもなくおぼろくんの声だ。

 誘ってもいないのに「たくさん遊びに来よう」とひとりで決めてしまったおぼろくんが、本当に早速遊びにきてしまったということか。


 でもあれって、どう考えても約束じゃない。勝手におぼろくんが決めただけで、私は何の加担もしてない。

 というか私、まだ顔も洗ってない。おぼろくんに会うならシャワーで寝汗も流したい。着替えもしなくちゃ。こんな毛玉だらけのジャージで出て行けるわけがない。上着の袖とズボンの裾をハサミで短くちょん切った夏仕様のジャージだ。こんな貧乏くさいリメイクジャージ姿をおぼろくんに見られたら私はこの先、生きていけない。

 部屋の掃除だってできていない。昨日のおぼろくんの使用済みグラスだって、まだ座布団の隣に展示してあるままだ。


 ようやく覚醒し始めた脳みそは、あっという間に困惑で埋め尽くされた。


「あっごめん……もしかして、迷惑だった?」


 さらに小さく聞き取りづらくなったおぼろくんの声が、再び扉越しに届く。探るような声色に、私は堪らず扉を開いてしまった。否定の言葉を口にしようと思ったのに、「おはよう」という隔てるものが何もないクリアな声に先手を奪われる。


 控えめに響いたおぼろくんの声をすぐさま鼓膜に回収してから、小さく深呼吸。そこまでして、私はやっと口が開けた。


「迷惑なんかじゃないよ! ただちょっと、驚いただけ」


「なんだ、よかった。ドキドキしちゃったよ」


 おぼろくんは両手で胸を押さえながら、ほっと息をついて笑った。朝一番に見るには刺激の強すぎる笑顔で、煩悶としていた頭の中が晴れていく。来てくれてありがとう。ようこそおぼろくん。すぐにその気持ちだけでいっぱいになった。


「でもごめんね。もしかして寝てるのかなぁって思いながらも、しつこく鳴らしちゃった」


 声を高くしたおぼろくんは、人差し指で空を押し、チャイムを鳴らす仕草を再現して見せてくれる。ご丁寧に、きっかり五回。私も身振りを加えて答えなくてはと両手を持ち上げてみたものの、どんな動きをしたらいいのか閃かなくて、掲げた両手は無駄にわたわた動くだけだった。


「私もごめん。なかなか、気付かなくて……」


「僕の方こそ、せっかくのお休みなのに起こしちゃってごめんね。でも、無事に会えてよかった」


 ね? と付け加えてから、おぼろくんは同意を求めるように首を傾け眉毛を持ち上げた。自分に向けられているとは信じがたい目の前の表情より、「ね?」という言葉の余韻に、完膚なきまでに脳みそがとろけ出す。


 だって、まるで私の気持ちまで知っているみたいな響きじゃないか。照れくさいような恨めしいような、胸がきゅるんとする敗北感で、こんなときばかり負けず嫌いが顔を出す。


「でも私、約束した覚えないんだけど。突然くるから、結構びっくりしたんだけど」


「昨日、約束しなかった? したよね?」


「あれは、おぼろくんが勝手に遊びに来ようっていってただけで……それは宣言であって、約束とはいわないよ」


「なるほど。いわれてみれば、確かに」


「あ、そうだおはよう! いい忘れてたおはよう!」


 驚きが勝って返し忘れていた言葉を、私は慌てて口にする。危うく、毎朝おぼろくんの挨拶を無下にする鈴木くんと同じ失態を犯してしまうところだった。話の流れを無視した突然の挨拶に目を丸くしつつも、おぼろくんは「うん、おはよう」ともう一度答えてくれる。


 ごく当たり前に、当然の応答であるかのように放たれたその四文字の重さを、密やかに噛み締めた。学校では決して自分に向けられることのなかったおぼろくんのおはようを、今日は私が独り占めにしている。


「どうぞ入って入って。相変わらず汚い家だけど」


「ありがとう。お邪魔しまぁす」


 再び我が家に上陸したおぼろくんは、休日だというのに寝癖の見当たらない坊ちゃん刈りを揺らし、脱いだ靴を正した。


 昨日と同じ光景。だけど、昨日とは違う姿。制服でも女装でもないおぼろくんを見るのは初めてだ。

 淡い藤色をした上着のシャツは、女性的ではあるものの男性が着ても不自然ではない、色々な意味で紙一重な小花柄だった。寝汗をかいたほどの陽気でも、しっかり長袖な辺りもおぼろくんらしい。ホットケーキみたいな香ばしい色をした綿のズボンからは、中途半端な丈のせいで白い脛がむき出しになっている。

 きっとまたベルトの位置が高すぎるのだと思い至り、硬直しっぱなしだった頬が解れていくのを感じた。


「おぼろくんのそのシャツ、可愛いね」


「小春ちゃんはスポーティだね」


 聞き覚えのある褒め言葉。デジャビュ? それとも夢の続きかしら。そんな見え透いた現実逃避をしながら、私はもう開き直るしかなかった。


「僕、紅茶持ってきたんだ。淹れさせてもらってもいいかな?」


 部屋に向かうためリビングを通過しかけると、おぼろくんが足を止めた。ポケットから茶葉が入っているらしき物体を取り出し、開いた両手に乗せこちらに見せてくる。赤いリボンのついた小包みだった。


 無造作に仕舞われていた綺麗な包み。私にはそれが、おぼろくんを象徴しているように見えた。鞄も持たず、何でもポケットに入れてしまうところはいかにも男の子なのに、すぐに剥いでしまうと分かっていながら、わざわざ可愛らしく包んでくるところはいかにも女の子がしでかしそうな行為だ。


 私が夢の中にいる間に、おぼろくんは何を思いながら紅茶にリボンを掛けていたのだろう。「ティーポットあるかなぁ」と辺りを見回す彼の表情からは、何も読み取ることができない。


「そこの茶だんすにあるよ」


「わぁ、お洒落なデザイン。ティーカップとお揃いなんだね」


「私がやるから、おぼろくんは座ってて」


「大丈夫大丈夫。僕が淹れた紅茶は美味しいんだよ。あっ、別に小春ちゃんが淹れたら美味しくないっていう意味じゃなくて、えぇっと……」


 続ける言葉が見つからなかったのか、おぼろくんは「へへっ」と笑って誤魔化そうとしている。そこまでいいかけたのなら、最後まで弁解して欲しかったけど、「へへっ」が可愛かったので許してあげることにした。

 私は電気ケトルのスイッチを入れ、ティーポットから手を離す。


「じゃあ、お茶はおぼろくんに任せた。私は何かお茶菓子でも探してみるよ」


「待って。それも僕、持ってきたよ」


 おぼろくんは嬉々として、もう一方のポケットからさっきよりも大きな巾着型の包みを取り出した。今度は黄色いリボンが掛かっている。

 色を変えてくるとは芸が細かい。感心していると、おぼろくんは眉毛を持ち上げてふふっと笑った。大人しすぎた昨日とはまるで別人のおぼろくん。これは本当に夢を見ているのかもしれない。


「美味しいかどうか自信ないけど、よかったら食べてみて」


 おぼろくんの長い指が器用にリボンを解くと、空っぽのお腹を刺激する甘美な香りが漂ってくる。姿を現したのは、絵本の世界から飛び出してきたような色とりどりのクッキーだった。


 まさか手作り? と思わせる素朴な形をしている。花に小鳥に猫に犬に、ハート形なんてものまである。赤く色づいたハートには何だか手が出しづらくて、私は丸いくちばしがキュートな黄色い小鳥のクッキーを手に取った。


「じゃあさっそくひとつ、いただきます」


 齧ってしまうのは可哀想で、ひとくちで頬張る。口の中で弾けた瞬間、大好物の砂糖の味に舌が喜んで唾液が歓声を上げた。

 甘くて香ばしくて、でも遠くの方にわずかな塩味も隠れていて、軽い口当たりであっという間に柔らかくとろける。舌に残る着色料の毒々しい味には気付かなかったふりをして、感想を待つ不安げなおぼろくんに向けて大きく頷いた。


「美味しい。甘くてサクサクで、すっごく美味しい!」


「本当? お砂糖、どのくらい入れたらいいのか迷ったんだけど。うん、美味しいならよかった」


「これ、おぼろくんが自分で焼いたの?」


「うん、焼いちゃった。二日続けて市販の手土産じゃ、何だか申し訳ないから」


「そんな、気にしなくてよかったのに。それにおぼろくん、甘いもの嫌いなんでしょ?」


「僕は苦手だけど、小春ちゃんは好きみたいだったから」


 目を伏せてはにかんだおぼろくんは、人差し指で鼻の頭をポリポリしている。私のためにありがとう! おぼろくんの手作りクッキーが食べられてとっても嬉しい!……なんて素直に口に出せるわけもなくて、だけど高ぶるこの気持ちを放出する術も分からない。


 舞い上がる頭に、新たな疑問が降ってきた。甘いものが苦手なのおぼろくん。それじゃあ何が好きなんだろう。

 辛いもの? しょっぱいもの? 酸っぱいもの? 苦いもの?

 そんなことさえも聞き出す勇気のない私は、ポリポリしすぎて赤らんでいくおぼろくんの鼻の頭を、ハラハラと見つめることしかできなかった。

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