4 ようこそおぼろくん

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 水気を帯びたスクール水着が、太陽の光りを吸収している。雅やかな光沢が、プールサイドのあちこちから女子生徒の数だけ放たれていた。私の目には、煌めく水面よりも黒光りするスクール水着のほうが何倍も美しく映る。


 着替えは面倒臭いし泳げないしで水泳の授業は嫌いだけど、この光景は小学生の頃から好きだった。高校を卒業したらもうスクール水着とはお別れだなぁと不意にしみじみ寂しくなるくらい好きで、今後は大学生、はたまた社会人としてスクール水着同士の付き合いがない世界で生きていかなくちゃいけないのか……と、将来を軽く悲観するほど大好きなのだ。


 水泳キャップとスクール水着のみという飾り気のなさがいい。髪の毛をキャップに仕舞い込み、面積の狭い生地で体を覆っただけの姿になると、誰もが制服を着ているときとは別人に見える。

 隠したり誤魔化したりできずにすべてが浮き彫りになるこの姿こそが、人間の真髄だと私は昔から確信している。


 派手な付けまつ毛が取れた途端四コマ漫画のキャラクター並みに簡素な顔になる子や、真面目そうに見えて耳に無数のピアスの穴が刻まれている子、非の打ち所がないほどスタイル抜群なのに足の爪の形が壊滅的に不細工な子など、普段では気付かない姿を観察できることが楽しかった。

 だから別に、スクール水着自体が好きとかそういう変な趣味があるわけじゃない。


……いや待てよ、と私は閃いた。

 変な趣味、結構じゃないか。「好きな男子もいないなんて、小春ちゃん絶対おかしいよ。レズなんじゃない?」中学生の頃、恋の話が始まると私は訳のわからない二文字を理由によく爪弾きにされた。


 今なら分かる。レズ。すなわちレズビアン。

 大いに結構じゃないか。高校生になるまで男の人を好きにならなかった私は、もしかしたら素質があるのかもしれない。男も女も分け隔てなく愛せる心の広い人間ならば、男でもあり女でもあるおぼろくんと上手くやっていける気がした。


 物は試しだ。思い切って実験してみることにした。果たして私は、同性相手に欲情することができるのだろうか。


 一番近くにいる鮎子を実験対象に選び、気持ちを盛り上げるため生唾を飲み込んでから観察を始める。少しでも体を動かせばぶつかりそうな距離だ。日差しが眩しいと口ではいいつつ、本当は日焼けするのを嫌って私の影に身を潜めているのだ。


 屈み込み脚をくねらせ立っている鮎子は、こうして変な目で見るとそれなりに艶かしい体つきである。普段はただ細長いだけに見える脚も、太ももは案外むっちりしているし、胸だって、前屈みの体勢を差し引いてもそれなりの膨らみを誇示している。

 何より、成人女性とさして体型の変わらない鮎子がスクール水着を着ているということ自体がすでにエロティック極まりない。


 それに鮎子は端整な顔立ちをしている。普通なら欠点になるはずの出っ歯も、絶妙なバランスでプラスに働いていた。この出っ歯があるから、鮎子は美人なのだと思う。

 しかし細すぎる眉毛と切れ長な目のせいで、きつい印象が拭えない。水泳キャップに押し込まれ、顔を遮る髪の毛がない分、鋭さが際立っていた。


 常に近寄りがたい雰囲気を放っている鮎子は、服を着ていなくても気高い野良猫に変わりはない。猫が柔らかな肉球の中に爪を隠し持つように、鮎子は艶やかな唇の中に前歯を潜ませているのだ。

 そう思うと、目が離せなくなった。溢れ出る胸の谷間より、水が滴る太ももより、水着が食い込む臀部より、口元が一番魅力的だった。


 私の視線に気付いた鮎子は、「何?」と首を傾げる。同時に口が半開き、隙間から威勢良く大きな歯が顔を出した。頑丈そうな前歯を挟む、薄い上唇とぽってりとした下唇。


 キスをしたらどんな感じだろうと、想像力を最大限に働かせてみる。きっと最初はとても冷ややかで、だけど唇を触れ合わせるうちに熱がこもり始めて、暖かい下唇が心地良くなって、冷たさの残る上唇がくすぐったくて、歯が当たるとちょっぴり痛くて――。


 背筋がぞわりと凍えた。やっぱりだめだ。鮎子のことは好きだけど、好きだからこそ、不埒な目で見ることができない。

 がっかりだ。男と女を分け隔ててしか愛せない、心の狭い自分に落胆した。


「一体なんなのよ。さっきから人の顔ばっかじろじろ見て。そんなに出っ歯が珍しいわけ?」


 地獄の底から響いてきたような、凄味の利いた低い声だった。我に返ると、貧弱な眉毛を持ち上げ眉間に皺を寄せた鮎子の顔が、本当にキスができそうなほど近くにあった。突き出した下唇と一緒に顎までしゃくらせ、答えない私を「あぁん?」と威嚇してくる。


「あぁ、やっぱりだめだ」


 声に出してみたら、息苦しくてたまらなくなった。おぼろくんともやっぱりだめなんだ、自分自身にそういわれた気がした。もう少しの辛抱だ。準備運動が終わって水中に入ってしまえば、泣いても誰にも気付かれない。


 気を紛らわすために、視界を目の前にある怒った顔で満たした。「何がだめなのよ、ほらいってみなさいよ」と顎を突き出したまま器用に喋る鮎子。眺めていると、つい噴き出してしまいそうになるのは、怒ったふりをしているだけなのが分かるから。

 本当に怒ったときには、鮎子はきっと眉間に皺を寄せたり前歯を剥き出したり顎をしゃくらせたりせずに、ただ冷え切った無表情をするのだと思う。


 私は鮎子が好きだ。でも、おぼろくんを好きだと想う気持ちとは、明らかに何かが違った。鮎子のことを想うのと同じ気持ちでおぼろくんを好きだと思えるのなら、どんなに気が楽だろう。私は生まれて初めて、自分の性別を呪った。


――ピーンポーン。


 感傷に浸っているというのに、気分をぶち壊す音が響き渡った。準備体操もまだなのに、もう次の授業に移れとでもいうのだろうか。私は鮎子の怒った顔を真似して、間の抜けた音を響かせる空にガンを飛ばしてみる。


――ピーンポーン。


 歯の剥き出し方が甘かったせいか、天を仰ぐ私をあざ笑うかのように、空はまた同じ音を繰り返す。あれ、そういえば。学校のチャイムにしてはずいぶんと家庭的な音。時刻を告げる音というより、誰かの訪問を告げる音に似ている。

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