3-4

 おぼろくんを見送って玄関の扉を閉めた途端、背後から水の滴るような音がした。兄がまた水道の蛇口をしめ損ねたのだと呆れながら台所へ走ると、乾いて白く濁るステンレスがあるだけだった。洗面所を覗いても、水が零れている様子はない。


 音を辿って家中の徘徊を始めた私は、すぐに拍子抜けした。音の出どころは時計の秒針だった。時刻は六時四十五分。

「お夕飯までには帰らなくちゃ」という子供じみた理由で、おぼろくんはあれほど大切そうに抱えていたメイクボックスを開かぬまま帰って行ってしまった。


 あんなに静かな人がひとりいなくなったくらいで、どうして急に色々な音が溢れ出すのだろう。正体を突き止めても耳から離れない秒針の音に急き立てられ、耳を塞ぎたくなる。

 テレビをつけてしまえば逃れられるのに、もったいなくてできなかった。私は部屋に戻ってドアを閉め、狭い密室に自分を閉じ込めた。


 いつもはベッドの上で胡座というのが定位置なのに、私は使用者不在の座布団と向き合って再び正座をする。カーテンとお揃いの雲柄の座布団だけが、物で溢れた狭苦しい空間を切り裂いたように鮮やかだ。

 隣に置かれた飲みかけのグラスを眺め、「こりゃなかなか片付けられませんな」とひとりごとをいってみる。


 部屋に刻まれたおぼろくんの痕跡。すんなり消してしまえるほど私は潔くない。正直なところ、しばらく窓も開けたくない。おぼろくんの気配が浮遊し続ける空気を放したくない。今日はこれ以上何も見たくない。瞼に絡みつくおぼろくんの残像で満たされて、このまま朝まで眠ってしまいたい。

 鈍くうねり続けるお腹の痛みさえ消えないで欲しいと願う私は、少し異常かもしれない。



 きっかけは、席替えだった。首尾よく鮎子の真後ろで、おまけに教師の目が届きにくい一番後ろの席になったということばかりに喜んでいた私は、隣に座るのが誰かなんて気にも留めていなかった。


 だけど、今にして思えば予兆はあった。新しい席に着いたときから、頭の中は深い青色一色だったのだから。夏の訪れを喜ぶタイプでもないのに、私の頭は海を描き続けることをやめてくれなかった。


 窓際の席で空が近くなったせいかもしれないと、席替えが行われた三日後に思い当たった。間抜けな脳みそが、空の青さと海の青さを混同しているのだと。


 そのとき、初めてガラス越しにおぼろくんを見た。空を見るつもりで窓に向けた視線が、ガラスに映り込んだ横顔に遮られたのだ。

 窓から差し込む太陽が、狙いすましたようにおぼろくんばかりに直撃していて、光りを受けた彼は、空と同化する透明な存在に見えた。


 その横顔が、不意に正面を向く。私が見ている窓の外が気になったという雰囲気の、ありふれた動作だった。そのとき、隣の席からはっきりと海の香りがした。


 その瞬間、私の世界におぼろくんが君臨した。

 おぼろげにしか認識していなかった朧椿という存在が、描き続けていた頭の中の海と一致するようにくっきりと縁取られた。具体的な理由は自分でも分からなかった。犬好きの人が、通りすがりの犬につい目を奪われる心理に似ている気がした。


 私はもともと、この人のことが好きだったのかもしれない。突如湧き起こった初めての気持ちは、妙に納得のいくものだった。


 神秘的だと思っていた海の香りの正体が日焼け止めだと分かってしまった今も、醒めないで困っている。色白な男なんて好きじゃない。女の私より白い男なんてもってのほかだ。肌に気を使う女々しい男も好きじゃない。四角い石鹸で頭と一緒に顔まで洗ってしまうくらいのほうがいい。


 それなのに、私は生まれて初めての恋をあんな男に捧げてしまった。本当に男なのかも怪しい、あんな男に奪われてしまった。


「この、初恋泥棒」


 さっきまでおぼろくんが正座していた座布団に向かって呟いてみる。悪態をついたはずなのに、頬がむずむずとにやけた。

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