3-3

 物の弾みで家まで連れてきてしまったけれど、人様を招けるような状態ではなかった。ましてや、愛しのおぼろくんを招待するなんて身の程知らずもいいとこだ。掃除だって、ここしばらくした記憶も誰かがしているのを見た記憶もない。


 鮎子のいい付けを守ったばかりに、大変なことになってしまった。遠くの空から、急かすような蝉の鳴き声が聞こえてくる。扉に鍵を押し込んだまま、私は開くのを躊躇っていた。


「なぁんだ、小春ちゃんか。びっくりさせるなよもう」


 私の意思を無視し、ドアノブがゆっくりと動き、扉が薄く開かれた。わずかな隙間から兄が顔を覗かせている。


「なんでさっさと入ってこないんだよ。鍵回す音がしたのにそのまま静かになるから、泥棒かと思っちゃっただろ」


 美容師らしく、兄は護身用の武器にハサミを選択していた。しかも左手には、役に立ちそうもない櫛を構えている。学生時代の体操服を着ているから、ふざけているようにしか見えなかった。あずき色の半ズボンが目に沁みる。


 これじゃあ、美容室での格好をつけきった姿が台無しだ。おまけに適当に結わいた前髪が頭の上で銀色に花開いていて、人より広めのおでこが全開だった。

 見慣れた兄の休日スタイルなのに、自分にそっくりなおでこがおぼろくんの下に晒されたことが無性に恥ずかしかった。私は自分の前髪を正しながら口を開く。


「おぼろくんが昨日のお礼に来てくれたの」


「おぉ椿ちゃん、いらっしゃーい」


 背後にいるおぼろくんを発見すると、兄はハサミをぶら下げたままの手を親しげに振った。体操服のゼッケンにでかでかとプリントされている出席番号も、何やら有難い数字に見えてくる。制服姿の男の子を前にしても、何の迷いもなく「椿ちゃん」と呼べる兄はすごい。


 おぼろくんはその場から動かぬまま、頭を下げている。昨日褒められたつむじを見せつけるような、相変わらずの深々としたお辞儀だ。


「昨日はどうもありがとうございました」


「せっかく来てくれたのになんかごめんね、こんなみすぼらしい格好で」


「そ、そんなことないです。とっても、その、スポーティーで……」


「おっ、そうかな? 実はお兄さんも、このまま小春ちゃんのクラスに混じって運動会に出られそうだなって思ってたんだ。体操着だけじゃなくて、制服もまだまだ似合うと思うんだよなぁ。むしろ逆に、現役の頃よりいい感じに着こなせる自信がある!」


 本気なのか冗談なのか、身内でも判別が難しい発言をぺらぺらと続ける兄を遮り、私は意を決して扉を全開にする。


「おぼろくん、とりあえず入って」


「そりゃもう汚い家だから、遠慮せずにどんどん入って。何なら靴も脱がなくていいから」


 自分の世界から帰ってきた兄は、笑いながら家の状況を発表した。


「お邪魔します」


 おずおずと玄関に足を踏み入れるおぼろくんは、かすれた細い声を出した。私は広がり放題の靴を左右にかき分け道を作り、おぼろくんが我が家に上陸するのを待つ。

 見慣れたはずの玄関が新鮮に感じた。照明を浴び、おぼろくんの白い顔に赤みが灯る。玄関の電球が暖色だったことに、私はこのとき初めて気が付いた。


「あの、お兄さん。これ、お口に合うか分かりませんが、良かったら召し上がってください」


 紙箱を差し出す長い腕が、うやうやしく前方に伸びる。兄はオヤジ臭く手刀を切ると、おぼろくんからの献上品を手中に収めた。


「あらやだ悪いわね。それじゃあお兄さん、ありがたく頂いちゃうわ」


 たまに出る兄の妙な女言葉が、こんなときに炸裂した。おぼろくんは無神経な兄を気にも留めない様子で、脱いだ靴の向きを揃えている。隣にあった私の靴まで直してくれた。仲良く並んだ大小ふたつの革靴が、照明を反射してつるんと光っている。


「いいよ小春ちゃん、部屋に行ってて。お兄ちゃんが何か飲み物持ってくから」


「えぇっ?」


 リビングでお茶でもと考えていた私は、思わず大きな声を出してしまった。兄もおぼろくんも揃って目を丸くしている。たぶん、私の目もふたりに負けないくらい丸いことだろう。

 毎日隙あらばおぼろくんのことで頭を満たしているけど、まさか自分の部屋に招き入れる日が来るなんて、これまで夢想すらしたことがなかった。


「大丈夫大丈夫、お兄ちゃんだってお茶くらいちゃんといれられるって」


 大きな手のひらに肩を押され、私は仕方なく自室へと続く廊下を進む。当然だけど、おぼろくんもちゃんと後ろからついてきた。


 部屋の中、どんなありさまだったっけ……? 今朝飛び起きたときの記憶をまさぐりながら、ドアに手を掛ける。とりあえず、ベッドの上に脱ぎ散らかしたジャージを隠さなければ。我が家では代々、部屋着は着古した体操服と決まっていて、中学時代のジャージは今や毛玉だらけだった。


 それ以外に見られて困るようなものは、特に思い当たらない。ゲームやら漫画やらCDやらDVDやらが散乱しているだけの、実に下らない部屋なのだ。思えば、小学生の頃から何も変わっていない。


 ドアを開き、おぼろくんを招き入れるより先に自分の体を滑り込ませた。さりげない動作を装って、派手に脱ぎ散らかした緑色のジャージをタオルケットの中に仕舞い込む。やりっぱなしになっていたテレビゲームを端に追いやり、読みさしの漫画を机の上に移動させ、現れたスペースに座布団を置いた。


「どうぞ、座って座って」


 恐る恐るといった様子で、おぼろくんは座布団の上に腰を下ろした。こんな汚い部屋では、寝転がったり胡座をかいたりするのがしっくりくるはずなのに、おぼろくんが選んだ座り方は正座だった。背筋を正したまま目玉だけを動かして、幼稚な趣味で溢れる部屋を遠慮なく観察している。


「ごめんね、汚い部屋で」


 おぼろくんから少し離れた場所に自分の座布団を投下し、不慣れな正座をする。自分の内面を見られてしまったようで気恥ずかしかった。それなのに、私のすべてが凝縮したこの部屋を、見てもらえて嬉しい気もしてくるから不思議だ。


 男女の契りを交わすとき、焦がれる殿方に向けて体を解く気持ちはこんな感じかしらと考えていたら、「汚くないよ、綺麗だよ」というおぼろくんの声に思考が遮られた。囁き声に、恥じらいが上乗せされる。

 私の部屋の照明も、暖色系のものを選んでおけばよかった。


「散らかってるけど、気にせず寛いでね」


 笑いかけてみると、回り続けていた黒目が私で止まった。頷いたくせに、おぼろくんは喉仏を行ったり来たりさせるばかりで、正座も崩さず寛ぐ素振りを見せない。おぼろくんに吸わせるには埃っぽすぎる空気に、何だか私まで恐縮してしまう。


「うちは両親とも仕事が忙しくて、家にはほとんどいないんだよ。お父さんなんて単身赴任でめったに帰ってこないし」


「それじゃあ、小春ちゃんはいつもひとりなの?」


「うん。今日みたいに、たまーにお兄ちゃんがいるくらいかな。だから遠慮しないで、ゆっくりしてってね」


 おぼろくんは目をしょぼつかせた。緊張を解そうとした私の言葉は、どうやら同情を誘ってしまったらしい。弁解しようと再び口を開いたのに、「それじゃあ、今度からたくさん遊びに来よう」という鼻声に言葉を奪われた。


 誘ってもいないのに、突如たくさん遊びに来るつもりになった図々しいおぼろくんは、ぎこちない笑みを浮かべている。両親不在の家がたまらなく広く感じていた幼少期の感情が甦り、鼻の奥がツンと痺れた。


「おっまたせー! お茶入ったよ。といいつつ、本当はジュースだけど」


 乱暴にドアが開かれると、見慣れた体操服が目に飛び込んできた。ノックもせずに入ってきた兄は、グラスをお盆にも乗せず、器用に片手でふたつまとめて掴んでいる。もう片方の手には、謎の黒い小箱が握られていた。両手がふさがっているところを見ると、どうやらドアは足で開けたらしい。


「さぁ飲んで。おかわりも自由だよ」


「お兄ちゃん、それ何?」


「おう、これな。お兄ちゃんはもう必要ないから、もらってくれると助かるんだけど。捨てるに捨てられなくてさ、ずっと困ってたんだ」


 兄は頭上のチョンマゲを揺らしながら早口で答えると、私たちの丁度中間に小箱を差し出してくる。真四角で頑丈そうなその箱は、間近で見たら見覚えがあった。兄が以前、よく使用していたメイクボックスだ。小さな箱から何種類ものメイク道具が次々と出てくる様は、手品みたいで面白かった記憶がある。


「これでメイクの練習、やってみたらどうだろう。自分で上手に出来るようになったら楽しいよ」


 宙ぶらりんに掲げていた小箱を、兄はおぼろくんの方へ差し出した。中身が分かったのか、おぼろくんは声を出さずに唇の形だけで感激の色を示している。零れんばかりに見開いた目を輝かせているくせに、正座が中腰になるほどお尻が浮いてきているくせに、おぼろくんは唇の開閉を繰り返すばかりで声も出さなければ手も出さない。


「ありがとう、お兄ちゃん」


 慎ましい彼の代わりに、私が受け取ることにした。


「おう、使い道ができてよかったよ。お古で悪いけど、じゃんじゃん使って」


 軽々と渡された小箱は、想像していたよりずっと重たかった。取り落としそうになると、中腰のまま腕を伸ばしたおぼろくんがすかさず手を添えてくる。指先同士の接触より、目の前に迫った強固な目力に鼓動が乱れた。


 食い入るように小箱を見つめるおぼろくんは、忘れ物をして教師に叱られているときより神妙な顔をしている。指を重ね合っている状況に耐えきれなくなって手を離すと、小箱はあっさりとおぼろくんの物になった。手の中に収まるそれを見下ろし、また唇を広げ感激している。


「それじゃあ俺、ちょっと出掛けてくるけど。椿ちゃんはゆっくりしてってね」


「はい。色々と、何から何まで、本当にありがとうございます」


 おぼろくんはわざわざ立ち上がると、小箱を胸に抱えたまま頭を下げた。慣れない正座ですでに足が痺れきっている私は、座ったまま「運動会にでも行くの?」と尋ねてみる。


「バカだなぁ小春ちゃん。こんな日暮れから開催される運動会なんてないだろ」


「だったらちゃんと着替えてから出掛けてよね」


「はいはい、分かってるって。ついでに晩ご飯も買って帰ってくるから、小春ちゃんもゆっくりしてな。さぁて、何にしようかな晩飯。お、そうだ! 久々にカツカレー弁当がいいな」


 生活感漂う発言を残して、兄は意気揚々と部屋から出て行った。ドアを隔てた向こうから「今日の晩飯はお弁当〜小春ちゃんの大好きな、カツカレーべ〜んと〜うっ」という空耳であって欲しい、この上なくご機嫌な旋律が聞こえてくる。


 あああ恥ずかしい。カツカレーなんて食いしん坊の代名詞みたいなものが好きだと、それも大好きだと、おぼろくんに知られてしまったじゃないか。

 プリンとかイチゴとかマシュマロとか、女の子らしいキュートな食べ物だって大好きなのに。よりによって茶色いばかりで可愛さの欠片もない、カツもカレーもと欲張りなだけの食べ物が好きなことだけが明かされてしまうなんて。


 視線を上げると、小箱を胸に抱いたおぼろくんは、兄の出て行ったドアを眺めていた。白い頬が持ち上がり、唇の隙間から形のいい前歯が顔を覗かせている。何の変哲も無いドアを見つめるおぼろくんは、笑っているように見えた。


「カツカレー弁当のデザートに、さっきのおみやげのケーキ、食べてね」


 鈴木くんと冗談をいい合うときに聞く、弾んだ声だった。遠くに聞こえる兄のカツカレー弁当ソングがフィナーレを迎えるのと同時に、おぼろくんは浮かべていた笑みを一層濃くした。


 真顔でも少し上を向いている口角がさらに持ち上がる。上昇する口角に吸い寄せられ、下がる目尻。前歯が下唇に乗ると、膨らんだ頬にうっすらとえくぼが浮かぶ。


 この一連の微笑みの動作を、ガラス越しに何度見てきただろう。唇を噛みはにかむように笑う癖を、初めて私の前でしてくれた。もう、死んでもいいと思った。


 私はおぼろくんのすべてが好きだけど、笑った顔が何より好きだ。好きで好きで、もうどうしたらいいのか分からないくらい好きで、だから、その笑顔が翳る瞬間は、私の視界も決まって曇る。兄のメロディを引き次いで私がカツカレー弁当の歌を口ずさみ続けたら、おぼろくんはずっと愛しい顔を崩さずにいてくれるだろうか。


 そんな馬鹿みたいなことを考えていたら、今頃になって凍えたお腹がしくしくと痛み出した。

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