3-2

 水を五杯も飲むんじゃなかったと後悔している最中に、おぼろくんはちびちびと水ばかりを飲んでいる。一口ごとに紙ナプキンで水滴のついた指を拭う。


 しなやかな指の動きをおかずにパフェを食べ進めていると、その指が突然、開かれた。小さな声で「小春ちゃん」と呼びながら、おぼろくんは手を挙げている。

 どうやら、発言の権利を獲得しようとしての挙手らしい。いつからそんな会話のシステムになったんだと内心でツッコミを入れながら、ウェイトレスが間違ってやってこないうちに私は発言の権利を授与する。


「はい、何ですかおぼろくん」


「あの、昨日……昨日のことなんだけどね。その、色々してもらってアレなんだけど、なんていったらいいか、えっと」


「いいよいいよ、本当に気にしなくていいってば。こうしてお礼にご馳走してもらってるわけだし」


「あぁ、えぇっと……うん」


 返事というよりただのうめき声だった。他にも何かいいたいことがあるようだ。上目遣いでじっとこちらを見ている。こんなご馳走だけじゃ気が済まないとでもいうのだろうか。

 私は食べるのをやめ、スプーンを置いた。


「あのね、小春ちゃん」


 迫り出してきたおぼろくんの上半身が倒しそうになったグラスを、私は間一髪のところで掴まえる。さらに接近するおぼろくんの顔。私のためだけに用意したとっておきの内緒話を披露するような親密な距離感。

 私はグラスを掴んだまま、おぼろくんの唇が再び動き出すのを待った。


「昨日のこと、できればその……誰にもいわないで欲しいんだ」


 こちらの真意を見定めようと細くなる目から、思わず顔を背けた。

 おぼろくんで満たされ続けていた視界に、わらわらと見知らぬ女子高生の姿が流れ込んでくる。どの席もそれぞれに楽しげで、忙しそうなウェイトレスまでにこやかだ。甘いもので満たされた幸せな空間で、こんな気分に浸っているのはきっと私だけだろう。


 夢にまで見たデートらしき状況に浮かれていた心が、速やかに所定の位置に戻ってくる。まだ踊っているみたいな鼓動の余韻が惨めだ。グラスから手を離す。水滴だらけの手のひらで、スカートを力いっぱい握り締めた。


「いうわけないよ」


「そっか、ありがとう。小春ちゃんがそんなこといいふらす人だとは思ってなかったけど……安心した」


 前のめりだったおぼろくんが、ひとことごとに元の位置に帰っていく。言葉とは裏腹に、その表情は「いわないで」と懇願していたときと何も変わっていない。鈴木くんと喋るときとは大きくかけ離れた緩慢な口の動きだった。堪え難い違和感が、胸に焼きつく。ころころと形を変えるおぼろくんの唇が好きだった私は、ひどくがっかりした。


 お礼といっておきながら、本当はこのことがいいたかっただけなのかもしれない。私のことを信じていないんだ。あのとき、好きだと伝えたはずなのに。好きだからただ力になりたいだけなんだと、やましい気持ちがないことを証明したくて、一世一代の告白をしたのに。


 唇を噛むと、バニラの味がした。場違いな甘さで、頭に血が上りきる前に力が抜ける。目が覚めた。今は感傷に浸っている場合じゃない。


『気持ち悪くないの?』


 あのときのおぼろくんの顔が甦る。もう、同じ後悔は繰り返したくなかった。


「本当に私、絶対に誰にもいわないよ。口どころか体が真っ二つに裂けても、絶対絶っっ対、いったりしないよ!」


 だからお願い、そんな顔しないで。

 祈りを込めて、懐疑の色が消えないおぼろくんの瞳を直視する。これは私に向けられてる目なのだ。反らさず受け止めるべきだと思った。


 でも、すぐに視線は合わなくなった。食べもしないくせに、俯いたおぼろくんはほったらかしにされたパフェを見ている。原型をなくしたアイス。分離する生クリーム。ふやけたコーンフレーク。変色したバナナ。沈むバームクーヘン。まるで自分の心の中を覗いているみたいだった。


「変なこといってごめん。アイス、溶けちゃったね」


 パフェに語りかけるその声はとても小さかったけど、穏やかに澄んだ私の大好きなおぼろくんの声だった。


「平気平気、ちょっと溶けたくらいが食べ頃だもん」


 スプーンを持つのももどかしくて、私は巨大な器の柄を持ち上げ、そのまま傾け口をつけた。一気に飲み干してくれるわ、ガハハハハハ! と、ひとり胸の中の士気を高めパフェを煽る。


 生ぬるいドロドロが、食道に纏わりつきながら胃に落ちていく。何かが喉につかえた気がしたけど、構わず流し込んだ。胃に迫る苦しさで、自分はいったい何をしているんだろうと我に返ったときにはもう、シャンデリアの中は空っぽだった。


 テーブルの真ん中に器を戻すと、おぼろくんの視線は私に戻っていた。見開いた目で、指先だけの控えめな拍手を送ってくれている。


「すごい、完食しちゃった」


「ご馳走さまでした。ありがとう、おぼろくん。美味しかった」


「こちらこそ、残さず食べてくれてありがとう」


 おぼろくんがこちらに手を伸ばしてくるから、握手を求められているのかと思った。しかし、その手には白いものが乗っかっている。傾げかけた首を慌てて戻し、差し出された紙ナプキンを受け取った。

「お口、拭きなさい」と母親口調で諭すおぼろくんを想像したら、少し愉快な気持ちになる。込み上げてくる笑みを押さえつけるようにちまちまと唇を拭うと、おぼろくんは満足気に頷いた。


「じゃ、出ようか」


 いい終わる前に、おぼろくんはいそいそと席を立った。俊敏な動作でレジに直行する後ろ姿は、何かから逃げているようにも見える。置いてけぼりにされた私は、テーブルの下でふにふにとお腹を撫でた。


 壊れるなよ、頑張れよ、頼むよ、ちゃんと消化してよ、と皮下脂肪の上から臓器にいい聞かせる。せっかくおぼろくんがご馳走してくれたんだから。しっかりと血肉になってもらわなければ困るのだ。


 おぼろくんが財布を鞄に納めるのを見届けてから、私も席を立つ。ご馳走になるときに会計に立ち会うのはマナー違反だと、以前鮎子がいっていたレディの嗜みを思い出していた。


 値段は分かりきっているけど、私は鮎子のいい付けを守る。密かにお土産を買っている場合もあるから、そういう素振りを感じ取っても気付かぬふりをして、いざ渡されたときは大袈裟に喜ぶものだともいっていた。だから私は、見て見ぬふりをして先に店を出た。


「どうもご馳走さまでした」


「いえいえ、どういたしまして」


 店から出てきたおぼろくんは、案の定、中に甘いものが入っているとひと目でわかる白くて細長い紙箱を手にしていた。さすがにもう生クリーム系は厳しいなぁと思いながら、私は箱の存在に気付かぬふりを続ける。するとおぼろくんは、私の目の高さに箱を掲げた。


「あの、これ」


「わぁ、嬉しい! ありがとう!」


 私は胸の前でパチンと手を合わせ、その場で二回ほどジャンプする。十分に喜んでから手を伸ばしたはずなのに、おぼろくんは名残惜しそうにして箱から手を離さない。


「えっと……お兄さんと、一緒に食べて?」


「あっ! あぁお兄ちゃん。そうだよね、お兄ちゃんにだよね」


「ううん、いっぱいあるから、みんなで食べて」


「いやいやいや! 私は今、たらふくご馳走になったもん。うん、だからお兄ちゃんに渡そう。そうだ、今日お休みで家にいるんだった。そうだよそうだよ、早速渡しに行こう」


 恥を上書きしようと矢継ぎ早に捲し立てる。そしておぼろくんの手首を掴み、私はまた無理やり引きずるようにして走り出した。手を握れない根性なしなところも、昨日と何も変わっていなかった。

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