1-3
「おまたせ小春ちゃん。車の鍵取ってくるから、椿ちゃんと一緒にもうちょっと待っててな」
兄はおぼろくんの肩に手を置くと私の隣に座らせた。返事もしていないのに、兄は目を細めひとり頷きながら、さっさと奥の扉へ消えていく。隣同士で取り残された私たちは、どんなことを話せばいいというのだろう。
隣でかしこまる人物の、きなこ色のミディアムボブヘアーを、見事にカールした長いまつ毛を、華やかに色づいた頬を、透き通るように光る桃色の唇を、次々に凝視する。
これが本当におぼろくんなの? という疑惑のせいか、私はいつもの私じゃなくなっていた。だって、こんな至近距離から、それも肉眼で、おぼろくんをまじまじと眺めている。それなのに、ドキドキともきゅんきゅんともせず、心臓もいつになく彼に無関心だった。
おぼろくんは私の視線にはにかみながらも、顔を伏せたりはしない。ほんの一時間前に街路樹の下で見つめ合ったときとは比べ物にならないほど、ひとまわり大きくなったその目は輝いていた。
ちゃんとした女装に変わっていた。罰ゲームかと思った姿が遠い幻のようだ。毛玉が浮かぶカーディガンも、ひなびたワンピースも、それなりの品に見えてくる。さっきより高めの位置にある頬紅が、何より私の目を奪った。オカメインコが人間に生まれ変わったら、きっとこんな姿をしているのだろうと、私は大真面目に小鳥と長身のおぼろくんを重ねた。
もともとおぼろくんの顔は、人より何かパーツが足りていない気のする慎ましさがあって、男だか女だか決め手に欠ける印象だった。だから、恐れていたより違和感はなかった。それどころか、男でも女でもない、神聖な雰囲気を纏っていた。
おぼろくんの足りていなかった部分を見つけ出し、見事付け加えることができた兄は、私が考えていたよりよっぽど敏腕な美容師なのかもしれない。
「お代、いくらかな」
桃色の唇から紡がれた言葉は、いつものおぼろくんと変わらない声色をしていた。思い出したように、心臓が急激に脈打ち始める。
私は今、おぼろくんに話しかけられたのだ。今年の春、教室で出会ってから、私たちは一度も口を利くことなく夏を迎えた。そして今、おぼろくんは初めて私に話しかけた。その重大な事実に、きっと本人は気付いていないのだろう。
長いまつ毛を思う存分はためかせながら小花柄の財布を取り出し、「いくらかなぁ」ともう一度同じことを聞き返してくる。初めて交わす会話がお金絡みだなんてロマンの欠片もないのに、一度目よりも柔らかさに磨きのかかったその声で、私はうっかり幸福な気持ちに包み込まれてしまった。
「いいのいいの! 私が勝手に連れてきたんだから」
「そんなことないよ。連れてきてくれて、感謝してる」
「感謝だけで十分だよ。お兄ちゃんも、私の知り合いからはお金なんて取れないって
いっつもいい張るし」
いい切ってから、ただのクラスメイトなだけなのに、軽々しく知り合いだなんておこがましかったんじゃないかと慌てた。
「ほ、ほら鮎子! 鮎子もね、こないだお兄ちゃんに切ってもらったの。だけどお兄ちゃんはやっぱり支払い禁止っていい張って、でも鮎子は払うって粘り返すし、レジでもう散々揉めたんだけど、結局お兄ちゃんの勝ちだったんだから。……あ、鮎子っていうのは」
「うん、川島さんだよね。学校でも仲良しだもんね」
たちまち私の胸はいっぱいになって、返すべき言葉を見失ってしまった。心の中では、「そうそうそうだよ川島鮎子!」と力いっぱい叫んでいるもうひとりの自分がいるのに、おぼろくんの前に存在している私は、ただ黙って頷くことしかできない。
おぼろくんの一番の仲良しが鈴木くんであることを私が密かに熟知しているように、おぼろくんもまた、私の一番の仲良しが川島鮎子であることを知ってくれていたのだ。
「でも、こういうのって高いんじゃない?」
私の感動を置き去りにして素早くお金の話に戻るおぼろくんは、頭にかぶされた毛の塊を指先でいじっている。値段を推し量っているようには見えず、憂いを帯びた乙女の仕草に映った。その毛の塊がいくらなのか見当もつかないくせに、私は勢いに任せていい包めに掛かる。
「大丈夫、そういうのって客に売るときばっかり高いんだから。原価なんてきっとびっくりするくらい安いんだよ。だから、気にしないで、本当に」
「いや、でも。こんなによくしてもらって、ただってわけにはいかないよ」
「いいの。いいったらいいの! 鮎子とも散々やったんだから、このやり取り。おぼろくんは素直に引き下がってよ」
「……なんだか、申し訳ないけど。それじゃあ、お言葉に甘えて。どうもありがとう」
「お礼なら、私じゃなくてお兄ちゃんに」
「うん、でも。本当にありがとう」
自分自身のくぐもった声と、おぼろくんの鼻声が交互に響く。不思議な気分だった。至近距離にあるおぼろくんの顔が綻んでいる。学校では見たことのない、特別な笑顔。贔屓目なんかじゃなく、素直に可愛いと思った。
この地球上で一番可愛い生物は、黒い柴犬だと十六年間信じて疑わなかったけれど、それは間違いだったのかもしれない。
目の前にいるのは絶世の美女? それとも絶世の美男? おぼろくんの微笑みの虜になりながら、答えの出ない難問を頭の中で持て余す。
もう、どちらでも構わない。絶世のおぼろくんが、私に笑いかけてくれている。それだけで、何もかもが超越してしまった。今すぐ誰かに親切をして、この胸の温かさをおすそ分けしたい気分だ。自分ひとりでは抱えきれないほど、幸福感がとめどない。
「どうしてこんなによくしてくれるの? 僕のこと、気持ち悪くないの? 変態だよ?」
言葉尻の濁った声で我に返ると、さっきまであったはずの笑顔が消えていた。艶やかな桃色が台無しになるほど唇を硬く閉じ、口紅よりもよく光る黒い瞳でじっと私を見据えている。幸福な気持ちはすぐに消滅した。
私がおぼろくんを気持ち悪いだなんて思うわけがない。だからこそ、警戒するような視線が胸に堪えた。
「私、おぼろくんのことが好きなの! だから、力になりたいの!」
必要以上に大音量で飛び出した自分の声に怯みながらも、最後まで声を緩めずいい切った。おぼろくんは、視線と一緒に顔まで伏せて「ありがとう」と呟くだけだった。今日二度目の猫背の理由が、「気持ち悪くないの?」という問いに答えなかったせいかもしれないと気付いても、何と言葉を続けたらいいのか分からなくなった。
背中を丸めたままのおぼろくん。肩の力は抜け落ちているのに、両手には筋が浮き出るほどの力が込められていた。その手の中で握りつぶそうとしているものはなんだろう。
力む拳に手のひらを重ね、「おぼろくんが気持ち悪いわけないじゃない」と優しく諭す自分の姿を思い浮かべる。だけど想像の中のおぼろくんは浮かない顔をしたままだったから、行動には移せなかった。
そっと重ねるべきだったかもしれない手を、自分の膝小僧にすり合わせ後悔する。好きだなんて、いわなきゃよかった。私が気持ちを伝えたところで、おぼろくんが喜ぶわけがないことくらい分かっている。私はただ――。
「ごめーんおまたせ。さぁ帰ろう」
涙がこみ上げてきそうになった刹那、気まずさを打ち消すのんきな声が響いた。顔を上げると、鞄を背中に引っ掛け帰り支度を終えた兄が立っていた。角ばった帽子をかぶり、縁ばかりが立派なレンズの小さい眼鏡を掛け、ちっともごめーんと思っていなそうな緊張感のない顔をしている。
隣では、いつの間にか立ち上がっていたおぼろくんが丁重に頭を下げていた。頭に取り付けられた毛の塊が落下しそうなほどの低姿勢だ。
「今日は本当に、どうもありがとうございました」
「どういたしまして。またいつでも遊びに来てね。待ってるからさ」
兄は鮎子にも掛けていた言葉を口にしながら、顔を上げたおぼろくんの前髪にさりげなく触れた。瞬きもせず固まってしまったおぼろくんとは対照的に、軽快に動く兄の指先は乱れたきなこ色の前髪を整えていく。
髪の隙間から覗く白いおでこを完全に隠した兄は、「できた」とか「直ったよ」という代わりに、「か、可愛い!」と情感たっぷりに絶賛した。おぼろくんがどうこうというのではなく、自分の仕上げ具合に満足した風の口調だったのに、おぼろくんは顔中を赤く染めて目を泳がせている。
その姿を見て私は、気持ち悪いわけがないじゃないかと、もう一度強く思った。
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