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「どうも初めまして、小春ちゃんのお兄ちゃんの山本秋夜やまもとあきやです」


 うら若き男子が日も暮れぬうちに女装! という由々しき事態で、私は息の吸い方も忘れかけるほど訳の分からない感情が高ぶったというのに、兄はおぼろくんを前にしても平然としたいた。

 

反対におぼろくんは、唇を開いたり閉じたりするばかりで何の言葉も発しない。私と兄の顔を交互に見やり、美容室全体を猛スピードで見渡したかと思ったら今度は突然俯いて、忙しなく彷徨った視線は最後にまた私の元に戻ってきた。

 無理もない。無言のまま強引に連れ込まれたのだから。


 見つめられることに慣れていない私の脳は、どんどん働きが鈍くなっていく。兄とおぼろくんという珍しいツーショットで満たされた視界。兄の色が抜け切った銀色の髪の毛と、おぼろくんの真っ黒い頭で、目がチカチカしてきた。

 私は瞬きを繰り返し、無理やり脳みそを叩き起こす。


「えぇっと、彼は、クラスメイトのおぼろくんです。席が、隣同士で……」


「お、朧椿おぼろつばき、と申します。隣に座らせて、もらっています」


 私の言葉で思い出したかのように、おぼろくんは細切れな早口で自己紹介をした。兄に向かって深々と頭を下げると、嘘くさいロングヘアーがはらりと耳から滑り落ちる。ただの挨拶とは思えぬほど、厳かな一礼だった。


 ああ、おぼろくん。頼むからそんな顔をしないでと、たまらない気持ちになる。これまで隣の席から見続けてきたおぼろくんの爽やかな横顔が、へんてこな化粧で深刻な表情をした新種の顔面に凄まじい勢いで侵食されていく。

 いつもと違いすぎるおぼろくんを前にしても、心臓のうねりが治らない。冷房の効いた店内に入っても、一向に汗が止まらなかった。


「へぇ、椿ちゃんっていうんだ。綺麗な名前だね」


 兄は同意を求める様子で、私に視線を向けてくる。男の子をちゃん付けで呼んでしまう度胸にたじろぎながら、私は全力で頷いた。それなのに褒められた本人は、私とは真逆の方向に首を振った。水気を飛ばす犬じみた、細かく激しい首の動きだった。


 否定的な反応に私は唇を噛み締める。おぼろくんの名前は、とても綺麗なのに。おぼろ、つばき。私はこの六文字を、一日の内に何度も心の中で反芻している。たまに椿の部分を小春に変えてみて、とろける響きに浸ったりもする。


「クラスメイトってことは、小春ちゃんと同い年かぁ。高校一年生には見えないね。背も高いし、スリムだし、モデルさんみたい」


 奇天烈な女装には一切触れず、兄はおぼろくんを持ち上げる。モデルはさすがにいい過ぎたと思ったのか、「カットモデルになってもらいたいくらい良い髪質だなぁ」とさりげなく訂正した。だけど下半分は付け毛だということに気が付いて「理想的な位置にあるもんなぁ、最高に良い巻き加減だ」と最終的にはつむじを褒めた。


「うーん、じゃあどうしよっか?」


 辺りを見回した兄が小声で尋ねてくる。つられて店内に目を向けた私は、店中の視線がこちらに集まっていることに気が付いた。そこまで混雑していないといはいえ、店員とお客を含めた十以上の目玉がこちらに向いてしまっている。おぼろくんは注目の的になっている自覚があるようで、床に散らばる髪の毛ばかりを見ていた。


 不躾な視線を断ち切りたくて、私はおぼろくんの前にでーんと立った。人生初の、仁王立ち。背の低い私じゃ遮りきれなくて、おぼろくんの上半身は相変わらず視線に晒されたままだったけど、そうせずにはいられなかった。


「お兄ちゃん! おぼろくんを、もっと綺麗にしてあげて」


「はーいかしこまりました。では、どうぞこちらに」


 待ってましたとばかりに兄が入り口に一番近い席を手のひらで示すと、おぼろくんはいわれるがまま大人しく着席する。背筋を張った美しい姿勢。それきり、自転車の前かごに入れられた犬のようにじっと動かない。

 自分が仕組んだことなのに、私は目の前の光景に感動を隠せなかった。


 ただ席が隣同士なだけで一度も口を利いたこともないクラスメイトに、何の説明もないまま無理やり連れ込まれた美容室だよ? と、心の中で問いかける。そんな場所にあっさりと腰を落ち着けてしまうおぼろくんは、なんて素直な人なのだろう。

 もう見つけ尽くしたと思っていた魅力を、また新たに発見してしまった。


 お兄ちゃん、どうかおぼろくんを何とかしてあげてね。おぼろくんの首元に仕込まれていくタオルを見つめながら、強く念じる。兄が毛除けのケープでワンピースを隠すのを見届けると、私は待合席の端っこに座った。


 ここだと鏡越しに二人の顔がよく見える。鏡の中のおぼろくんは兄を見上げ待っているのに、兄は自分の髪の毛をかき上げるばかりだ。美容師なんだからいつでも自分で切れるはずなのに、目に刺さりそうなほど長い前髪をしている。そんな邪魔な髪、私がこの場でちょん切ってしまいたい。


「まずはちょっとこれ、外させてもらうね」


 ようやく自分の前髪から手を離した兄は、おぼろくんの長い後ろ髪に触れた。


「はい。どうぞ……」


 風邪の引き始めのような、鼻に掛かったおぼろくんの声。小さいけれど、普段と変わらぬ声。いつまでも聞き慣れることのないおぼろくんの鼻声は、今日も私の耳に甘く忍び込み、鼓膜をちりちりとくすぐった。


「お、良い髪型。綺麗にしてるね」


 ロングヘアーの付け毛が取り払われると、見慣れた坊ちゃん刈りがあらわになった。やっぱり、おぼろくんにはこの髪型が一番似合う。


「この前、切ったばかりなんです」


「そっかそっか。うーん、じゃあどうしようかな」


 触れてみたいと密かに憧れていた刈り上げ部分を、兄はいとも簡単に撫でた。それも、何度も。手触りが気に入ったのか、考えるふりをしながらなかなか手を離さない。黙って撫でられている彼は、相変わらず背筋を伸ばし硬直している。頭の上に本を乗せても、きっと落とさずにいられるだろう。

 見ているこっちまで背中が強張っていることに気付いて力を抜いた途端、耳を疑う言葉が飛び込んできた。


「椿ちゃんはさぁ、どうして女の子の格好をしてるのかな?」


 人当たりの良さそうな、それでいて隙のない笑みを浮かべた兄は、「痒いところはございませんか?」という美容師おきまりの台詞を持ち出す自然さで核心を突いた。私も、ありふれた世間話を聞く気軽さでおぼろくんに注目する。

 鏡の中のおぼろくんは、兄ではなく私を見ていた。目が合ったことより、濁りのない澄んだ瞳に動揺した。


「心の中は女の子、っていうタイプなのかな?」


 交わっていた視線は、言葉を続けた兄に奪われてしまった。笑みを残したままの兄と、上目遣いのおぼろくんが、鏡越しに見つめ合っている。


 おぼろくんは答えづらくて躊躇しているのではなく、答えが分からなくて困っているように見えた。頼りなく潤む瞳が、数学の教師を前にした教室での姿と重なった。汚い言葉など発したことがなさそうな薄い唇は、一向に動こうとしない。


 私は傍らの雑誌に手を伸ばした。おぼろくんの答えに興味がないという態度を決め込みながら手の中に目を落とした瞬間、全神経が聴覚に集中される。

 盗み聞きは得意なのだ。おぼろくんの声なら、どんなに騒がしい中でも聞き漏らさない自信がある。そう思っても、わずかでも雑音が立つのが怖くて雑誌のページをめくることさえできなかった。

 頭上から降り注ぐジャズより、あちこちから響くドライヤーの風より、自分自身の心臓の音が一番うるさい。


 心の中は、女の子。兄の声が頭の中をしつこく駆け巡る。ファッション誌の表紙を飾る百点満点な笑顔のモデルを凝視しながら、その言葉の意味を考えた。

 体は男の子だけど、心の中は女の子。だから、ワンピースを着る。だから、化粧をする。女装が趣味の変態男という私の安直な想像より、兄の問いかけのほうが理に適っている気がした。それなのに、この釈然としない気持ちはなんだろう。


 不安になって、私は雑誌から視線を上げた。開けた視界の先に、丸まった背中が見える。さっきまであんなに背筋を伸ばして座っていたのに。そう思ったら、質問の答えが聞きたいという願いが、早くおぼろくんの声が聞きたいという目先の欲望にあっさりとすり変わった。


 猫背のおぼろくんを見るのは初めてだった。背中を曲げて、首を垂れて、白いうなじが無防備で、今までそんな彼の姿を見たことがなかった。いつも正しい姿勢のおぼろくん。丸まった背中からは、一体どんな声が出るのだろう。馴染みのないシチュエーションに、胸が馬鹿みたいに高鳴った。


 兄が何を聞いていたかなど忘れてしまうほどの長い沈黙の末、おぼろくんは口を開いた。満を持して放たれた答えは、「はい」という消え入りそうな声だった。脳みそを素通りして鼓膜の中ばかりをぐるぐる回り続ける。

 はい、はい、はい、はい、はい。緊張感漂うおぼろくんの返事は、今まで聞いてきたどの声よりも、深く心に沁み込んだ。


「そっかそっか。うん分かった、ありがとう。よぉーしそれじゃあメイク、一度落とさせてもらうね」


 兄は長袖のワイシャツを勢いよく捲り上げる。答えを聞いて本気を出したのか、鏡の中の兄は真剣な眼差しだった。そんな怖い顔でおぼろくんを見ないで欲しいと、私はふやけた頭で考えていた。

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