はんぶんこの、おぼろくん

犬飼鯛音

はんぶんこの、おぼろくん

1 絶世のおぼろくん

1-1


 最近私は、頻繁に髪を切る。学校でおぼろくんと隣同士の席になったからだ。美容室に向かっている今も、ちょっぴり伸びた前髪が気になって仕方がない。理想は、分度器で直角が計れるくらいのきっちりとしたおかっぱ頭なのだ。


 だけど自然と早足になるのは、乱れた前髪のせいじゃない。私は、何度来てもこの場所に馴染めなかった。自分だけが周りから浮いているような気がして、いつも全身が痒くなるのだ。


 普段着お断り、といった高飛車な空気が流れる通りに、兄の勤める美容室がある。寝巻き大歓迎な私たちの地元からたった30分電車に揺られるだけで、こんなお洒落な場所に辿り着いてしまうなんて未だに信じられない。


 すれ違う人たちだってほら、みんな胸を張っている。蝉がうるさく鳴いているというのに誰もが涼しげな顔をしていて、慣れない早歩きで汗を流しているのは私だけだ。髪の毛をくるくると巻いて、ヒラヒラのワンピースを着たお姉さんを見つけるたび、私の足は加速する。


 わざわざ家に帰って、制服からお気に入りのブラウスとキュロットスカートに着替えてきたのに。上品極まりないブランド店のショーウィンドウを見ると、無駄な努力を思い知らされる。


 けやき並木を背景にしてガラスに映り込んだ自分の姿は、汗で額に張り付いたおかっぱ頭がヘルメットじみていて、探検に赴く冒険家のようだった。一度そう見えてしまったら、ぶらさげたショルダーバッグも探検道具のひとつにしか見えない。中には手作りのサンドイッチが入っている。


 ずり落ちてくる靴下を片足ずつ引き上げるたび、バッグは肘やら肩やらあちこちに接触していた。中身は無事だろうか。上から撫でてみても分かるわけもなく、私は歩く速度を少し落とした。


 カット料金代わりの大事なサンドイッチだった。兄は、決して私からお金を取らない。ちゃんと取ってくれたほうがお客として通いやすいのに、七つも歳が離れているせいか、頑なに私を子供扱いし続ける。もう立派な十六歳なのに。


 垂れてきた汗を拭いながら、けやきの木陰に隠れる。すると蝉の声が一層強まった。蝉の合唱だけは、この街も私の街も同じだ。日暮れが近づいているのを知ってか知らずか、蝉たちはまだ元気に鳴き続けている。


 だけど、地面に転がっている蝉もいた。ぺしゃんこに潰れた死骸も嫌だけど、ただひっくり返っているだけのように見えて、本当はもう生きていないというのも嫌だった。夏はまだ、始まったばかりだというのに。


 私はできるだけ下を見ないようにした。でも視線を上げると、くるくるなお姉さんたちと目が合いかねない。どうしたものかと目玉をあちこちに動かしていたら、蝉の死骸より、くるくるお姉さんより、もっとすごいものをけやき十本ほど前方に発見してしまった。


 レースでできた純白の日傘をゆっくりと回転させながら悠然とこちらに向かって歩いてくる人物に、私の目玉は吸い寄せられ、頑丈に固定された。同時に足まで固まって、立ち尽くすことしかできない。長い指で日傘の柄を回し続けるその人物は、淑やかな足取りでどんどん近づいてくる。


 彼は、まったく上手くいっていない、男丸出しの女装をしていた。付け毛を取り付けご満悦といった具合にロングヘアーをシャラランと揺らし、密やかな笑みを湛えている。その顔には日の丸の国旗みたいな頬紅に、唐辛子にも負けない攻撃的な赤い口紅といった、極端な化粧まで施されていた。


 首元には皺だらけのスカーフ。首から下は、魚肉ソーセージ色のカーディガンと、丈の合っていない白いワンピース。そして足元だけは男物の革靴という衝撃のコーディネートだ。


 不自然な女装姿とはいえ、私がおぼろくんを見間違えるはずがなかった。背は高いのに足は短いアンバランスな体系が、おぼろくんだった。

 見ているほうが疲れてしまう真っ直ぐな背筋も、日傘の柄を弄ぶ柔らかな指先の動きも、腿を擦り合わせるように進む優雅な足取りも、ひょろりとした体系に不釣り合いな大きな靴も、どれも完璧に見覚えがある。


 何より、遠くを見るとき眩しそうに目を細める眉間の動きが、おぼろくんそのものだ。そうして彼は、黒板の文字を追ういつもの眼差しで私を見ていた。


 目が合うなり、ひどく後悔した。回っていた日傘も、踊っていたロングヘアーも、こちらに向かっていた足も、その瞬間すべてが止まってしまったから。

 微妙な距離を保ち、私たちはしばらくの間見つめ合った。激しく脈打つ心臓を持て余したまま、遠くにある顔が瞬く間に曇っていく様を観察した。ほとんど泣き出しそうな顔になりながらも、おぼろくんは目を反らさない。


 私は、恐る恐る歩を進めた。一歩踏み出すごとに、鮮明になる彼の顔。べっとりと塗られた口紅は、ナポリタンを盛大に食べた子供みたいに、唇から赤がはみ出していた。


 私はこの不出来な女装が、友達同士での罰ゲーム的な悪ふざけなのだと思った。だけど、おぼろくんの消沈しきった顔を目の当たりにして、見てはいけないものを見てしまったのだと確信する。それなのに、見ていたテレビのチャンネルが不意に変えられたときのような、薄っぺらい絶望しか感じなかった。


 好きな男の子が、女装が趣味の変態男かもしれないとしても、それどころじゃない。何かを嘆く隙もないほどに焦っていた。何とかしなければいけない。おぼろくんをこのままにしてはおけない。

 気が付いたら私は、彼の手首を掴んで走り出していた。

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