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 冷房の効いた店内から一歩外へ踏み出すと、すぐに生暖かい外気が体に纏わり付いてくる。急激な温度差よりも、外の暗さに驚いた。いつの間に日が落ちていたのだろう。店に入ってからずっとおぼろくんばかりを見ていて、外の様子なんて気にも留めていなかった。


 お洒落で活発な印象だった街も、日が落ちると共に落ち着いた大人のムードを漂わせている。通りには、くるくるヒラヒラなお姉さんに加えて、着物を着こなすやけに頭をこんもりとさせた和服美人まで登場し始めていた。


 でも、私は目を伏せなかった。日暮れ前に、おぼろくんと出会った場所を見た。夢じゃないかなぁと、現実だと分かりきっているのに考えてみる。

 そうして私は、夢のようなひとときを胸に閉じ込めようとした。ひとつも零さぬように、少しも傷つけぬように。


「おーい小春ちゃーん! 行くよ、おいでー!」


 飼い犬を呼ぶような浮ついた声で、一気に現実に引き戻された。大声で周りの視線を引き寄せた兄はそんなことにはお構いなしで、相変わらず犬を誘う手付きで手招きをしている。

 自棄になった私は、大人の魅力溢れる街のど真ん中で、「はーい」と両手を掲げ返事をしてみた。だけど大きな声を出しても、心の奥にある靄は晴れない。


 兄の車が待つ駐車場に向かうため細い路地に入ると、辺りの様子は一変する。人通りもなく、続々と漏れ出していた店の照明も届かない。あるのはまばらな街灯と頼りない月明かりだけ。私はふたりの少し後ろについて歩いた。


 さほど身長差はないはずなのに、兄の隣を歩くおぼろくんは小さく見える。薄暗さも手伝って、薄めで見れば華奢な乙女だ。足の踏み出し方も、手の振り方も、同じ男であるはずの兄とはまるで違う。おぼろくんの心の中にいる女の子を垣間見た気がした。


 それでも、こんなことぐらいでおぼろくんに対する気持ちが冷めるわけもなく、学校では拝めない姿を目に焼き付けることに必死だった。暗闇に浮かぶ白いワンピースは幻想的で、密やかな月明かりによく似合う。

 気持ち悪いわけないよと、私は心の中で繰り返した。いえなかった言葉が、ずっと喉の奥に引っ掛かっていて息苦しい。


「じゃーん! これ、お兄さんの車」


 駐車場に着くなり、兄はまだローンの残る軽自動車のサイドミラーを撫で回した。何の変哲もない小さな車を得意げに紹介されたおぼろくんは、急にうろたえ始める。


「あの、僕、そんなつもりじゃ……大丈夫です、ひとりで帰れます」


「そんなこといわないでよ。ここまでついてきちゃったんだしいいじゃん、乗っていきなよ」


「とんでもないです。こんなに良くして頂いた上に、送ってもらうなんて、そんな馬鹿な」


 本当に驚いた様子のおぼろくんは、助けを求めるように私を見た。じゃあどんなつもりでここまでついてきたんだろうと考えて、少し可笑しくなった。おぼろくんは案外、間が抜けている。


「もうこんな時間になっちゃったし、一緒に帰ろうよおぼろくん」


「そうだよ。こんな真っ暗な中、女の子ひとりで帰すわけにはいかないって」


 おばさんに向かってお嬢さんと声を掛ける以上の大胆で際どい発言を、兄は微笑みながらあっさりと放つ。女の子といわれた男の子は、一瞬白目を剥いてから、か弱く首を振ると俯いた。それは恥じらう乙女の表情そのもので、見ているこっちまで恥ずかしくなってくる。


「さぁ椿ちゃん、乗って乗って」


 兄の低い声で聞いても、おぼろくんの名前は相変わらずとても綺麗な響きだ。普段ならお気に入りの女の子しか乗せない助手席のドアを、兄は気前よく開いた。


「ありがとうございます。でも、ひとりで平気です」


「いいから、遠慮しないで」


「本当に大丈夫です。家も、そんなに遠くないので」


「近いんならなおさら遠慮することないって」


 一向に乗車しないおぼろくんの困り果てた表情を見て、ふと思い当たることがあった。もしかしたら、その姿で街を歩いてみたいのかもしれない。あんな完成度の低い姿でも、外へ出ずにはいられなかったのだ。このまま家に直行するなんて、シンデレラの魔法が解けるには早すぎる。


 でも、盛り上がりを見せるふたりの攻防がそれなりに楽しげだったので、口を挟まずしばらく見守った。「もーう、恐縮しちゃって可愛いなぁ」とか「でも謙虚な女の子は嫌いじゃないよ」とか「困った顔もチャーミングだなぁ」とか。

 兄が本気でいっているのか、からかっているのか判別の難しい発言をするたび、おぼろくんはいちいち目を白黒させる。こんなおぼろくんを見るのもやっぱり初めてで、私はその白目の白さにまで胸を焦がした。


「あぁっ! やっぱり送らせて! こんなに可愛いんだから、危険な男に襲われたりしないか、お兄さん心配!」


 兄は過剰だ。それなのに、息を吸い損ねたのか「んごっ」と豚のように鼻を鳴らし翻弄されているおぼろくんは、気を悪くしているようには見えない。頭の中に、黒い影が現れた。じわじわと湧き上がる不透明な感情は、嫉妬によく似ていた。


「お兄ちゃん、車はやめてみんなで歩いて帰ろうよ。こんなに可愛くなったのに、家に直行じゃもったいないもん」


 攻防を続けるふたりに割って入ると、おぼろくんの目が輝いた。推測が的中したことに胸がふわりと踊りかけた矢先、その瞳はすぐに輝きを失った。見間違いじゃない。私の言葉に賛同し車の鍵をしまいかけていた兄の手も、異変を感じてポケットの入り口で止まっていた。


「えぇっと、どうしよっか。椿ちゃん?」


「じゃあお言葉に甘えて、駅までお願いします」


 私の言葉を素通りして、おぼろくんは勢いよく車に乗り込んだ。兄の無駄に活気の漲った声も、おぼろくんの鼻を鳴らす音も消えた駐車場は、途端に蒸し暑いばかりの陰気な場所に戻った。

 早々とシートベルトまで装着したおぼろくんの背筋は、弧を描いている。きっと、膝の上には握り締められた両手があるのだろう。


 気持ち悪いということを否定しなかった私が、今さら何をいっても届かないのかもしれない。おぼろくんのことがこんなにも好きなのに、彼の気持ちに寄り添うことができない自分が情けなくて悔しくて、今すぐ大声を上げて泣きたかった。

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