第10話 彼女の『疑惑』と、つむじ風の前兆。

 僕こと水面楽一は、何故か今日に限って異常なまでに早起きしてしまった。理由も何も、心当たりになりそうなことに全くもって見当がつかない。


 家にいても特にすることもないので、早めに登校することにした。学校の校門をくぐった際、校舎の壁に備えつけられた時計には、七時四十分。僕本来の登校時間の一時間前である。


 下駄箱で靴から上履きに履き替える。いつもなら吹奏楽部や軽音楽部の朝練だろう、聴こえてくる金管楽器の音色やドラムを叩く音が、今日に限って一切聴こえなかった。恐らく朝練が始まる前なのだろう、そう僕は納得した。


 相当登校が早かったようで、廊下を歩いても誰ともすれ違わない。それどころか、音すら僕が出している上履きの擦れる音だけだ。言いようのない違和感に僕は恐怖すら感じてしまった。



 教室の扉を開ける。すると......。


「っ⁉︎ 水面......君?」


「朝武さん」


 教室には朝武さんがいた。自分の席に座り、ノートに何か書き込んでいる。ノートと一緒に数学の参考書も机の上に置かれている。予習だろうか。


 朝武さんは少し驚いたような顔をすると、すぐにノートを閉じてしまった。机の上には数学の参考書だけが残っている。


「朝武さんっていつもこの時間からいるの? 流石は委員長」


 僕は思ったままを口にした。


「ううん。今日は偶然早起きしちゃったから......。水面君も......早起きしちゃったの?」


「ん......まあね。こんなこともあるんだなーって思うよ。もしかすると明日は雨かもね」


「明日の降水確率は二十パーセント。ほとんど降らないと考えていいと思うよ?」


 ごく真面目に返されてしまった。うっかりしていたと反省する。彼女は公良ではない。公良相手なら問題ない冗談でも朝武さんは違うかもしれない。いや、事実違った。


 適当に返事をすると、僕は自分の席に着いた。それ以上は朝武さんも何も言わなかったので、そこで僕たちの会話は途切れた。


 微妙な空気が教室中に流れているのが確かに分かった。それもどちらかというと嫌な方向に傾いた空気だ。僕は特にやることもなく、ただノートをぺらぺらとめくっていた。


 時計の針音、紙の擦れる音、椅子や机が体重で軋む音。小さな音が鳴れば鳴るほど、その沈黙の強さを如実に僕へと伝えてくる。


 ぎくしゃくした関係でないにもかかわらず、会話が続かないのは僕のせいだろうか......まあ、多分そうなのだろう。僕は人と会話すること自体が苦手だから。


 それでも、小学生の頃は幾らかましだった記憶がある。同性はもちろん、異性とも気楽に話していた。しかし、中学に入学した辺りから途端に人と話すことが不得意になった。何か意識する要素が生まれたようで、というより、要素を見つけてしまったと言うべきか。


 自分の話している相手が女子だ異性だと考えれば考えるほど、会話という行為に躊躇いを覚えるのだ。何故だか体の内から生まれる羞恥心が、僕の足を掴んで離さない。


 前述のような感情を抱かない人も当然いるが、それはほとんど例外に近い稀有な存在で、大半が僕と同類だろう(と自負している)。



「ねえ水面君?」


「はひっ」


「え? はひ?」


「い、いや、何でもないよ。それより続きを」


 途端にこれだ。少しでも意識すると舌が回らなくなる。自分に悪態をつきつつも、平然を装って僕は言った。


「いや......あの......ね?」


 朝武さんは下を向いてうなだれている。いつの間にか席を立っていて、もじもじと太ももを擦り合わせている。まるで雪のように白い太ももが、彼女の動きに合わせて跳ねるように揺れている。意図的でなく自然に出てしまった動作だろうが、僕には、そのさりげない仕草が扇情的に見えて仕方がなかった。


「この前......のことなんだけど......」


 この前のこと......。僕は無意識のうちに頭で思考し、その答えを導き出していた。この前とは、多分一昨日のことだろう。


 『lagoon』の発売記念イベント。朝武さんと偶然遭遇し、僕の優柔不断さのせいで変な雰囲気をつくってしまった、ある意味での黒歴史。


 それに、あの日朝武さんは途中で帰ってしまった。「用事があった」なんて急いで取り繕ったような理由、察しの悪い僕でも勘づく。


 ただいまいち釈然としないのは、それだけで、わざわざ見え透いた理由を繕ってまで帰るに至るのだろうかということ。


 人にはそれぞれ十人十色の感性があるわけだし、「彼女はそうなんだ」と言われたら仕方ないのだけど、本当に好きな作品のイベントなら、多少の想定外や障壁があったとしても居座るのがファンというものではないのだろうか......?


 どこかのアーティストだったり、誰かが書いた小説だったり......友達付き合いだとか、流行に乗るという目的以外で、自分から何かしらに熱中したことがない僕にはよく分からなかった。



「あ............あぁ、この前はごめんね朝武さん。気を遣わせちゃったみたいで」


 なるべく誠意が伝わるように謝った。そんな僕を、朝武さんは困惑と呼んで差し支えない表情で見ていた。意味がよく分からない、理解できないといった様子だ。やがて少しの間の後、意図を汲み取るように眉を八の字にしていた朝武さんが、多分わざとだろう、やや誇張気味に頷いてみせた。


「......別に気にしてないよ、水面君。別に行かなきゃ死ぬってことでもないしね。また次の機会にするよ」


 それに、と朝武さんは言葉を紡ぐ。


「水面君に言われるなら、謝罪の言葉よりも感謝の言葉の方が良いかな。感謝された方が私も報われた気分になるし......何より、水面君の気が楽でしょ?」


 僕は彼女の言葉通り、少しばかり気持ちが軽くなったような気がした。まるで、心臓にぶら下がった重しの内の一つが取り外されたようであった。


「そっか。......ありがとう」


「ふふ。いいえいいえ。お礼が聴けたから私は満足だよ」


 朝武さんは微笑んだ。彼女のかける眼鏡のレンズの向こう側にある目は、とても優しく感じられた。



「ところで」


 ふいにぽつりと。まるで話の流れを買えるように呟いた朝武さん。いや、実際変えようとしたのだろう。先程の柔らかい声色とは変わり、口調が強まったのを如実に感じた。


 いつの間にか開けられていた教室の窓から風が吹き入れた。窓の側にまとめられていたカーテンが、風に煽られ束ごと大きくなびいている。それに触発されるように、机の上に無防備に置かれたままの数学の参考書は、ページがばらばらと音を立ててめくれていった。


 参考書だけではなく、他の机に置かれたままのプリントも風の影響を受けて宙に舞った。ひらひらと舞うプリントたちは、まるで踊っているようにも、あるいは紙吹雪のようにも見えた。


 僕は開け放たれたままの窓を閉めようと、近づき窓のさんに手をかけた。




「社杜さんのこと、好きなの?」




「え」


「だから、社杜さんのこと..................好きなの? って聞いたの」


 僕は完全に硬直してしまった。何をどう返せばいいのか、会話の仕方、というものを刹那の間忘れてしまっていた。それくらい唐突な問い。


 僕は質問を何度も何度も頭の中で反芻はんすうした。どう解釈したところでからかわれているとしか思えない。が、しかし彼女の目にからかいの色は含まれていなかった。


 慈愛すら感じられる笑みを浮かべていたのはいつのことだったか。今は獲物を狙う女豹の如く、鋭く冷たい目つきで僕を見ていた。値踏みをするようなその目線には、なぜだか妙な迫力があった。


「......別に。好きとかそういうわけじゃ」


「ふぅん。ちょっと意外だな、てっきり好きなんだとばかり。だとしたら......公良さんかな?」


「あの......何でそんなことを聞くの? 社杜さん云々はともかくとしても、公良は関係ないと思うんだけど......」


 何かがおかしい。もちろん僕ではなく、目の前にいる朝武さんが、だ。


「関係あるよ、大有りだよ。私は君のことについて大いに興味があるの。有り体に言えば、君の恋愛事情を知りたいの、水面君」


 ......。呆気にとられたという表現がここまで適したことは未だかつてあっただろうか。僕は口を半開きにしたまま立ち尽くし、彼女の言葉の真意を探っていた。


『そ......そんなことを言うってことは、それなりに、少なからず僕に興味があるってことだよな⁉︎ いや、事実さっき彼女の口から聞いたばかりじゃないか!』


「あ、間違っても絶対勘違いしないでね、水面君。私はあなたの事情に興味を抱いているのであって、水面君自体に関してはそんなに興味はないの。その辺りを履き違えないでね」


 えっ、と言葉を漏らしてしまう僕。朝武さんは人の心を読むのが得意だったりする性質たちの人なのだろうか。


「別に。ただ水面君が全部喋ってくれたおかげ。それ以外のタネなんてないよ」


 いつの間にか言葉にしていたのか......? どうやら僕は、自分が思っているより数倍間抜けで阿呆らしい。にわかには信じ難いけれど、残念ながらそれが事実だ。


 僕は手持ち無沙汰になり、先の風で飛んで床に落ちたプリントを拾い始めた。いたずらに時間を使うというのは良くない。


 跪いてプリントを拾う僕を、朝武さんは何も言わずに見ていた。「一緒に拾ってくれない?」と促すと、彼女は「ごめん......そうだね」と言って、床に無造作に散らばる真っ白な紙に手を伸ばした。








「ダメだったんだ............本当に......何もかも......ハハハ」


「そ......そう。それは誠に残念だったね」


 自嘲気味に、自虐気味に、かつ自戒的に山田君(下の名前は知らない。聞きそびれてタイミングを見事に失った)は嘆いていた。どこからかやって来ては、僕の机に突っ伏してしくしくと泣いている。


 業間休み(授業と授業の合間にある、一言で言えば拡張版休み時間といったところだろう)の最中、僕の席を訪れた山田君は、何の前触れもなく突然僕の机に顔を埋めた。


 自分の机を半分以上占領された当の本人である僕はというと......。彼の話をただ黙々とと聞いて、それなりの相槌を返していた。本当なら押しのけたいところだけど、内容が内容だ、そういうわけにはいかないのが人情だ。


 そもそもなぜ山田君がこのような状態に陥っているのかというと、まあさほど複雑な理由はない。単純明快、失恋したのだ。


 昨日の一件の後、僕らの目が届かなかった場所......つまり帰りの電車で、彼は社杜さんに想いを伝えたようだ。


 しかし結果は玉砕。顔を真っ赤にした社杜さんは、「ごめんなさいぃぃぃぃぃ!」と叫びながら、電車を降りて行ってしまったらしい。一人残された山田君は、哀愁漂う雰囲気を醸し出していたという(本人談)。


「逃げられた......俺、思わず逃げちまうほど気持ち悪いのか⁉︎ こんなヤツと一緒にいるくらいなら、目的の駅の一駅前で降りてしまえと思えるくらいの醜さなのか⁉︎」


 涙を机に溜め、心の内に秘めた不満を撒き散らす山田君。僕の机が涙のせいで黒く滲んでいることに、彼は気づいていないのだろうか。まあどうせ気づいていないだろう。


「タ、タイプじゃなかった............とか?」


 なるべく彼を刺激しないように、当たり障りないように言葉を選んで言った。


「やっぱりっ‼︎ 俺はダメなタイプの人間だったんだぁぁぁぁぁぁ」


 つもりだったが、どうやら傷に塩を塗っただけのようだ。それだけでは済まず、その傷を更にえぐるようなマネを僕はしてしまった。


「あああっ! もうっ!」


 突然立ち上がった山田君は、凛とした、鋭く冷たく、しかし熱い視線を僕へと向けた。見下ろされた僕はぽかんと口を開けたまま、彼を見上げる。


「俺は諦めん......諦めへんで! 絶対社杜さんを惚れさせたるっ‼︎ ここだけは譲れへん!」


 高らかに宣誓。あるいは、戒めともとれる言葉を山田君は告げた。僕だけでなく、教室にいた他のクラスメートたちが一斉に山田君に視線を注ぐ。


 その中には彼を奇異であったり白い目で見る人もいたが(いや......。ほとんどだっただろう)、なぜか僕には彼がとても勇敢で素晴らしい精神の持ち主であるように思えた。


「............何で関西弁なの?」


 どこかシリアスな雰囲気でも、この質問をせざるを得なかった。








 公良桜は、自分の教室の席に座っていた。何も言葉を発さず、ただ左手に持ったスマートフォンを操作している。ホームルームの時間などどうして存在しているのだろうと、言葉に出さず心でぼやいた。


 黒板の前に立っている担任教師が、諸連絡やら各教科の特別な持ち物やらを口頭で伝えていた。その光景をちらりと見て、やはりホームルームは必要ないと感じる公良。


『教科の持ち物ならその教科の授業中に教科担当の先生から必ず伝えられるし、諸連絡なら伝えたい相手を呼び出すなりなんなり方法があるはずなのに......この数十分が無駄というか蛇足というか......』


 飽きたのか、公良はスマートフォンの電源を切ると机の上に放り出した。特に意味もなく頬杖をついて、依然話を続ける担任教師へと目と耳を向けてみる。


「......と、まあ一連の流れは今説明した通りだ。今から話した内容をプリントにまとめてあるから、今一度、各自で目を通しておくように」


 そう担任教師は告げると、教卓の上に積まれていたプリントの束を掴み、各列の先頭にその列の人数分だけ手渡した。


 前の席から回って来たプリントを、公良は手に取る。コピー用紙に印刷された文字をまじまじと見つめた。



「......へぇ、へぇ。この学校もなかなか面白い催し物を企画するね。もしかして、『そういった意図』があったりして............? さすがに深読みし過ぎかぁ」


 彼女の手から離れたプリントは、風の抵抗を全身で受け、半ば不規則な軌道を描いて机の上にひらりと落ちた。



 そこには、『自協計画』と書かれていた。

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