第6話 君と僕と『キミ』とアフタースクール。

 終業のチャイムが鳴った。四時限目の授業......数学の教師は授業があまり進まなかった事が気に食わないのか、「チッ、もう終わりか」と舌打ち混じりの愚痴をこぼすと、


「日直、号令」


 短くそう告げた。日直は素早く号令をかける。それはつまり、今日一日の授業が終わったことを意味している。


「終わった終わった〜!」


「たまにはゲーセンでも寄って行かね?」


 など、はしゃぐ声が周りから口々に聞こえるが、僕、水面楽一みなもらくいちも今回はそれに便乗したい程気分が高揚している。


 何せ今日は、社杜さんと『lagoon』の発売記念イベントへ行くのだ。


 もっとも、発売記念イベントというのは社杜さんには悪いけどあまり興味がない。あくまでイベントは口実だ。僕の目的は、社杜さんと二人きりで出かけるという(つまりデート......!)過程にある。


 僕はスマートフォンの画面に表示された時間を確認した。


 一時十分。約束の時間は二時五十分、時間には余裕がある。けれども万が一、何らかのトラブルによって遅れてしまうという可能性も否定しきれた訳じゃない。


 公良きみよしなら、少しくらい遅れても何か美味しいモノを奢る、といったペナルティで済むけれど、社杜さんは勝手が違う。いや、恐らく多少遅れても彼女は僕を咎めないだろう。


 しかし違う。咎められるか、責められるか否かじゃない。印象の問題なのだ。


 少なくとも、約束の時刻に相応の理由も無しに遅刻する奴を良く思う人などいない。


 僕は自分をまっとうな人間だとは思わないけれど、せめて彼女の前では誠実な人間でありたいと思う。


 手早く荷物を整えると、廊下に出る。下駄箱へと続く階段を下りていると、見知った顔が僕とは逆に階段を登って来た。


社杜やしろもりさん......?」


 僕の声かけで気がついたのか、驚いた顔で僕のことを見上げる社杜さん。


「水面君......!」


 ふと、彼女の隣にもう一つ人影がある事に気がついた。


 背丈は社杜さんより頭二つ分程大きく、かなりの高身長だ。顔は......男の僕でも見惚れるくらい......有り体に言うとイケメンだ。


 男性特有のごつさを感じさせない輪郭に、切れ長の目。丁寧に整えられた髪には、寝癖の一つも見つけられない。


 それにしても、この人。どこかで会ったこた......は無いが、見たことくらいはある気がする。しかし上手く思い出せない。


「あ......紹介するねっ、というかもう知ってるかな。生徒会長の白烏琢磨しらがらすたくまさん」


 生徒会長......⁉︎ そうだ。先月の新入生歓迎会でも、入学式でも体育館の壇上に上がって挨拶をしていた。そんな人物を僕は今の今まで忘れていたのか。僕にとって彼はそこまで印象の薄い存在だったか、式を真面目に受けていなかったか......よく覚えてないけれど恐らく後者だ。


「よろしくね、水面君」


 黙っていた白烏会長が突然口を開き、僕の名前を呼んだ。何故僕の名前を......?


 さりげなく社杜さんにアイコンタクトをおくると、笑って小さく頷いた。


 成る程。どうやら社杜さんが白烏会長に僕のことを紹介していたようだ。それなら合点がいく。


「よ、よろしくお願いします。白烏会長」


「ははは、そんなにかしこまらないで大丈夫だよ。たかが君より二つ年上なだけだから」


 白烏会長はやわらかい口調で言う。しかし、たかが二つ。されど二つである。十八歳と二十歳とでは飲酒や喫煙が出来る出来ないの差が必然的に生まれる訳だし、七百三十日という日数を埋めるのは中々に難しいものだ。


「あっ......! 水面君、ちょっと」


 と、かしこまって曖昧な返事しか出来ない僕に社杜さんは声をかけた。助け舟だと確信し、言葉を返した。


 階段を駆け足で上り、僕と同じ段に立った社杜さん。そのまま流れるような動作で、僕の耳元に自身の口を近づけた。


「えっ......」


 まるで神様の気まぐれのように訪れた出来事に、僕はあっけにとられてしまった。全身麻酔を打たれた時と似た痺れを感じ、体が硬直してしまう。(これはあくまで精神的な話。実際に麻酔をかけられたという訳じゃない)


 何とか動いた眼球で、横に立つ社杜さんを見る。つま先立ちで、僕の耳元に顔を近づけている。


 その姿勢に感化され、僕はほんの少し腰をかがめ、姿勢を崩して耳をすませた。



「ごめんね、緊急の会議が入っちゃって......。もしかすると、約束の時間に少し遅れちゃうかも」




 瞬間的に、脳が真っ白に染まった。透明な水に多量の白い絵の具をぶち込んだ感覚。じわじわと広がるのではなく、水の波紋の如く勢い良く広がった。


「あ............あ、あぁ分かった! 会議、頑張ってね」


 その受け答えは、何も考えずに、何も感じずに出た、いわばあくびやしゃっくりの類。それが偶然言葉になったというだけだ。


 ありがとう、と僕に対しお礼を言うと、社杜さんは白烏会長と共に僕の横を通り過ぎて行った。


 その場に一人取り残された僕は棒立ちのまま、しばらく放心していた。









 午後二時三十分。僕は、『lagoon』の発売記念イベントが行われる隣駅の本屋の外壁に寄りかかっていた。


 本屋の入り口付近には、本屋には明らかに不自然な長蛇の列が出来、通行人の目を集めていた。中には最後尾と書かれた看板を見て並ぶのをやめた人もいるようだ。


 僕も早めに並んだ方が良いのかもしれない。けど、万が一社杜さんが遅れた場合、僕一人でイベントに参加することとなる。読んだこともなく、ただ著者の名前をぼんやりと知っている程度でイベントに参加するなど、他の参加者に怒られそうだ。


 気になって列の状況を確認するため顔を出した。列は最後に見た時よりも数十人程増えていた。よく観察すると、どちらかというと若い人が多いようだ。


 若い人にウケる作品なのだろうか。そうだとしたら、その作品を読んでいない僕は、少なからず世間ズレというか、若者ズレしているのかもしれない。




ある程度、その辺の店やコンビニで時間を潰し、再び本屋に戻って来た。丁度そのタイミングで、イベントの列に並んでいた人が本屋の中へ次々と入っていった。


 スマートフォンで時間を確認する。


「あっ......!」


 二時四十九分。それももう少しで五十分になろうとしていた所だった。急いで周りを見回す。社杜さんの姿は......見えない。


 会議が長引いているのだろうか。だとしたら、僕はどう行動すれば良いのか。素直に社杜さんが到着するのを待つか、僕だけ先にイベントに参加するか......。



「......中で待とうか」


 少しの間考え、僕は考えを固めた。決まってからの行動は早かった。これ以上後ろに並ぶのは避けたいので、最後尾と書かれた看板へと急ぐ。


 しかし、前......つまり最後尾に近い方角から、小走りでこちらへ向かってくる人影があった。恐らく目的は僕と同じだ。



 距離の差が出てしまったか、僕が列に並んだ時には既にその人影は列に並んでいた。


 後ろ姿からどうやら女性のようだ。後ろ姿、か。


 ふいに、社杜さんと出会う前......いや、僕だけが一方的に彼女を知っていた時のことを思い出した。あの時も僕がヘタレなばかりに、話しかけるどころか顔を見ることすら叶わなかった。公良が何かと手を回してくれるまで、僕の中で彼女は顔を『無くしていた』。


 たかが一週間前のことなのに、もう数年経っているようにも思える。錯覚だけれど、それだけ濃い日々を過ごしたという風に捉えておこう。


「水面君じゃない?」


「え」


 思い出に浸っていると突然声をかけられた。声は前から聞こえた。一瞬社杜さんかとも思ったけれど、そもそも声が似ても似つかない。


 しかし前には女性が一人......一人? そういえば、僕の前にいる女性、どこかで見たことがあったような気がする。というか、つい最近会った............。


「......朝武ともたけ、さん?」


 僕の前に並んでいた女性は、クラス委員長の朝武さんだった。普段は制服姿しか見ていないので私服姿は新鮮だ。


「奇遇だね? もしかして水面君も『lagoon』のイベントに参加を?」


「う、うん。まあ、ね」


 朝武さんは純粋なこの作品のファンなのか。それもそうか、僕みたいな後ろめたい下心でもない限り、知らない本のイベントになんて足を運ぶ訳がない。


「へぇ、へぇ、そうなんだ。......何か嬉しいな。私の周りには『lagoon』好きがいないと思ってたから」


 僕は弱々しい相槌しか打てず、思わず唾をごくりと飲み込んだ。と、朝武さんは両手を軽く叩く。


「そうだ! せっかくだし、このイベントが終わってからファミレスかどこかでゆっくり感想でも言いあわない?」


「えっと......それは」


 口ごもってしまう。僕は『lagoon』を読んだ訳じゃない。あくまでこのイベント自体を楽しみにしていたのは社杜さんだ。加えて、僕はまだ目の前の彼女に、社杜さんの存在を伝えていない。


 出来ることなら、早急に伝えたいところだけど......それによって被害をこうむるのは社杜さんだ。


 ありもしない噂を立てられたり、白い目で見られるのは僕だけで十分だ。(白い目で見られるのは僕も嫌だけど、噂を立てられるのは満更嫌でもない)


 結局のところ、僕は伝えるのが正解なのか不正解なのかを知り得ない。


「......水面君? どうしたの?」


 朝武さんが顔を覗き込んでくる。眼鏡の向こうにある二つの丸い目が、僕の視線を捉えて離さない。何故だろう、不思議な魔力に犯されたように、僕も不思議と朝武さんの目を見つめ返してしまった。


「..................あっ、あの............」


 顔が、近いっ......‼︎ 別に不快じゃない、むしろ......良い。ほのかにいい匂いがする。シャンプーかな。


 なんて、欲に塗れた思考ばかりが脳の中を駆け巡る。


 ......このまま、「うん」と頷いたらどうなるのだろうか。朝武さんと二人でイベントに参加して、ファミレスで話して......、会話の内容はどうにかするとして、それで......それで......。


「............うん。わかっ」


「あれ? み、なも、君、?」


 声が聞こえた。朝武さんの声ではない。最近よく聞く可愛らしい声。か細くて、ちょっと大声を出したら霧散して消えてしまいそうな声。その声の主は。



「社杜さん」



「..................水面君......そのヒトは、知り合い?」


 そこにいたのは社杜さん。驚愕と溺愛と哀願と憎悪と無心と狂喜と愛情と......様々な感情がぐちゃぐちゃになったような目で、僕を見ていた。



 どこからともなく鐘が鳴った。何度も何度も。時計の針は、三時を示していた。

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