第5話 幸せな出来事の連続は『不幸』の予兆? 違う、次の『幸せ』の予兆だ。

 バスの扉が開いた。僕は手に掴んでいたつり革をそっと離し、胸ポケットに入れておいた水色のパスケースを取り出した。


 中に入れられている定期券を運転手に見せ、そのままバスを降りた。


 すると、僕が丁度降りたタイミングで前を歩いていた(僕より少し前にバスから降りた)少女が、身を翻してこちらを向いた。


「おはよっ、水面みなも君」


「お、おはよ。社杜やしろもりさん......!」


 社杜さんは満面の笑みを僕へと向けた。その表情にどぎまぎして、挨拶が少し噛み気味になってしまった。


 僕は今、言葉に表せない優越感に浸っている。ほんの数日前まで、女子と話すといったら基本公良きみよしとしか絡みがなかった僕が、意中の社杜さんとこうしてごく普通に挨拶を交わしている。当たり前のように感じられるけれど、よく考えれば異常な状況だ。


「今日って確か授業が午前で終わりなんだよ? 知ってた?」


 僕の隣へ移動した社杜さんが言った。


「うん。今日『から』だね。今日明日の二日間」


「えっ⁉︎ そうなんだ......。知らなかった。これは一本取られたねぇ......」


 社杜さんはやや大げさに驚いてみせると笑った。それにつられて僕も笑う。


 突然、あっ、と何かを思い出したように声をあげた社杜さん。何事か、僕が隣を見る前に、


「ねぇねぇ、水面君。聞きたいんだけど......」


 そう言った。何だろう、少し低い姿勢から物を言うといった風が感じられる。


「何?」


 「水面君さぁ......」と言いながら自分の鞄を開け、中に手を入れた。探す挙動の後、おもむろに一冊の本を取り出した。文庫本......のサイズではない。ハードカバーだ。


「この本知ってるかなぁ? 最近発売されたばかりのSF小説なんだけどね?」


 目の前に突き出された本を手に取り、表紙を眺めた。


 『lagoon』というタイトルのその本は、表紙に崩壊し廃れたビル街が描かれている。続いて左下に書かれていた作者に目を通した。


「あれ、この菊山蓮きくやまれんって名前、どこかで......」


「うん。この人最近ネット上で有名になったんだけどね、メディアの前でも顔出しNGだったんだよ」


 へえ......。僕は軽く相槌を打った。正直僕はそこまで本を読む人間じゃない。ライトノベルを少したしなむ程度だ。


「でね、明日この本の発売記念イベントがあるんだけど......」


 そこまで言って、社杜さんは言葉を詰まらせた。何だろうか、言いづらい事なのだろうか。


 僕が不思議そうな表情を見せていると、やや上目遣いで社杜さんは言葉を口にした。


「明日も......午前で授業が終わりみたいだし......あの............水面君さえ良ければ......一緒に行かない......?」


「..................」




 頭が、真っ白になった。一瞬自分が今どこに立っているのかすらも忘れてしまった。だが存外すぐに記憶の覚醒は早く、そしてすぐに脳内はキャパシティオーバーを迎えた。


「う、う、うん⁉︎ いいよ、行こうかっ! 明日は予定ないし......てか、あっても潰すからっ‼︎」


 こここここここ、これはつまり、でででで、デートのお誘いッ⁉︎ 事実上‼︎ 昨日は公良がいたから本当のデートとは言い難かったけれど、今回は正真正銘、本当の......。


「ごごご、ごめんねっ! 別に予定があるならいいのっ!」


 お互いてんてこ舞いだ。周りを歩く生徒が白い目でこちらを見ているのが分かった。恥ずかしい......。二重の意味で。


「ううん! ぜひ行かせて下さい‼︎」


「ホント⁉︎」


 社杜さんの表情がぱぁっ、と明るくなった。目も心なしか輝いているように見える。可愛い。


「それじゃあ、それじゃあ! イベントは午後の三時だから......、その十分前くらいに駅前の本屋に集合で良いかな?」


「了解、十分前ね」


 僕はなるべく、平静を装って言った。


 僕の返答を聞いた社杜さんは、じゃあ、用事があるからと言い残して、小走りで下駄箱へと向かって行った。


 残った僕はというと、デートのお誘いを受けられた事の余韻に浸っていた。


「ちょっと」


 突然、背中を拳で殴られた。海老反りのような状態になり、危うく倒れそうになった。


「何奴っ」


「なぁにが何奴だい、水面クン? 朝っぱらから見せつけちゃってまあまあまあまあお盛んだことこの上ない」


 公良だった。しかめっ面で悪態をつかれた。


「ゴホン、まあ、今の僕は機嫌が良い。君の暴行は不問にしてやっても良かろう」


「不問にしてもらわなくて結構よ。この後もするからっ」


 そう言うと、公良は鋭いジャブを何度も無防備な僕の背中に叩き込んだ。結構痛い......!


「あたたたたたた! 痛い痛いっ、割と本気で!」


「ふんっ」


 ジャブを止め、そっぽを向いてしまった公良。気に障る事をしてしまった......のか?


「......そ、そうだ! 聞いてよ公良! 明日、社杜さんと本の発売イベントに行くことになって......!」


「今度は右ストレートをお見舞いしようか?」


 話の内容までしっかり聴いていたようだ。


 ハァ、とあからさまにため息をついてみせた公良。それがどういう意味を含んでいるのかは分からないが、良い意味で使われていないことだけは分かる。


「それで?」


「え?」


 思わず聞き返していた。ほぼ間を置かずに反射的に。


「だから、何で水面クンは私に明日デートに誘われた〜って言ったのかってこと。まさか私にへーすごいねー、みたいに言わせる為じゃ無いでしょう?」


 それなりに付き合いが長いからか、それとも彼女が特別鋭いだけか、どうやら公良は僕の思惑におおかた察しがついているようだった。


「......公良に頼みたい事があるんだ......」


 そう切り出して、僕は告げた。







「はぁ......服ぅ?」


 公良は半ば呆れたような、ほっとしたような顔で言った。何故だろう、全く見当違いな発言をした気がするのは。


「そう。......多分明日は制服じゃなくて私服になるだろうし、女の子にウケる服装なんて知らないから、選ぶのを手伝って助言して欲しいんだ」


「私と出かけたりする時の服は? あれでいいんじゃないのかな?」


「公良と遊ぶ時は服装なんて気にした事なかったからなぁ......」


「......」


 公良は頭を掻いた。ん〜、と唸ると、スカートのポケットからスマートフォンを取り出し、いじり始めた。


「あの〜、公良......さん?」


「分かった」


「え?」


 スマートフォンの画面が目の前に示し出される。いきなりだったので面食らってしまった。画面に目のピントを合わせて見ると、その液晶には恐らく服屋......の広告らしき物が映し出されていた。僕はそれをしばらく凝視して言った。


「えっと、これは何です......か?」


「だ〜か〜ら〜‼︎ 今日の放課後に行く店だっての! 服選びを手伝ってやるって言ってるの! もう、察しが悪過ぎだよキミは......!」


 はっきりと言われた。その瞬間、僕の心の内側から、『喜び』だとか『幸せ』だとか、とにかく明るい様々な感情が湧き出てくるのを感じた。


「ホント⁉︎ ッ......ありがとう、公良!」


 突発的に感謝の言葉をかけていた。


「............! ふ、ふんっ」


 少し照れた表情をしている。まあ仕方ないか。何せ、僕と公良は仲が良すぎる故に、悪態をつきあう事はあっても、面と向かって感謝の言葉を口にする機会なんてほぼ皆無だった。


 そんな状態でいきなり感謝されれば多分僕でも照れる。どう対応すれば良いのか思いつかない。


「じゃあ、教室まで一緒に行こうか」


 この微妙な空気を 払拭するために、照れている公良に気を遣って言った。


「はッ⁉︎ 行くかバカ‼︎‼︎」


 つもりだった。でも、公良には違う意味で取られてしまったようで、僕の腹の真ん中を殴ると一人で行ってしまった。


 僕は、しばらく痛みでその場から動けなかった。














 放課後。授業を終えた僕は、駅前で少し遅れた公良と合流して、早速服選びに洒落込もうと意気込んだ訳だけど......。


 今朝公良が僕に見せた広告。あの店は二つ隣の駅にあるらしく、強引に電車に乗せられる羽目になってしまった。


 駅にいた時は渋々付き合ってやっている、といった雰囲気を醸し出していた公良。僕が強引に誘った事だ、その態度も仕方ないと思っていた。だが、しかし。



「ウンウン、似合ってるよ〜水面クン」


「............」


 僕は、公良におもちゃにされていた。僕にはセンスが無いからと、服のチョイスを公良に一任した結果がこれだ。公良は僕に似合うか否か関係無しに、好きな服を着させていた。そして僕はされるがままとなっている。


「それじゃあそれじゃあ......次は何を着てもらおうっかな〜♪」


「あの〜......公良さん? そろそろ真面目に選んで頂きたいのですが」


 新たな服を選びに繰り出そうとした公良を、すんでの所で引き止める。


「だって着せ替え人形みたいで楽しいんだもん、水面クンは! まあでも、この流れじゃ本来の目的を見失いそうだから、次で最後にしてやるかぁ」


 そう言うと、服を物色し始めた。嫌な予感が脳裏をよぎる。こういう場合の嫌な予感が恐ろしい程的中するのは何故だろう。


 懸念を残して待っていると、一着の服(上下セット)を持った公良がやって来た。どこかで見覚えのある服だ......。


「......それは?」


「アロハシャツ」


 やっぱり。














「楽一お風呂〜! ぬるくなる前に入っちゃって!」


 部屋の外から声が聞こえた。水面の母親の声だろう。水面は寝そべっていたベッドからゆっくりとした動きで起き上がると、


「今行くー」


 と弱々しい言葉を返した。


 水面はふと、視線を部屋の入り口......扉へと向けた。今日、公良に選んでもらった服がビニール袋に入れられ、そこに鎮座している。ビニール袋を手で掴み、中から服を取り出して眺めた。


 変に奇抜でなくていいと、アクセントをあまり効かさずに類似色でまとめられている。視線の高さまで掲げて水面は言った。


「ありがとな、公良」


 ハンガーに服をかけ、壁に取り付けられたフックに吊り下げた。扉のドアノブをひねり、部屋から出る。


 部屋には、残された服がハンガーに合わせてゆらゆらと揺れていた。






「あ、あれ。もう十一時過ぎてる......。そろそろ寝る準備しないと」


 社杜うららは顔を上げた。勉強机の上に置かれている置き時計を見ると、思いの外遅い時刻を示していた。机一面に開かれたノートを閉じると、その中にプリントを数枚挟み込んだ。


 淡い水色のパジャマに身を包んだ社杜は、部屋のクリーム色の壁にあるスイッチを切り、部屋全体を消灯した。


 体重を預けるようにしてベッドに倒れ込むと、自分の身長とほぼ同じ大きさのクマのぬいぐるみに抱きついた。そのままごろごろとベッドの上を転がる。


「......ねえ、コタロー。明日はね、水面君と『lagoon』の発売イベントに行くんだ」


 コタロー(と名前の付けられたクマのぬいぐるみ)は何も言わない。ただ彼女の話を聴き続けるだけだ。


「多分だけど、水面君は行きたくないと思う。......でも、私に合わせて行くって言ってくれた。とっても優しい人......」


 小さく、虫の息のようにか細い声で社杜は言う。徐々に声が小さくなっているのは、眠りにつきかけているからだろう。


 ぎゅっと、コタロー(ぬいぐるみ)を抱く手に力が込められた。瞼が完全に閉じられた時......眠る数秒前、まるで寝言のように、彼女は呟いた。


「............今度は......裏切らない............よね?」







「ふゎあ〜〜、気持ち良い〜!」


 公良桜は、白濁した風呂の湯船に身を沈ませた。風呂場内は、湯気によって湿気を多く含み、白く靄がかかったようだ。


 顎の辺りまで湯船に浸かり、華奢で箇所箇所に丸みを帯びた胴体は、白濁した湯船で隠されてしまい見えない。


 公良は両手で器の形を作ると、お湯を掬って持ち上げた。するとすぐに両手を傾かせ、お湯をこぼして湯船に戻す。心地の良い水音が反響し、風呂場中に広がった。


「水面クンは〜、明日デートらしい〜」


 わざとらしく棒読みで言った。声はやまびこみたく響き、そして風呂場の壁に吸い込まれていく。


「な〜んか納得いかないんだよね〜? 私だけ上手く仲間外れにされた気分! 昨日は三人でワイワイ楽しめたのにぃ‼︎」


 そう言って手のひらで水面を何度か叩いた。(『みなも』と『すいめん』をかけたのは言うまでもない)


 今度は口元まで沈み、口に含んだ空気を水中で吐き出した。ぶくぶくと音を立て、泡が次々空中に躍り出ては四散した。


 突然、公良は立ち上がって天井を仰いだ。


「もう頭にキタっ‼︎ 明日のデートを尾行して、水面クンの醜態を拝んでやるっ! そして、あわよくば脅しのネタにしてやる!」






 暗い、部屋だ。日をまたいで一層深くなる闇は、部屋に影を落とした。


 唯一の光は、机の上の電灯のみ。しかしその灯りも、机に向かって座る少女......朝武縁ともたけゆかりの体で遮られ、部屋に光はほとんど届いていない。


 シャープペンシルを持ち、何も言わず大学ノートに何かを書き続けている。


 すると、彼女の後方にある扉からノックする音が聞こえた。朝武は振り返らずに、「何か御用でしょうか」と答えた。


「......夜更かしして学校を欠席する事の無いようにしなさい。縁、貴女は朝武家の一人娘なのですから、世間様に恥ずかしい姿は晒せません」


 扉の向こうの人物は、極めて感情の無い声色で言った。


「はい、お母様。このページの問題が終わり次第直ちに。お気づかいありがとうございます」


 扉の向こう......朝武の母親はそれ以上何も言わなかった。少しの間の後、階段を下りる足音が聞こえた。


「......」


 母親との会話中でも、朝武は決して何かを書く手を止めなかった。何の変哲も無い大学ノート。開かれた見開きのページ。


 そこに書かれていたのは。



 真っ黒。



 黒、黒、黒、黒、黒、黒、黒、黒、黒、黒、黒、黒、黒、黒、黒、黒、黒、黒、黒、黒、黒、黒、黒、黒、黒、黒、黒、黒、黒、黒、黒、黒、黒、黒、黒、黒、黒、黒、黒、黒、黒、黒、黒、黒、黒、黒、黒、黒、黒、黒。



 そのページは、黒で塗りつぶされていた。その上から上塗りするように、朝武はシャープペンシルの芯を出し続けた。


 しかし、単に乱雑に、無作為に塗りつぶしている訳ではない。文字を大量に書き続けているようだ。


 『苦しい どうして私が 意味がわからない』


 怨念、恨み。様々な負の感情がこもった文字が延々と書き連ねられていた。それも書き殴りのような字体で。


「....................................」


 朝武の顔には、何の感情も張り付いていなかった。手では怨念を撒き散らしているが、その目には何も宿っていない。


 学校での、クラスでの面倒見の良い委員長、朝武縁の面影はどこにもなかった。





 ......余談だが、この後数時間に渡って、部屋の中にはシャープペンシルを走らせる音が鳴り続けた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る