第2話 君が『居る』事以外、僕の青春はあまりに平凡だ。
耳元で何かが振動する音が聞こえた、気がする。
気がする、なんて曖昧で煮え切らない表現なのは、まだ意識が朦朧としているから。視界だけでなく、脳の中枢までまるで霧がかかった様に透明性が無い。
活動しない腕を強引に覚醒させ、身体の周りを弄まさぐってみる。
ベッドのシーツがガサガサと音を立てる。手のひらが頭の上に差し掛かった時、硬い物が指先に当たった。掴んで眼前に引き寄せる。
スマートフォンだった。黒い液晶が僕の顔を反射して写し出している。見ると十件近くの通知が来ていた。その通知は全てLIME(スマートフォンにのみ搭載されているコミュニケーションツール。メールや電話機能が備わっており、スマートフォン所持者の九割が使用している)から送信されていた。ロックを解除すると、どうやら通知は全部
目をこすりながら届いたメッセージを流し見していく。
『おーい』
『休み?』
『それとも遅刻?』
『だとしたら大遅刻だぜー?』
「......?」
この後も何件かメッセージが続いたが、途中で読むのを止めてしまった。公良の言っている事がいまいち理解出来ず、僕はホーム画面の上部にある現時刻を確認した。
九時二十五分。既に一時限目が始まって三十分近くが経っていた。顔から血の気が引く、という感覚を今日僕は初めて味わった。
息を切らして、思い切り教室の引き戸を開いた。何人かのクラスメイトがこちらに視線を向けたが、すぐにどこかを向いてしまった。恥ずかしい気持ちを抑えて自分の席に着く。
掛け時計に目を向けた。次の授業まで十分程余裕がある。授業に使う教科書や参考書を取りに行こうと僕は座ったばかりの席を立った。
「あっ、水面。やっと来たの?」
ロッカーに手をかけた所で後ろから声をかけられた。公良だった。
「あぁ、公良のLIMEで目が覚めたよ。驚きすぎて寿命が縮んだけどな」
「へへぇ、そっかそっか。そいつぁ結構。でも、そんな冗談を言ってる間はキミは死なないと思うぜ?」
公良はそう言ってからからと笑った。それにつられて僕も小さく笑う。
そこで僕は、小さくて素朴な疑問が生まれた事に気がついた。
「そういや何で僕が遅刻したって分かったんだ? クラスだって違うし」
「だってキミ、今朝のバスに乗ってなかっただろう? この一ヶ月でバスの時間をずらした事も無かったみたいだし、そう考えると遅刻かなーってね」
成る程。僕は内心で小さく手を打った。
「......で、だ」
公良は僕の机に身を乗り出した。彼女と僕の距離が物理的に縮まる。あまりに突然の出来事に、僕は自分の顔が紅潮していることに気がついた。
「え......あ......?」
緊張で声が上手く出せない。心臓の鼓動の音が聞こえる。
これは、僕の心臓の音なのか? もしかすると、目の前の『彼女』の音なんじゃないだろうか?
頭の中がこんがらがって、そんな事すらまともに考えられなくなっている。
僕と『彼女』の顔が握りこぶし一つ分程になる。
僕の顔はますます真っ赤に染め上がり、視線は『彼女』の瞳の奥に吸い込まれていく。
......このまま顔を更に近づけたら、どうなってしまうのだろうか?
ふいに、そんな悪魔の囁きが聞こえてきた。
理性で必死に抑え込もうとする。が、しかし、その甘美な囁きは、確実に僕の中の何かを侵食していった......。
「ちょっと! 水面! 聞いてるー⁉︎」
「ッ⁉︎」
突然大声をかけられた。いや、もしかするとさっきから何度か呼びかけていたのかもしれない。僕が気づかなかっただけで。
公良はいつの間にか僕の前から離れていた。恥ずかしくなったので愛想笑いをうかべ、先を促した。
「今朝、水面がいなかったけど、私も私なりに気になったから調べたよ。例の『彼女』さんについてね」
「うん......」
「キミってやつは......また、何というか......実に『厄介』な人を好きになっちゃったみたいだよ」
僕に対し、公良はため息混じりの声でそう言い放った。その声色には、どことなく哀しみと言うか、憐れみと言うか、そんな感情が込められている気がしたのは僕の杞憂だろうか。
僕が黙っている事を先を促していると捉えたのだろう、公良は続けた。
「
「へ?」
「社杜うらら。知ってるだろ?」
黙って頷いた。知ってるも何も、この学校の一年生なら少なくとも名前くらいは記憶している有名人だ。
けれど、今そんな事を話す意味は無い。本人が目の前にいるならばまだしも、この場には僕と公良しかいない。勿論このクラスに『社杜うらら』というクラスメートも存在しない。
まるで野球の試合中にテニスのラケットを持ち出すような......。そんなくだらない事を思わず考えてしまった。
「で、その社杜さんがどうしたのさ。まさかその『厄介』な人物が彼女だって言うんじゃないだろうね」
頭の中でふいに生まれた冗談を、特に推敲もせずに口に出した。
「正解」
「え?」
ほぼ反射的に聞き返していた。九割方冗談のつもりで言った事が否定されずに肯定された。きっと相当間抜けな、呆けた顔を今しているのだろう。公良は僕の状態とは相反するような、極めて平坦な声で続ける。
「キミが好きになった人物ーー後ろ姿の少女は、社杜うらら。一年生で副会長の腕章を得た、生粋の天才だよ」
「おーい委員長」
「ん? なーに」
後方で声が聞こえた。それが自分に向けられたものと分かると、クラス委員長、
「これ、ウチの机の下に落ちてたんだけど、落し物だってセンセーに渡しといてくんないかな?」
「えっ、う、うん。分かった」
短く用件を伝えると、クラスメートは立ち去っていった。ぽつんとその場に取り残された朝武は、手元にある『それ』を見た。
黒色がベースのシャープペンシル。水色のラインが走ったボディは、持ち主の性別を大まかに推測させるのに十分な要素だった。ペンを転がすように回し、側面を順々に観察していく。
すると、シャープペンシルの上部、キャップの部分に小さいシールが貼り付けられている事に朝武は気がついた。黒い本体に相反するように貼られた白いシールに文字が書かれている。
「水面......」
朝武はぽつりと呟いた。白いシールには黒いボールペンのインクで『水面』と書かれていた。その名前に、朝武はピンとくるものがあった。クラスメートの一人に水面楽一という少年がいた筈。(もっとも、朝武のクラスに落ちていた物なのだからクラス内に落とし主がいるのは至極当然の事なのだが)
「水面......君。は」
辺りを見回す。始業を目前に控え、各々が教科書などを持って着席していた。その中に
しかし、彼の机の前には別クラスの人物。
『公良さん......、今日もいるんだ......。苦手なんだよね、あの人。早く自分の教室に戻れって言ってものらりくらりとかわされちゃうんだもの』
水面と何かを話している公良を、朝武は見ていることを悟られないように横目でチラチラと観察している。
『二人はいつも何を話しているんだろう......? 公良さん、ウチのクラスに来ても水面君としか話さないし。盗み聞きなんて褒められたことじゃないけど......ちょっとくらいなら良いよねっ』
誰も聞いていない心の中で、彼女は必死に弁解する。耳に神経を集中させ、耳をすました。
「......」
ぼそぼそとか細い会話が聞こえる。二人との物理的な距離が離れているためそう聞こえるだけだろうが。更に耳をすませる。朝武はいつの間にか二人の方向へ体を傾けていた。その事に本人は気づかない。
その時。
「キミが好きになった人物ーー後ろ姿の少女は、社杜うらら。一年生で副会長の腕章を得た、生粋の天才だよ」
「......あっ」
聞いてしまった、と朝武は思わずたじろいでしまった。反射的に二人から目を背けてしまう。
『ふ......二人がそんな話してるなんて想像出来る⁉︎ 別にそんな
頰をわずかに赤くし、俯く朝武。自分の太ももに視線を落とし、伏せるような体勢をとってしまった。
『......何でだろう。何かモヤモヤする。まるで霧がかかった景色みたいに不明瞭な......』
考えるが、いまいち合点のいく結論には至らなかった。
「ハイハイお喋りはそこで止めとけ〜。日直、号令」
と、いつの間にか教卓に授業で使う道具を置いた教師がクラス中に声をかけた。
「センセー、今のはお喋りじゃなくて勉強を教えてただけでぇす」
「素直に認めないヤツは関心意欲の欄が空白になるから覚えとけよ〜」
どっとクラス中に騒めきが起きた。その光景を、朝武は輪の『外側』から眺めていた。
「昼だ昼! 弁当食おうぜ」
誰かがそう告げた。その声は教室の窓際の席に座る
その様子を遠巻きに眺めていた女子は、隣でコンビニで買ったであろう菓子パンをぱくつく友人に声をかけた。
「ねえねぇ、社杜さんっていつも本読んでるケド、どんな本を読んでるんだろうね?」
菓子パンを食べる事を止めた友人は、社杜を一瞥して、
「ん〜どうだろうね。パッと見、一見するとすごい真面目そうな本を読んでる印象だけど......。案外ラノベとか読んでそうだよねぇ」
「ふふっ、確かに! 人は見かけによらないってよく言うし、その可能性も十分にあり得るのかも」
と、昼食時に丁度いい話題を手に入れ、膨らませようとした二人。まるでその瞬間を狙ったかのようなタイミングでスライド式の教室の扉が開いた。
「あっ桜。どったの?」
入って来たのは公良だった。質問を投げかける一人に、公良は軽く笑って会釈した。
「ん〜、ちょっとねぇ」
そう言って公良は教室中を見回した。昼食を摂る生徒、談笑をする生徒など各々好きな事をして過ごす中、公良は窓際で読書に
そして公良は迷いの無い足取りで窓際の席へ赴いていく。上履きのゴムが擦れる小さな音が響く。その音が自分の方へ向かってくることに感づいた社杜は、机上に置かれた小さな栞を手に持つ本の間に挟み込んだ。
パタン、という小気味の良い音を立てて本を閉じると、視線を音のする方ーー公良へと向けた。
公良の足は、社杜の目前で止まる。二人の視線が交錯し、その周辺の空気は徐々に、確実に凍りついていった。
「え......何この状況。一触即発ってやつ?」
周りのクラスメートがぼそぼそと小声で話し出した。しかしそれを渦中の二人は意に介さない。
「......えっと。ワタシに何か用......かな?」
最初に口を開いたのは、意外にも社杜だった。しかし、その口調はどことなく怯えているような色が含まれていた。
「あ〜、うん。ちょっとお話したいな〜って思ってね」
「っ〜〜‼︎」
赤面。声色は変えても表情は崩さなかった社杜が、唐突に顔を紅潮させた。その予想しなかった反応に眉をひそめる公良。しかし、すぐに彼女の真意に気づくと、手を左右に振った。
「あはははっ、違う違う! 『そういう』意味じゃないよ。そのまま純粋な意味だよっ」
そう言うと、社杜はほっと撫で下ろしたような仕草を見せた。そのまま二人で教室の外へと歩き出した。
「それで......話って?」
廊下に設置された自動販売機の前、手に持った缶コーヒーをすすりながら社杜は尋ねた。あ、うんと相槌を打つと、公良は口を開いた。
「キミに、紹介したい男の子がいてね」
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