顔の『無い』君に恋をした。

蔦乃杞憂

第1話 顔が『無い』事は好きになっちゃいけない理由にはならない。

 きっかけは何だっただろうか。


 と、使われすぎてもはやテンプレと化してしまった文句を頭の中で呟いた。そうでもしないと気持ちの収集がつかないのだ。僕、水面楽一みなもらくいち の頭は、いわばオーバーヒートという状態に陥っているわけで、一刻も早く冷却しなければならない(もちろん比喩表現)。




 ......大分落ち着いてきたようだ。


 そう、確かきっかけは、高校の入学式だった。


 予備校に通い、家庭教師も雇い、散々勉強した挙句第一志望の公立校に合格出来ず、『滑り止め』として下に敷かれた私立の高校に通わなければならないと決まり、人生のどん底に落ち込んだ(気分になった)僕は、正装をして髪の毛をがちがちに固めた父さんと、息子の僕ですら引くほど化粧に時間をかけていた母さんを引き連れて、『入学式』と書かれた立て看板を通り過ぎた。



 どうせ楽しい事なんて初めから存在していなくて、当たりの入っていないくじをひたすら引き続けるような三年間を過ごすんだろうと途方に暮れていた時。


 ふわり、と。


 僕の鼻を、甘い香りがくすぐった。


 安直な表現だけれど、それ以外のものが思いつかない。


 女の子だった。女の子が、僕の横を通ったのだ。


 背丈は大体僕と同じくらいで、黒く腰のあたりにまでかかった艶やかな髪が風にあおられ後方へとなびく。


 また、同じ香りだ。





 これはただのきっかけに過ぎないわけだけど、僕は確かにこの瞬間、彼女に心を奪われていたんだ。とはいえ理由を求められても、それに答える事は難しいかもしれない。


 何故なら、この時点で僕と彼女の接点は皆無。これじゃあまるで、彼女の髪の匂いに恋心を抱いてしまった髪フェチ野郎になってしまう。それだけは避けたい事態なのだ。


 けれども、結局の所。


 僕が彼女の存在を認識したのは後ろ姿だけ。



 きっと、僕は、顔の『無い』彼女に恋をしたんだろう。








 ほぉっ、と息を吐き出してみる。白い。僕の口から吐き出された息は瞬間的に霧散むさん し、空気の中へ溶け込んでいった。


 この瞬間が僕は何となく好きだった。理由らしい理由は無いけれど、儚く、切ないような、そんな印象を受ける。


 ......人の息は体温と大体同じで三十七度くらいらしい。その息が白く見えるのはその日の湿度によって左右されるけど十七度や十三度程度が相場だとこの前何かの本で読んだ。何とも季節外れな知識だと思う。もう五月に入ったというのに。


 両耳のイヤホンからは、好きなバンドグループの曲が流れている。去年あたりにヒットした曲だったか、その頃はカラオケでも定番ネタとしてよく歌っていた気がする。


 ふいに耳から外れそうになったイヤホンを指で押し込むと、真横にあるバスの時刻表に目を向けた。


「......バス遅いなぁ。雨が降ってるってわけでも無いのに」


 時刻表に書かれている時間とポケットから取り出したイヤホンの繋がったスマートフォンに表示された時間とを見比べると、もう既に十分も遅れている。学校ではチャイムから一分遅れて教室に入っただけで担任に遅刻と告げられるのに、のんきなんだな、と下らない事に少し腹を立ててしまった。


 と、突然僕の視界を大きな何かが覆った。バスだった。行き先を告げる低い声のアナウンスと共に車両中心部にある中扉が開き、それに乗り込む。


「発車します。ご注意下さい」


 マイクに口を近づかせ過ぎたか、息がかかってくぐもったアナウンスが車内に響いた。


 車内は暖房が効いているようだ。少しの安心感を得た僕はつり革に手をかけた。


 ......今日もいるの、か。


 つり革を掴んだ状態で前を見る。人と人に挟まれたそこに、いつもの光景があった。


 人の目を引く艶やかで腰のあたりまで伸びた黒髪。着崩れていない制服。紺色のスカートからすらりと伸びたタイツに包まれている足。


 入学式の時に見かけた人だ。同じ高校に通っているのだから同じバスに乗っていても別段おかしい訳ではないのだが、この入学してから一ヶ月もの間、僕は彼女の後ろ姿ばかりを目で追いかけていた。


 でも、まだ一度も『顔』は見たことが無い。


 彼女は僕より先にバスに乗っている。当然の事ながら、僕が彼女より先に乗って待ち伏せる、なんて行為は出来っこないしそもそも行為自体したいと思わない。


 それに、彼女はどうやらバスの先頭が好きらしく(確固とした証拠なんて無い。ただ一ヶ月見続けた僕なりの推測だ)、中扉より後方にいた事はただの一度も無かった。


 そのせいで、僕は三十回近く同乗している人の顔すら知らない。


 まあ、それでも構わないとも思っている自分がいるのも事実だ。


 昔テレビで観た。今では死語となっているが、『バックシャン』なる言葉が存在していた時があったらしい。意味は後ろ姿が美人に見える女性。


 後ろ姿『が』美人に見える女性なので、しばしば侮蔑的な意味に使われていた。


 それを思い出したから、外見を見て落胆したくないのかもしれない。




 突然、揺れた。バスが停車したのだろうか。考える事に集中していたからその予兆に全く気づかなかった。前後に揺られる体をつり革に掴まって支える。ギチギチとつり革が悲鳴を上げている。


 しばらくたつと、バスが完全に停車したようで、揺れも収まった。つり革に注がれていた視線を正面に移すと、いない。


 顔の『無い』彼女が。


 バスの窓ガラスに目をやると、バスは僕が通う高校前のバス停に停車していた。そして正門をくぐる彼女の姿もあった。


 まずい。どうやら僕は相当呆けていたらしい。イヤホンを付けているとはいえ、バスの扉が開く音すら聞き逃すとは。


 制服の胸ポケットから百均で購入した水色のパスケースを。そしてその中にICカードと一緒に収納されている定期券を取り出し......。

「あっ」


 思わず声に出してしまった。僕の手から滑り落ちたパスケースが、足元でパタリ、と音を立てたのだ。


 かがんで取ろうとした。けれども焦りからか上手く拾い上げる事が出来ない。爪に引っ掛からない。もどかしい。痒い所に手が届かない時程にもどかしい。


 その間にも、僕の後ろにいた人達は僕の事を訝しんでいる。視線が痛い。身体中の汗腺から汗がにじみ出ているのが分かった。


「ちょっとちょっと。どうしちゃったの水面」


 声が聞こえた。女の子の声。頭上から。(もっとも、僕はかがんでいるのだから頭の上から声が聞こえるのは至極当然な事なのだけれど)どこか聞き覚えのある声だ。でも、今は見上げる暇なんて無い。早く拾ってバスから降りなければいけない。


「おいおい。聞いてるかい、水面楽一」


 声と共に手が差し出された。パスケースを拾い上げたその手は、僕の手をも半ば強引に引っ張り上げた。我に返った僕はようやく声の主を認識する事が出来た。


「......公良きみよしか」


「ハイハイ、みんな大好き公良桜ちゃんですよー」


 公良桜きみよしさくら 。僕の数少ない中学生の頃からの友人で、つい先日同じ高校だったと知った。


 中学時代から友人関係が異常なまでに広く、以前見せてもらったスマホの連絡先の欄には数百人規模の連絡先が登録されていた。教師からも人気があり、定期テストのヤマを教えてもらっては何かと僕に教えてくれていた。


「とりあえずさ、水面。降りる人もいるからパパッと降りちゃおうよ」


 僕は黙って頷いた。公良が手を差し伸べてくれた事には素直に感謝している。けれど、彼女の後ろに見え隠れする乗客の目線がひどく痛くて、感謝している時間すら惜しく感じられた。






「ぼーっとし過ぎだって水面」


「......はえ」


 声をかけられた。ぼやけてもやのかかっていた視界がひらけ、脳が徐々に覚醒していくのを感じた。僕は、顔をうずめて惰眠を貪っていた机から顔を離すと、公良の方へ向き直った。前に立つ公良の後ろーー教室の壁に取り付けられている掛け時計を見やった。十二時半、昼休みの真っ只中だった。


「っと、ゴメンよく聞こえなかった。今何て」


 目のヤニを取りながら尋ねた。


「ぼーっとし過ぎだって言ってんの。今朝はどーしたのさ。ひどく取り乱していたケド。ついでに言わせてもらうと、入学した時よりーーううん、中学の時と比べるとコミュニケーション能力が著しく低下しているように見えるんだケド」


「何だよ著しいって、公良らしくない。......まあでも確かに。当たりに弱いっていうのかな。視線だったり敵意だったり、今朝のバスみたいな状況になると口が回らなくなっちゃうんだよ」


 何だか言っててばつが悪くなってきた。思わず俯いてしまう。


「あーいや別に、ちょっとからかっただけだよ。ゴメンよ、君がまさかそこまで本気にするとは思っていなかったものだから、さ」


 公良は申し訳ないといった様子で笑った。腫れ物に触れてしまった、或いは地雷を踏んだ、そんな振る舞い。そこまで本気にしたつもりは無いのだけれど。そこまで申し訳なさそうにされるとこっちまでそんな気分になってしまう。


 その時唐突に、『彼女』の事が思い浮かんだ。あの人の目を引く後ろ姿が。公良との何の脈絡もない会話の中で思い出すという事は、つまりはそういう事なのだろう。


 公良に『彼女』の事を聞けば。『彼女』がどんな存在なのかが分かるかもしれない。見た目なんて関係無い、なんて御託を並べても結局は『彼女』の事を誰よりも知りたいし、理解したがっているのだろう。自己嫌悪に陥ってしまいそうになる。


 こんな葛藤を繰り広げながら、僕は公良に告げた。


「公良」


「んー?」


「いつもバスで僕の前にいる人......の事が知りたいんだ。お前の情報網で何とかならないか」


 へ。という顔をしている。完全に不意をつかれたようだ。無理もないか、全く別の方向から、全く違うベクトルの話題が振られたのだから。豆鉄砲を食らったような表情の公良は、そのまま数秒の間固まり、バグの解消されたゲームの様に突然動き出した。


「えっ、それってアレかい⁉︎ 俗に言う恋愛相談ってヤツ?」


「そうかもしれない」



「......うーん。そっかそっか」


 公良は少し考え込むような仕草を見せた。しかしすぐに合点がいったという風に頷いてみせると、前の席の椅子を引き寄せて腰をかけた。


「それでそれで? その人の名前は?」


「知らない」


「ん、分かった。じゃあ......学年は?」


「学年も......知らないな」


「じゃあじゃあ見た目! 美人な人とか可愛い人とかあるでしょ?」


「......」


 ぐうの音も出なかった。僕は本当に何も『彼女』の事を知らないのか。この体たらくに流石の公良も落胆の様子を隠せないようだった。眉を八の字にして小さくため息をついている。


「おいおい水面クン......『何にも知らない』んじゃ調べようがないじゃん! 君は今、『ノーヒントで、かつ触れずにこの箱の中身を当ててみろ』ってのと同じ問答を私にしてる事になるんだぜ?」


 公良は両手で四角形を作るジェスチャーをした。公良の言う事は正しい。何の情報も無しに調べられるという方が道理でない。


 それから公良は大袈裟に腕組みをして続けた。


「それにどんな顔してるかも分からないの? 外見じゃなくて中身の人間性で好きになる人も沢山いるけど、それはあくまで多少の交流がある事が大前提じゃん。話したこともないような人だったら尚更外見で判断しちゃうのが人情でしょ」


「......」


 言葉に詰まってしまう。それはきっと、傍から見れば彼女の言い分が正しくて、僕が間違っているから(とまでは言わないが、恐らく変わっている)だろう。それを意識的に自覚しているから反論も出来ない。しかし。


 それでも、僕は。


「......顔が『無い』事は好きになっちゃいけない理由にはならないと僕は思う。きっとこれは一目惚れなんだ。それも、『可愛いから』なんてちゃちな理由じゃない。もっと直感的で衝動的なものなんだ」


 僕はただ言いたい事だけを公良にぶつけた。顔を『知らない』のではなく『無い』と言ったのは彼女に対する僕なりの皮肉のつもりだ。


 しばしの沈黙の後、公良は小気味よく笑った。


「あははははははは! なかなかどうして面白い事を言うねぇキミは! 詩人みたいだ。シェイクスピアにでもなったつもりかい?」


 言いながら、公良は立ち上がった。座っていた椅子を元々あった場所に戻し、踵を返した。


「そういえばシェイクスピアはこんな事を言っていた気がするぜ? 『誠の恋をする者はみな一目で恋をする』ってね。了解、協力するよ。まあどの道さ、どれだけ情報が無かろうと明日のバスで私がどんな人か、っていうのを確認すれば良いだけの話だしね」


「そうか......ありがとう、ってどこに行くんだ?」


 公良はいつの間にか教室の引き戸型の扉に手をかけていた。そして不思議そうな視線を送ってきた。


「何でって......もう昼休み終わりそうだもん。クラス違うから、戻らないと」


 そうだった。公良と同じクラスだったのは中学の時だ。高校に入学してからは別のクラスになっていたのだった。


「あは、キミはやっぱり最高だぜ、水面。そんな君が......まぁいっか、じゃあね」


 何か言いかけた公良だったが、続きを言わずにそのまま行ってしまった。彼女が出て行った途端に始業を告げるチャイムが鳴り、各々の昼休みを過ごしていた生徒が次々と席に着く。教科書を脇に抱えた先生が教卓の前に立ち、授業の開始を促した。

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