第3話


 * * *

「どうして、制服を着ているんですか」


 青い絵の具をキャンバスに乗せながら、彼は聞いた。白いキャンバスを埋めていく鮮やかな青を見つめながら、私は自身の着ている服の袖をぎゅうと握り締める。

 紺色の襟とスカート、赤いスカーフのセーラー服。

「学校に、行こうと思ったんです」

「今は夏休みなのに?」

「夏休みだからこそ、ですよ。というか、渚さんだって制服着てるじゃない。あなたこそ何故着ているんですか?まさか、こんな廃ビルに来たのは部活動の一環として?」

「僕は……ただ、制服姿が一番落ち着くから着てるだけです」

 なんだその理由は。不思議そうにきょとんと彼を見つめると、彼は困ったように苦笑した。

「ところで、夏休みだからこそ、とはどういう意味です?」

 そう問うた彼の表情は見えない。妙に落ち着いた静かな声は、私が紡ぐ答えを既に知っているかのように思えた。もちろんそんな筈は無いし、私が制服を着て廃ビルに通う理由は、普通なら、初対面の人に話すのは憚られるようなものだった。


「……私、不登校、なんです」

 それでも何故か、私の唇からはするすると言葉が溢れた。

 握り締めていた袖越しに、腕に巻かれた包帯の感触が手に伝わる。

 彼はちらりと私を横目で見る。僅かに見えた口元は、微笑んでいた。その微笑は憐れみでも何でもなく、それはただ安心して話を続けて欲しい、といった意図が感じられた。


 天使のようだと思った。

 あまりにも綺麗で優しい笑顔は、どこまでも透き通っていた。

 美しい笑みを湛えた天使は、暗く重い閉ざした扉を軽快にノックする。扉の奥、膝を抱えた化け物は、天使に応えようと震えながらも顔を上げる。


「学校に、行くのが、怖くて。賑やかな教室が、みんなの、沢山の視線が、怖くて。

 でも夏休みなら、学校に生徒がいたとしても、ほとんどがグラウンドやそれぞれの活動場所の特別教室で、校舎は静かでしょう?

 だから、少しは、怖くはなくなると思って……」

「それで制服を着て、学校に行こうとして、それでもやっぱり怖くて、1人になりたくてここに来る。そういうことですね?」

 震えて途切れた私の言葉を引き継いで、簡潔に述べた彼の言葉にこくりと頷く。少しでも早く、学校に行けるようになりたかった。そのためには、学校に慣れるしかないと思った。けれど生徒が多くいるタイミングに行くのはどうしても怖いからと、長期休業中に学校に行ってみようとした。

 その為にこうして、わざわざ制服に袖を通しているのに。

 どうしても途中で足が竦むのだ。

 どうしても逃げ出したくなるのだ。


「どうして、学校に行くのが怖いんですか?」

 パレットの上に出していた分が尽きたのだろうか、彼は青い絵の具のチューブを絞り、新たな青を作り出そうとしていた。すらりと長い指が筆を握るその様子も、ひどく美しかった。

「……分からないんです」

 白を混ぜて、紫を混ぜて、また青を混ぜてを繰り返して、やっと納得のいく色が出来たのか、キャンバスにそれを乗せていく。キャンバスの地の色である白は、もうほとんど見えない。

「分からない、とは?」

「……私、は、」

 泣き喚いて私は不幸だと言えるほど、不幸なわけでもない。胸を張って幸せだと誇れるほど、幸せに満ちているわけでもない。

 いじめに遭ったとか、そんな大きな事件は起きていなかった。友人との些細なすれ違いはあれど、決定的に傷つけられるような何かは無かったのだ。

「なぜだか、嫌だったんです。

 どんな醜い欲望や嫉妬だって、“恋”だと言えば綺麗に見えてしまうように、悪意を隠した言葉が飛び交うのが。

 ずっと友達だよ、なんて言って、その裏では散々に悪口を言っていたり、簡単に壊れては簡単に治されていく、脆い人間関係が。

 本音を隠して笑う、人の仮面が。」


 何事も無かったのだ。ありふれた日常を、波風も立てることなく過ごしていた。けれどいつからだったか、ふとした瞬間に交わされる社交辞令などのささやかな嘘が、どうしても引っかかるようになってしまった。1度気になってしまってからはもうどうしようもなく、周りの言葉が、笑顔が、視線が、全てが——恐ろしい感情を隠した「嘘」に見えた。

 美しく咲き誇る気高い薔薇が、その茎に鋭い棘を幾つも持っているように。

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