第2話


「まあ、まだ描き始めたばかりですけどね」

 形の整った唇がふわりと笑みの形をつくる。それは、あまりにも綺麗だった。今すぐにでも消える幻のようにすら思えた。

「…?どうしました?」

 呆然とその顔を見つめていると、ふと彼と目が合った。驚いた表情のまま固まっていたであろう私に、彼は首を傾げる。

「あ、いや、すごく、綺麗だなって……」

「この絵ですか?ありがとうございます」

 いや違う。そっちじゃない。いや、確かに絵も綺麗だけれど。


「いつからここで絵を描いてたんですか?」

 ふと、疑問に思ったことを投げかけてみる。昨日まで、ここで彼の姿を見かけたことは無かったはずだ。

 彼は一瞬何かを躊躇うように口を噤んだのち、ぱっと笑って答えた。

「描き始めたのは今日ですよ。僕がここに来たのも初めてです」

「そう……なんですか」

「あなたは、……あ、名前をお聞きしても?」

「深月、です。深い月と書いて、みつき」

「深月さん。素敵な名前ですね。僕は渚」

 渚。静かにさざめく波と澄んだ白の砂浜の様子が脳裏に浮かび、なんとも彼に似合う名前だと密かに感心した。


「深月さんは、いつもここに来るんですか?」

「……ええ」

 答えると、彼は一層嬉しそうに笑みを深くした。夏空を映した色素の薄い瞳が、ふっと細められる。

「僕、この絵を完成させるまで、ここに来ようと思うんです。もし良かったら、僕とお話を……、いえ、お友達に、なってくれませんか?」

 すらりと美しい手のひらが、私の方へ差し出される。吸い込まれるように、私はその手のひらに自らのそれをそっと重ねた。


 彼に、惹かれた。

 現実離れした美しい容姿に、だけではない。

 どことなく、懐かしいような愛しさを感じた。部屋を片付けた時に、色褪せた、楽しい思い出の写真を見つけた時のような。

 そして、何故だろうか、どうしようもなく胸が痛かった。

 彼に触れているのに、まるでそれがずっと遠くに在るもののような気がした。

 届きそうもない何かに、必死に縋りつこうと手を伸ばすような。

 それは、死にたいと願い、空に手を伸ばしたあの日の感覚とよく似ていた。

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