空色アイロニー

虚月はる

第1話

 それはとても、綺麗だった。

 溺れてしまいそうな深い深い青の空を刺す閃光の中、微かに笑った彼はただ、綺麗だった。


 * * *


 死にたいと願ったのは、いつのことだったろうか。青い夏の空の中に、溺れてしまうことが出来たならどれだけ幸せだろうかと、決して届きはしない夏空に焦がれ手を伸ばしたのは。


 そんなことを思いながら、傷だらけの荒れ果てた灰色の壁に手をつき、今にも崩れ落ちそうな階段を踏みしめていく。目指すのは屋上。ここは、街の片隅にひっそりと建っている5階建ての廃ビルだ。かつては人が沢山行き交っていたのであろう広々としたこの廃ビルは、もう私以外の客人は無い。

 1人でいられる場所を求めていた私にとっては、最適な場所だった。気まぐれでぶらぶらしていた時に見つけて以来、私はほぼ毎日ここに通ってる。特に何をするわけでもなく、ただ、1人になりたいだけで。


 朽ちつつある階段の軋む音と、蝉の唄が耳に痛い。茹だるような暑さが纏わりつき、汗がつつと肌を伝っていく。廃ビルにはもちろん電気など通っているはずもなく、屋上に行くには階段を登るしかない。夏の蒸し暑い空気の中、5階分の階段を登るのはかなりの体力を消耗する。

 やっとのことで扉を開き、屋上に体を滑り込ませ、倒れるようにして閉じた扉に背を預ける。

 喧騒は遠くに霞み、短い命の中で懸命に歌い続ける蝉の声が先程よりも鮮明に耳に届く。私以外に人のいない廃ビルの屋上には、コンクリートの灰色と空の深い深い青だけが広がっている。まるで夏の世界に、私1人だけが取り残されたようだ。


「……あれ?」

 ふと、空から視線を外せば、屋上の片隅に異質なものを見つけた。昨日ここに来た時には無かったはずのもの。

 長方形のように見える、白いそれの周りには、背もたれのない低い椅子と、何かの道具が雑然と置かれている。

 なんだろう。昨日は無かったのだから、今この時までに誰かがここに来ておいたのだろう。突然に現れた私以外の客に興味が湧く。


 それは、キャンバスだった。

 描きかけなのだろうか、青い絵の具が中途半端に広がっている。その青を背に、白い絵の具がほんの少し置かれている。まだ適当に色を置いてみただけという段階のようで、パッと見ただけではよくわからなかったが、私には夏空を背に立つ少女の絵のように見えた。未完成ではあるが、どことなく儚い美しさを感じる。


「僕の絵、お気に召しましたか?」

 突然背後から聞こえた声に驚いて、慌てて振り返る。背後に立っていたのは一人の美しい少年だった。絵に抱いた印象の“儚い美しさ”という言葉をそのまま具現化したように。

 強い陽射しの夏にはおよそ似合いそうにもない透き通った白い肌に、薄い金色の髪がさらさらと揺れる。灰色がかった色素の薄い瞳には、夏空が綺麗に反射していた。

 どこかの生徒なのだろうか、肘のあたりまで袖が捲られたYシャツに黒のスラックス。典型的な男子生徒の夏服だ。

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