転換ー4

「ハァッ、ハァッ、ハァッ――」

 アパートのドアを後ろ手に閉めて、急いで鍵をかける。無意味だと分かっていても、ドアスコープから外を見て、誰も追ってきていないかを確かめる。

 数分――呼吸が落ち着くくらい外を見て、誰も追ってきていないことが確認できると体中の力が抜け、玄関にへたり込んでしまった。

「大丈夫か? ほら、立てるか?」

 先ほどとは打って変わって優しい声をかけながら、浮浪者は俺を抱き上げると土足のまま俺を抱きかかえて部屋の中へ入っていった。

 こいつ――浮浪者……いや……。

「名前……。あんた、名前は何て言うんだ?」

 やり方はどうであれ、馬鹿どもから俺を助けてくれたんだ。

 ボコボコを通り越してグチャグチャになってしまったが、死んではいないだろう。そのために鍛えているんだし。

 それに、経緯はどうであれ父さんからの手紙を持って来た。どんな素性か分からないが、今すぐ問題が起こることもないだろう。

「私の名前は、クラエス。クラエス・ウィラハ・エステンハース。最後の竜の姫だ」

「あぁ、はいはい、クラエスさんね。まずは助けてくれてくれて、ありがとうございます」

「なんの、なんの」

 俺が素直に礼を言うと、少しだけ照れた様子で頷いた。

「クラエスさんの国では習慣がないかもしれないけど、家では靴を脱がないといけないんだ」

 俺はその場で靴を脱ぐと、玄関に向かって投げた。上手いことに、普段、靴を置いている場所に綺麗に収まった。

「そうか。それはすなまい」

 クラエスは、皮ひもを緩め始めた。

 すると、重なり合っていた布の部分からパラパラと砂が落ち始め――。

「あっ、ちょっとまっ――」

 止めるも間に合わず、クラエスは靴――というか、布の塊から足を抜き取ると、俺と同じように玄関へ向けてそれを投げた。

「――てえぇぇぇぇえ!?」

 抜き出された足と布の塊からは砂と小石がパラパラと落ち、それを玄関に向かって投げると、投てきされてから玄関に当たるまでの間で、まんべんなく砂が舞い散る。

 潔癖症ではないが、ここまでの大惨事を見逃すことができるほど、俺は汚部屋にしたいとは思わない。

「ん? 何か間違えたか?」

 やや困ったような口調で聞きながら、クラエスはフードを取った。

 そこには、あのランドリーでの大立ち回りをしたとは思えない、凛としているがあどけなさが残る女の子の顔があった。

 身長は、俺と同じか少し低いくらい。後ろで束ねられているが、赤と黒が混じった髪に、綺麗に伸びた眉に気が強そうな眼。見た目と声色のギャップが激しい。

「いや、今のは俺が悪かった。本当は、玄関で家に上がる前に靴を脱ぐんだ」

「そうか。こっちも同じなんだな」

 なら初めからそうしろよ、とは口に出せなかった。同い年とはいえ、体格の良い男を片手で投げ飛ばし、数名を一気に叩き潰す力をこの女の子は持っている。

 下手なこと言って暴れられても困る。

 いや、その前に、月曜からどうしようか。あそこまで滅茶苦茶にしたんだから、問題になるだろう。

「ユキト、ユキト」

「えっ? なに?」

 明日の学校について考えていると、クラエスに肩を揺すられた。

「その手紙を早く読んでくれないか? そうでなければ、約束が守れない」

「約束ってなんだ?」

「読んだ後に全部説明しろって言われているから」

 誰に、とは聞かない。そんなもん、父さんに決まっている。

 左手には、ランドリーでの一件からここまで、馬鹿みたいに握っていた父さんからの手紙が握られている。これを読まない限り、説明はできないようだ。

 シワを伸ばすように便箋を開く。道中、この手紙を読むことは無かったのか、クラエスが覗き込んできた。

 そして気付く。

「気分を悪くするかもしれないけど」

「分かっているなら止めておけ」

「いや、言わせてくれ。クラエスって、いつから風呂に入っていないんだ?」

 正直に言って、クラエスは臭い。最低でも、2,3週間以上は風呂に入っていない臭いだ。

 失礼を承知で聞いたが、俺は驚くべき言葉を耳にした。

「風呂とは、ナリノリが言ってが、お湯を貯めた鍋に入るんだろ? そんなことはやっていない」

「水浴びは?」

「たまにしていた」

「最近は?」

「結構、前だ」

 うおぉぉぉぉ……。これは、ヤバいぞ。話を聞いたら、臭っていなかったものまで臭ってくる気がする……!

「今日は、どこに泊まるんだ? ってか、今までどこで寝泊まりしていたんだ?」

「色々なところで寝て来た。昨日は、公園に居た人が紙で家を作ってくれた。今日もそこへ行こうと思う」

 公園って、中央公園か。最近、自由な人たちが住み始めて問題になっていたからな。

 いや、確かに、こんな格好なら迎えいれられても不思議じゃない。しかし、今まで良かったからといって、このままでいいのだろうか?

「それより、早く手紙を読んでくれないか? そうでないと、約束が果たせない」

「あっ、あぁ……」

 そういえば、クラエスは父さんと何か約束をしてここまで来たんだよな。手紙を読むことで、父さんのことが何か分かるのだろうか……?

「……今日は、泊まるところがないんだよな?」

「だから、寝るところは昨日、作ってくれたと言っているだろう」

「それは、泊まるところとは言わない」

 言っていいものだろうか。このアパートは俺名義で借りているし、賃料も俺が払っているので、家主の俺さえ良ければ構わないんだが……。

 父さんのことも気になるから、仕方がない。

「行くところがないなら、今日は泊まっていけ。もう遅いし、そんな格好でうろついていると職質されるぞ」

「ここで寝ても良いのか?」

 俺の言ったことがちょっと分からなかったのか、少しだけ呆けた様子で聞き返して来た。

「クラエス――さん、さえ良ければ。それに、父さんのことを色々と聞きたいし」

「それは良かった。外で過ごすのは、なかなか辛い。私はユキトのことを知っているが、ユキトは私のことを知らない。知らない人間を家に入れるのは、この国の人間は苦手と聞いていたから」

 今までどんな人と出会ってきたか分からないけど、なかなかな事情通と出会えたようだ。

「それに、私も早くナリノリのことや、私のことを話しておきたい」

「なら、悪いけど風呂に入ってきてほしい。言っちゃ悪いが、結構、臭うから」

「そうか?」

 スンスン、とクラエスは自分の臭いを嗅ぐが、鼻が壊れているのか、よく分からない、といった顔を俺に向けて来た。

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