後編
「君、一人なの?」
ぽたぽたと雨の降りだした神社、拝殿の屋根の下で、僕は隣に座る女の子に尋ねた。
「うん、一人だよ。お兄さんもそうでしょ?」
女の子はなんでもなさそうに、僕のことを知ったように言う。僕は思わず頷いた。
迷子のお兄さん、と呼びかけられたことが気にかかっていた。
さっきからどうしてこの子は、僕が家出をしてきたことを、知っているように言うのだろう。
いや、そんなことよりも、ひとまずここが危ないことは伝えておかないと。
「ねえ、ここは危ないよ。人は来ないし寂れてるし。石段もずいぶん古いから……」
「雨なんか降ってたら、崩れちゃうかも、でしょ?」
僕の言葉を遮って女の子が悪戯っぽく笑う。
なんだ、知っていたのか。それなら尚更早く帰さないと。
言葉を続けようとしたら、女の子が話し出す。
「平気だよ。ここはまだ崩れない。神様がいるから平気」
「神様……?」
そんな伝承あっただろうか。
いやそもそも、ここは何を祀っている神社なのだろう。
昔から、誰にも聞いたことがなかった。
ここには、本当に誰も訪れないから。
身近な大人たちでも、近所の子供達でも、何もない古ぼけた神社になんて用はなかったから。
昔確かに信仰があったのだとしても、それを知っている人は、この町にはきっと、誰もいないんだろう。
それに、神様がいるのなら、僕の両親だって__。
「消えかけてたんだけどね。人が来てくれるなら、まだ大丈夫」
「ちょっと待ってよ。神様なんて本当にいるわけないじゃないか」
嬉しそうに語る女の子の声を、思わず真っ向から遮った。
言ってしまってから、ハッとする。
こんな小さな女の子の夢を見たような言葉に、ムキになるなんて。どうかしている。
なんて大人気ないんだろうか。やっぱり僕は大人になりきれていないんだろう。
慌てて自分の言葉を取り消そうとしたら、女の子の目と目があった。
「どうして、そう思うの?」
じいっと、こちらを見る瞳。
昔テレビとかアニメとか、理科の教科書とかで見た琥珀の色に似ていた。
茶色と橙の中間のような色。何かを見通そうとするような、色。
「……それは」
言いよどんでも、誤魔化そうと言葉を探しても、琥珀色は追って来た。
静かに僕を見て、続きを待っている。
「……うち、生活に苦労してるんだ」
思わず零して、それからは、堰を切ったように話し始めた。
あるいは、僕は求めていたのかもしれない。
気兼ねなく、自分のことを話せる場所を。
自分のことを話したって、逃げずにただそこで静かに耳を傾けている人を。
雨が激しく降りしきるこの場所でなら、自分を縛っている鎖のような思いも、流れてしまう気がした。
「両親が借金負っててさ。しかも、それは僕のせいなんだ」
女の子はただ、隣で頷きながら聞いている。
拝殿から、雨が叩きつける境内を見下ろしながら、僕は話す。
「僕が小さい頃に病気してさ。3年だったかな、入院したらしいんだ。それで、治療費とかがかなりかかって」
ぼたぼたぼた、と。拝殿の屋根から、大粒の雨雫が落ちる。
水を溜め続けるのに、耐えきれなくなったように。
そう、母さんがこの話をした時も確か、こんな風に泣いていた。
「ごめん、って。よく言われるよ。ゲームもお菓子も小遣いも部屋も、満足にあげられなくてごめんって」
言われた時、僕はどうしたのだったか。
確か、僕も泣いたのだ。ああ、そうだ。
母さんと父さんと同じように、僕も泣いて、今日と同じように、怒鳴ったのだ。
「だから僕は言ってたんだ。『父さんと母さんみたいな人が、そんな顔しなきゃいけないなら、僕なんていなければよかった』って」
僕なんていなければ、よかった。
そうすれば全てうまく回っていた。
父さんも母さんも、きっと僕以外の子供だったなら、きっと僕のような不出来な子供でなかったら、幸せに育てられただろうに。
その子供だって、きっと。あんなに優しくて温かくて、思ってくれる親の元だったなら、幸せだったんだろう。
……何の幸せにも思えなくて、罪悪感ばかり募っていく、こんな親不孝者の子供でさえ、なければ。
「だから、家出したの?」
女の子が、静かに問う。
違う、と答えようとすると、女の子は続ける。
「自分が、不出来だから。早く就職して、独り立ちして、迷惑かけたくないから。だから、家出したの?」
目を見開いた。
僕は、そこまで話しただろうか。就職したいと?独り立ちしたいと?迷惑をかけたくないと?
家出をしてきたのだと、僕は、ここにきて一言でも言っただろうか?
「……えっと」
「答えて。私は神様だから。何だって聞いてる。ただ縋ってくるだけなら、叶えることはしないけど」
女の子は言う。冗談みたいな言葉を、まるで冗談じゃないように。
当然の真実のように、そんなことなんて重要じゃないように、僕の思いこそが重要であるように。
女の子は__いや、神様は、ただただ、その琥珀で僕を見据えていた。
「そう、だよ。一緒にいたらなんか申し訳なくて、居づらくてさ。だから出てきた」
そっか。
神様は、それだけ口にした。
見据えていた琥珀の瞳が、ふわりと緩んだ。
「たくさん、努力して、気を遣ってきたんだね」
お世辞ならいらない。そう言おうとしたのに、どうしてだか泣きそうになった。
きっと雨のせいだ。うっかり、昔泣いてた父さんや母さんを思い出したからだ。
自分に言い聞かせながら、右の袖で目を拭った。
ぼたぼたと、僕の膝にも雨が落ちた。
「私もね、家出してきたの」
一向に止まない雨の中。僕がひとしきり目を拭ったのち、神様が言った。
顔を上げて神様の方を見る。神様は空を見上げていた。
じいっと、雨を落とす曇天を見上げて、左手を伸ばしていた。
そんなことをしたって、手は届かないのだ。神様のくせに。
「高天ヶ原、っていう名前の場所だった。そこにはたくさんの神様がいて、私は下級も下級の、神様って呼べるのかな、って感じのものなんだ」
高天ヶ原。聞いたことはある。神道の言葉だったっけ。
だから神社にいるのか、となんだか変に納得した。
「神様の宮殿の、灯篭の火。人間風にいうと、星。私はそれだったの」
星。ひどく頼りない声で神様はそう言った。
和服の模様が天の川に見えたなんて話したら、神様は笑うんだろうか。
それとも、その模様も。
自分がそれだと証明したくても、証拠なんてないから。必死に、自分の存在を証明したいだけなんだろうか。
「高天ヶ原も、神様も、人の信仰でできてる。大昔は、みんな神様を信仰してたから、高天ヶ原にも信仰が溢れてた」
寂れた境内を眺めながら、神様は呟く。
土気色の境内。鈍色の空。
ひどく生気を失ったような世界に降り叩きつける、雨。
「でも今は違う。人は進化して、神様なんていらなくなってきた。だから、高天ヶ原はどんどん荒れていくの」
だとしたら、僕らは悪いことをしているんだろうか。
親の元から独り立ちするのは、神様の元から離れるのは、悪いことなんだろうか。
迷惑をかけたくないと、余計な手間を与えたくないと、そう思っていても?
「それでいいんだ。人が信じてくれるから生まれたんだから。信じる人が少なくなったなら、その人のための高天ヶ原でいいんだ」
言う神様は、どこか悟ったような、吹っ切ったような、諦めたような顔をしていた。
やっぱり、大人の表情だった。親のような、子供のような。不思議な顔だった。
「高天ヶ原に信仰がなくなっていくから、神様も生きられなくなっていく。丁度、地球の食料が減ってくみたいに」
「だから、降りてきたんだ?」
僕が尋ねると、神様は頷いた。
実際、人間に興味があったってのもあるんだけどね、とはにかんだように笑う。
「他の神様に止められたけど、それでも出てきた。他の神様、太陽の神様や月の神様の方が、ずっと人間の役に立てるから」
その人たちの分の信仰を、自分が使いすぎてしまわないように、と。
社を信者の人に建ててもらって、そこに住んで信仰をもらおうとしたのだ、と。
神様は続ける。僕が堰を切って話したように。
「高天ヶ原は今は安定したみたい。信仰が少なくても、そこにいる神様の数も減ったから。でも、神様はいつも変わらずそこにいる」
社が壊れたら、高天ヶ原にいる神様以外は、終わりだけど。
そう結んで、神様は僕を見た。そして笑う。
ぽたぽた。雨が落ちる。けれどもう、雨の音も遠ざかっていた。
「だからさ。私も、家出してきたの。もう帰れないや。帰ったら、きっと重荷になるだけだから」
ひどく、寂しい声だった。ひどく、寂れた声だった。
ここで朽ちてしまうとしても、それでも神様はここにいるのだろうか。
だとしたらそれはあまりに悲しい家出だった。
もう二度と帰ることのできない家出。独り立ち。何の力も無くなって、そうやって忘れられて朽ちていく。
__辛くは、ないんだろうか。僕にできることは、何もないんだろうか。
馬鹿馬鹿しい話すら信じ込んでしまって、僕はそんなことさえ、考えていた。
雨が止みかけてきて、切れた雲の間から、橙の夕日が見えていることに気づいた。
「ほらね。暑い日は空が気まぐれなんだよ」
小さな神様はそう言って、自慢げに胸を張る。
「ああ、そうだね」
僕は笑って空を見た。
ふと、ポケットに入れていた携帯が振動する。
慌てて取り出した。母親のメールを知らせる表示が、画面に出ていた。
他にも何件も通知が来ている。どれもこれも父親と母親だ。
「行きなよ。帰れるうちに帰っておいて。いつか、できるときに独り立ちすればいいよ」
神様が笑って、僕の背中を叩く。
子供とは思えない力に階段を転げ落ちそうになって、慌てて境内に立った。
あ、そうだ。言って神様が、後ろ髪をまとめていたかんざしを引っ張って外す。
きらきら光る銀のかんざし。女の子がつける可愛らしいもの。
「持って行って。お守り。お兄さんがお父さんやお母さんと、仲良くできるように」
強引に握らせて、神様は手を振った。
もう行け、と言いたげに風が強く吹く。境内の出口に向けて。
自然足が出口に向いていた。これが神通力ってやつだろうか。
けれど、境内に立つ神様にはそれだけの威厳があるようにさえ思えて。
風と空を木々を従えた、和服に下ろし髪の小さな女の子は、なるほど確かに神様だった。
僕は風に逆らって、一つだけ叫ぶ。
「また来るから!また、絶対来るから!」
決して、僕だけは忘れはしないから。
このかんざしをくれる、君のことを。
続けて叫ぼうとしたら神様は首を振った。
それ以上の言葉は必要ない。そう言いたいのが、なんとなくわかった。
雨雲を吹き飛ばす風の中、僕は笑って、神様も笑った。
僕は石段を下る。
見慣れた町の景色に、あるべき場所に、帰るために。
いつか旅立つ場所に、帰るために。
もう空は紫に、紺に。星々がきらめく夜に、近づいていた。
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