前編
家出した。
今の僕の状況を、端的に表したらそうなるんだろう。
きっかけは些細なもので。
何も僕の思いを理解しようともしないくせに、全部わかったように話す親がうざったく思ったとか、ちょっと家で一緒にいるのが面倒とか、ただそういう理由だった。
やれ勉強だ、やれ進学だ、やれ学生の義務だ。
そういうものを振りかざして説教する両親に怒鳴って、財布と携帯だけひっつかんでそのまま出てきてしまった。
「やっちゃったなあ……」
ため息をつく。正直、やりすぎたとは思っている。
今頃あの人たちはどうしているだろうか。僕に進学して、もっと勉強して欲しいというあの人たちは。
厳しくなり続ける世間でも生きていけるように、より賢くあって欲しいというあの人たちは。
僕の帰る場所を、用意しているあの人たちは。
心配しているんだろうか。探し回っているだろうか。
そうだといい、それならきっと、僕は愛されている。
いいやそうでなければいい。そうでなければ、嫌われているのだから、好きに出て行ったっていいんだ。
二律背反した子供っぽい心が、うまく落ち着かせてくれなかった。
「ひとまず、落ち着こうかな」
とりあえず親と距離を取りたかった。
何にしたって、こんな子供っぽい気持ちのまま帰るわけにはいかなかったから。
このままじゃ、いつまでも独り立ちのできない子供だと思われるだろうから。
そんなことはしたくなかった。できることなら、もっとちゃんとした子供だと思われたかった。
叶うなら、一人前の大人だと言って欲しかったけど。
ただ少しの、10分にも満たない家出で音を上げかけているのだから、それはきっと叶わないだろう。
もうすぐあの人たちとも別れるのだから、せめて心配だけは、かけたくないのに。
いつだって、変に感情が邪魔してしまうんだ。
「どこで休もうかな……」
この町は田舎で、見渡す限り田んぼと林と家しかない。
適当に休めるような喫茶店に出るなら、バスを使って市街地まで出ないといけない。
そんな気持ちにはなれなかった。ちょっと心を落ち着けるだけなのだから。
どこかなかったか。思いながら周囲を見渡していた時、だった。
カラン、コロン__。
木が落ちるような音に気づいて顔を上げる。その音の鳴っている先を見ると、長い石段があった。
あそこ、確か神社だったっけ。もう古くなっていて、崩れやすくて危ないからと、地区の大人も子供も立ち入らない場所。
そしてその石段の上を見ると。
鳥居をくぐる、和服の女の子がいた。
時代遅れな、というよりは祭から抜け出してきたような和服。石段を鳴らす下駄。揺れる巾着。髪は真っ黒だった。
身長もとても小さいように見える。多分、年端もいかない女の子だ。
「知らないのかな……?」
あの神社が危ないということ。土砂が崩れやすいのも、階段がひび割れているのも、知らないのだろうか。
もう、そんなところに行ったって誰もいないのだということも、知らないのだろうか。
考えていると足がそちらに向かっていた。
せめて、危ないと伝えておかないと。何か事故があってからじゃ遅いだろう。
そんなことを思っていたけれど、きっとそのために向かったわけじゃないんだろうと、後から思えばわかった。
きっと僕は、あの女の子に自分を照らし合わせていたんだ。
祭りの場から抜け出てきたような、あえて一人になれる場所に逃げ込もうとするような、あの子に。
僕のように、誰かに拾い上げて欲しいだけだと、そう思ったから。
僕は石段を登る。
生い茂った草木と、石段の向こうに、少し濁り始めた空が見えていた。
カラン、コトン、カタン、コロン__。
段々と近づくごとに、女の子の髪に、かんざしが挿さっていることに気づく。
シンプルな一本のかんざし。キラキラと銀の柄が光る。藍のガラス玉がぶら下がっていて、古風だけどなんだか似合っていた。
薄青の和服。何の柄もないように見えていたけれど、近くで見ると、淡い白のラインが入っていた。
天の川みたいだ、と思ったのは、季節のせいだろうか。
ジワジワと汗がにじむ。蝉がギイギイガヤガヤ騒がしい。
その中を、女の子は一心不乱に登っていく。
登りなれたように、淡々と、前だけを見て登っていく。
息が切れ始めた僕は、鳥居にもたれて少し息をつく。
女の子はまだ登っていた。
「何なんだろう、あの子……」
子供ってあんなに逞しかったっけ。
何かに夢中になると、それしか見えなくなるんだっけ。
大人と子供の狭間で揺れる、今の僕ではよくわからなくて。
あんなに、綺麗なものだったっけ__?
僕は果たして、そうだったのだろうか。
わからなかった。何も。
親にとって、僕とはそんなに綺麗なものだったのか。
もしそうだとするなら、今の僕も、親にとってはそんな風に綺麗なのか。
少なくとも、今の僕は、僕にとって誇れるものでも何でもないのは、確かだった。
「行こう、もうあそこまで行ってる」
さっきまで数段先にいたはずの女の子は、もう石段を登り終えようとしていた。
頭を振ってから追いかける。
けれど、頭の中のモヤも、二律背反した感情も、振った頭の中で混ざるばかりだ。
石段を登って、灯篭の二つ並んだ参道とも呼べない入り口から、広場に入る。
拝殿の階段に、女の子は座っていた。賽銭箱の真ん前に。
女の子は一向に僕に気づかずに、ただただ上を見上げていた。
女の子の視線を追って、空を見る。
ざあ、ざあ、と。風が木の葉を揺らしながら、灰色の空を覗かせていた。
わずかに湿気たような、土の匂いもする。
「もうじき、雨が降るよ」
鈴の鳴るような声。幼い子供の声。驚いてそちらを見る。
声の主は、拝殿に座る女の子だった。僕の方を見ることなく、空だけを見つめていた。
「よく知ってるの。暑い日は、空が気まぐれだから」
「え、えっと……ありがとう?」
大きな瞳で空を見上げながら話す女の子に、僕はひとまずお礼を言った。
教えてくれた、でいいんだろうから、とりあえず。
女の子は、そこでようやく僕を見た。
目を見開いたのち、ふわりと口元で笑う。
「こんなところに人が来るんだ。しかも一人で。久しぶりだなぁ」
久しぶりって、どういうこと。
そう尋ねようとしたら、女の子がとんとんと、拝殿の階段を、女の子自身の隣を、叩く。
「こっちにおいで。濡れちゃうよ、迷子のお兄さん」
言われるままに僕はそこに歩いて行った。
だってその笑顔は、どうしようもなく、秘密と不純とを抱き込みすぎたような。
___大人の、けれど子供の、僕と同じ半端者の、笑顔だったから。
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