楽曲 第十四話
部屋がノックされ、タスクの膝枕で寛いでいた千紗が体を起こした。先生感謝の日と言いながらいつの間にか立場が逆転している。すぐに仲居が部屋に入ってきた。
「お食事をお運びしてもよろしいでしょうか?」
「お願いします」
「お飲み物はいかがいたしましょう?」
「ビールで。グラスは二つ」
「畏まりました」
タスクが対応するとやがて三人の仲居が手分けして料理を部屋に運び込んだ。
「あ、隣同士でお願いします」
これは千紗が言った。四人掛けのテーブルに二人分の食事を向かい合わせで並べようとしようしていたので意見を言ったのだ。
「畏まりました」
仲居は微笑ましい笑顔を向けて答えた。
程なくしてテーブルには色とりどりの料理が並んだ。駿河湾で水揚げされた新鮮な海鮮。他に山菜や茶碗蒸しや懐石鍋。昼食は遅い時間であったが目の前の料理は二人の食欲を十分にそそる。特に千紗だが。仲居が部屋を出ると千紗はビール瓶を持った。
「はい、先生」
「お、ありがとう」
「これがしたかったねん。肩を並べてお酌。いつもは缶ビールやから」
タスクの手元のグラスにビールが注がれるとタスクはビール瓶を取り上げた。
「はい、千紗も」
「おおきに」
千紗は手元のグラスをタスクに向けて傾ける。ビールが泡を立てながらグラスを満たす。
「ほな今日は運転お疲れさま。乾杯」
二人はグラスを合わせるとビールを喉に流した。グラスを置くと千紗はすぐさま料理に手を付ける。
「うんまっ」
千紗の箸が軽快に進む。
「はい、先生あ~ん」
千紗が箸で摘まんだおかずをタスクに向ける。タスクは目を軽く閉じ口を開けた。しかしなかなか口に物が来ない。タスクは目を開けた。すると千紗がジト目でタスクを見ていた。
「なんやそれ。先生らしない」
確かに素直に応じたこの行動、タスクらしくない。混浴や耳掃除で感覚が麻痺しているようだ。タスクは残念そうに自分の料理に向き直った。
「ぷっ、可愛いっ」
そう言って笑うと千紗は摘まんでいたおかずを自分の口に入れた。
「その残念そうな顔。珍しいやん」
「そうか?」
「普段あんま顔に出んやん。うち以外人の前では特にやけど。バンド指導の時は鬼のくせして」
「そりゃ音楽には拘りがあるから。俺融通利かないんだよ」
「融通利かんやて。間違いないわ」
しばらくして食事が終わると部屋には布団が敷かれた。二人は冷酒も嗜み程よい酔い加減である。
「近いな」
並べられた二組の布団を見てタスクは思った。千紗を見る限りあまり気にしていないようである。タスクはそう感じた。
「うちもうひとっ風呂。大浴場の方にも行ってみるわ。先生は行かん?」
「ん? あぁ、後で行く。先に行ってて」
「ほな、部屋の鍵頼むな。うち一時間くらいで戻ってくるから」
「わかった」
タスクは千紗が部屋を出たのを確認すると自分の鞄を掴んだ。そしてそれを枕元に置く。鞄を漁ると中からミシンの入った薄いビニール袋を取り出した。それは連なった避妊具だ。
「万が一。万が一な。必要ないと思うけど。念のため」
万が一を二回繰り返すところは似たもの同士の二人である。タスクは避妊具を鞄の奥に押し込んだ。そして大浴場に向かった。
夜も更けると二人は部屋の明かりを消しそれぞれ布団に入った。寝ている間に千紗にベッドに潜られたことは何度もあるが、これはタスクにとって初めての状況で落ち着かない。アトリエに泊まり込む時に、折り畳みベッドとソファーでそれぞれ寝るのとは違った感覚がある。
実は千紗も同様だ。しかし千紗にとってこれは二回目の状況だ。カズの家で食事に呼ばれた夜、酔っぱらいのタスクを抱えて宿泊施設に入っている。だからタスクよりは幾分落ち着いていた。
「なぁ、先生?」
暗くなった部屋の静粛を裂くように千紗がか細い声を上げた。
「ん?」
「葵さんとした時どうやったん?」
「え? だから、虚しかったって――」
「そうやなくて。葵さんの反応」
「……」
「……」
少しばかり二人の間に沈黙が流れる。
「そんなこと聞いてどうすんの?」
「……」
「……」
また二人の間に少しばかり沈黙が流れる。
「うち男の人に抱かれたことないからどんなんやろな思て」
「……」
「……」
何度も沈黙を挟んでは会話を続ける二人。
「興味あるのか?」
「ちょっとだけ」
嘘を吐け。ちょっとどころじゃないだろ。経験済みの処女のくせに。
「してみる、か?」
「……」
「……」
「先生がしたいんなら」
「……」
「……」
千紗は李奈と肌を合わせた夜を思い出す。相手が女の時にあの快感。男ならどうなのだろう。しかも隣で寝ている相手はタスク。他の男なら気持ち悪くて拒否反応が出るが、タスクなら抵抗がない。
千紗がそんなことを考えていると衣擦れの音とともにタスクが千紗の布団に入ってきた。千紗は全身の血が一気に脈打つのが分かった。そして視界の天井をタスクの顔と体が塞いだ。
「いい?」
千紗はタスクの目を見て静かに首を縦に振った。心臓の鼓動が落ち着かない。するとタスクが千紗にキスをした。唇を優しく噛まれ徐々に舌が入ってきた。千紗はそれに応えた。弱く、しかし深く。
タスクは一度千紗から離れると千紗の浴衣の帯を解いた。帯がなくなった浴衣は締りをなくし、タスクは千紗の浴衣をゆっくり左右に広げた。上下レース模様で統一された紅色の下着。薄暗いながらも認識できた。まだ幼さの残る千紗に大人の色気を感じさせる。そのギャップがタスクの興奮を掻き立てる。タスクはがっつく気持ちを抑えて優しく千紗の首筋に顔をうずめた。
千紗の脳裏に一枚の便箋が過った。李奈の部屋でタスクと和解した翌日に届いた手紙。その手紙はいつもと様子が違うように感じた。心なしかツバサは元気がないような。何かに打ちのめされているような。
――あなたとの手紙だけが僕の心の拠り所です――
これが一番目に留まった文面だ。なぜ『だけ』という表現を使ったのだろう。他に心休まる人や場所は持ち合わせていないのだろうか。心配と疑問を抱きつつも惚れた相手が自分を拠り所にしてくれていることが嬉しかった。
「ツバサさん……」
千紗は心の中で想う相手の名前を呼んだ。
「先生、ごめん」
瞬間、タスクははっとなった。これは千紗の口から出た言葉だ。タスクは千紗から身を引いた。まだ覆いかぶさったままだが腕を伸ばし千紗と距離を取っている。タスクは一気に冷静になった。二人は体を上下に位置したまま見つめ合う。タスクは優しく笑って千紗の頭を撫でた。自然に出た自然な笑顔だった。
「無理するな」
そう言うとタスクは千紗の浴衣の前面を閉じ千紗の体を隠した。千紗はタスクから向けられた笑顔に安心した。しかしどこか悲しく、心が苦しい。止めなければ良かっただろうか。止めなければ喜びを知ることができただろうか。止めなければタスクを喜ばせることができただろうか。後悔とも感じられる感情が頭の中で反復する。
タスクが隣の布団に戻ってからしばらくの時間が経った。数十分だろうか。一時間は超えただろうか。千紗はタスクに向けた背中でタスクをずっと感じていた。
「先生もう寝た?」
暗い密室での久しぶりの人の声は千紗のものだった。
「ううん、まだ」
千紗はそれを聞くと体を反転させタスクを向いた。タスクも首だけ千紗に向けた。
「さっき途中で止めといてこんなこと言うのも何なんやけど、そっち行ってもええ?」
「うん」
タスクはそう言うと少し横に移動し千紗のスペースを空けた。そして掛け布団を三角に折り千紗の侵入を促した。千紗はそれを見て体を起こすことなくタスクの布団に移動した。千紗は体をタスクに向け額をタスクの肩に預ける。タスクの腕に千紗が密着する。
「暑ない?」
「うん、大丈夫」
そして無言。
数分が経過してタスクが口を開く。
「腕、枕、してもいいか?」
「うん」
ぎこちないタスクの声に千紗は答えると軽く頭を上げた。タスクは千紗の頭の下に腕を通す。千紗がタスクの肩の付け根に頭を預ける。タスクは肘を折り千紗の肩を抱いた。それをきっかけに二人は心地よい眠りに就いた。
翌日、二人は旅館の中でゆっくりとした時間を過ごした。前日の夕方のようにぎりぎりの部分を隠して部屋風呂に入り、朝食を取り、旅館の中を探索して、部屋で寛いだ。
二人はチェックアウト時間ぎりぎりに荷物をまとめてフロントカウンターに立った。千紗は豪華なロビーを見回している。カウンターの中に立つ女将が会計伝票を差し出す。タスクはクレジットカードを提示した。それを受け取った女将はカードをリーダーに通しレシートを差し出した。タスクはそれにサインを書いた。そして女将はサインの書かれたレシートと交換に控えのレシート渡した。女将はすぐにカウンターの中へレシートを引っ込めた。その時カウンターの上に視線を向けた千紗の視界を女将の手元とレシートが一瞬だけ過った。
「え……」
千紗は声にならない声を出した。誰も千紗の様子に気が付かない。
旅館を出た二人はしばらく一般道を走って高速道路の入り口に差し掛かった。インターチェンジ手前の信号待ちでタスクは思い出した。直行する道路が赤信号に変わったのでもうすぐこちらが青信号に変わる。
「あ、ETCカード入れてない」
「もう、何してんの」
「財布後部座席の鞄の中だ」
「信号もう変わるからうちが取るわ」
千紗は運転席と助手席の間から身を乗り出し後部座席へ手を伸ばした。タスクの鞄を掴むと助手席に座り直し、中から財布を取り出した。
「黄緑のカード」
「はい」
財布を広げた千紗はすぐにわかりタスクにETCカードを差し出した。広げた財布からタスクの運転免許証が顔を覗かせている。
氏名:河野翼 ○○年十一月三十日生
千紗は自分の体が大きく脈打ったのが分かった。血が全身から一気に引くような感覚。千紗はそっとタスクの運転免許証を引き上げた。免許証の下の淵だけ財布のカード入れに残した状態。間違いない。タスクの顔写真だ。
「ちょ、写真あんま見るなよ。それめっちゃ写真写り悪いんだから」
ハンドルを握るタスクが横目で千紗を見て言う。車はいつの間にかETCゲートを抜けていた。
「はは、ほんまやな」
千紗は笑ったような言い方をしたが、顔は笑っていない。タスクは前方を見ているので千紗のその表情には気づかない。高速道路の本線に入った車はスピードを上げて進んだ。
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