楽曲 第十話
暦が八月に変わると夏の暑さが一層増す。暦が変わる前日から葵は東京に来ていて、今日から出社である。そしてサバハリの担当を任されることになった。牛島に付いての研修という名目だが、牛島は葵にサバハリの一カ月のスケジュールを渡すとそそくさと他の担当タレントのマネージングに専念してしまった。つまり丸投げである。とは言え実際に忙しい男なのだから咎めるのは酷だろう。
昨日葵はタスクのアトリエに遊びに来ていた。夜は食事と酒をタスクと共にして事務所が用意したマンスリーマンションに帰って行った。
タスクは相変わらずである。普通に考えれば一人ではこなすことができない量の仕事に追われている。中高生の夏休みに当たるこの時期、千紗が地方公演で東京を空けることが多い。それでも千紗は東京にいる日は午前中だけでもタスクの仕事を手伝っていた。タスクはそれに助けられていた。
タスクは千紗が最近恭介と親しくしていることを気にしている。夏の忙しさで会うことは少ないようだが、連絡は頻繁に取っている。タスクはそれに気づいている。しかし真っ直ぐ千紗に話を聞こうとする性をタスクは持ち合わせていない。
千紗はタスクとの接し方に特に変化はない。変わったことは忙しさで一緒にいる時間が少なくなったことくらいだ。タスクもそれは感じていた。しかしタスクはすっきりしない気持ちを抱えている。
千紗はこの日地方公演から帰ってきて真っ直ぐアトリエに来た。手にはキャスターバッグと肩掛けバッグ、それにタスクへの土産物を持っていた。
「先生出掛けとるんかいな」
千紗は荷物を応接スペースに置くと呟いた。スマートフォンを開きタスクのグーグルカレンダーを確認してみるがやはり予定は書き込まれていない。千紗は常にタスクの予定を把握しているので、この日も予定が書き込まれていないことは事前段階でも知っていた。地方に出ている日でもタスクに午前中から予定が入っていれば電話を掛けて起こしているくらいだ。
「やっぱここはええな。落ち着く」
荷物を置いた千紗は執務室に隣接するスタジオに入っていた。楽器を弾くわけではなく、しかし備品や楽器に触れて歩き回っている。この行動は一泊以上東京を空けて帰って来た時のルーティーンと化していた。
床が二段上がった作業スペース。千紗はそのステップを上がった。そして二脚ある椅子のうちの一脚の背もたれに触れた。
「うちの居場所。待っとってな。夏を超えたらまた先生と曲作るからな」
目を細めて言う千紗。その時千紗の指に何かが触れた。千紗は目元まで手を上げた。
「髪の毛?」
千紗の指には髪の毛が絡まっていた。千紗より明るい茶髪。千紗よりは短いだろうか。
「うちのか? ちゃうよな?」
タスクはサバハリの屋外ライブ会場にいた。普段室内で仕事をすることが多いタスクはこの炎天下に参っていた。
「なぁ、やっぱ俺帰ってもいい? 俺までいることないじゃん」
「いてよ、経営者なんだから」
「経営権持ってないよ。朝から電話掛けてきたと思ったら会場に来いだもん」
「そんなこと言わないで助けてよ。こっちだって牛島さんに丸投げされて右も左もわかんない状態なんだから。私こっちに人脈ないからせめてタスクがいてくれないと今後の仕事も取れないし」
控室となっているテントの中でタスクはパイプ椅子に座りながら蒸し暑さに顔を歪めている。その横に立っている葵が手を合わせて懇願のポーズをとる。
「お願い。ただ働きなのはわかってるんだけど。このお給料入ったらご飯奢るから」
「いいよそんな。サバハリがしっかり稼いでくれれば俺にも配当が入るし。東京の仕事だけならできるだけ手伝うよ」
ぶつぶつ文句を言いながらも気を使われるとつい甘やかしてしまう。なんだかんだと言ってもこれがタスクの優しさである。
「サバイバルハリケーンさん、スタンバイお願いします」
スタッフTシャツを着た会場スタッフがテントのカーテンを捲り、顔を覗かせて言う。その言葉でサバハリのメンバーが席を立ちテントを出た。タスクと葵もそれに続いた。
ステージ袖で一度円陣を組み、その円陣が解かれるとメンバーはステージへ流れて行く。その時に見たメンバーの横顔。今までに感じたことのない貫禄。これこそがライブバンドだ。タスクは鳥肌が立った。葵も同様だった。もう二人の知らないメンバーの顔だ。
二人はサバハリがメジャーデビューしてからライブ会場で関係者側にいるのは初めてだ。もちろん袖でステージを見るのも初めてである。デビューしてからこの二年数カ月でサバハリは多くの経験を積み成長していた。
「なんか遠くに行っちゃったね、みんな」
「そうだな」
この短い会話で二人はお互いが同じ空気を感じているのだと自然に読み取った。二人が横からステージを見るその目は、どこか遠くを見つめているようだ。嬉しくもあり、どこか寂しくもあった。
夕方、タスクはアトリエに帰って来た。十五階建てのテナントビル。その一階のエントランスで李奈と出くわした。李奈は背中にギターケースを背負っている。
「お疲れ様です。今帰りですか?」
「うん。帰ってきてたんだ? 今日はどうしたの?」
「さっき千紗に連絡したらアトリエにおる言うてたから。ヘッドフォンなしででっかい音出してギター弾きたくて。それでスタジオ貸してほしいなぁ思て」
「そういうこと。いいよ」
タスクは李奈と一緒にアトリエまで上がった。
「今下で先生と
「ほか」
執務室に入るなり言った李奈の呼びかけに千紗は答えたが、心なしか元気がなさそうである。
「どうしたん千紗? テンション低くないか?」
タスクも感じたことだ。千紗の様子を窺いながらタスクは執務室のデスクに着いた。千紗はPCテーブルで赤いノートパソコンを開いて椅子に座っている。
「なぁ、先生?」
「ん?」
タスクに問い掛ける千紗の声は心なしか暗い。スタジオの防音扉に手を掛けた李奈は背中でその会話を聞いていた。
「スタジオの作業ステージ、前にうちしか上げたことない言うてたよな?」
「うん」
「それは今でもそうなん?」
「あ、昨日葵上げたなぁ」
「あん? そら女か?」
タスクは千紗の言い方に、そして千紗の目に怒りを感じた。その様子に李奈も気づき踵を返して二人を見た。高校生の時に優奈に怒りをぶつけた時の千紗と一緒だと思った。
「何でなん?」
「いや、何でって言われても……」
「うち、あの場所めっちゃ大切にしてんねんぞ。うちにとっては神聖な場所や。先生の隣の席はうちやないの? 先生の仕事のパートナーはうちやないの?」
「千紗――」
李奈が割って入った。しかし千紗の口は止まらなかった。
「それをなんで他の女上げてんねん!」
千紗が怒鳴った。怒りの目を真っ直ぐタスクに向けている。タスクは困惑して言葉が出ない。
「それは千紗のわがままやろ」
口を出したのは李奈だった。
「は? なんや?」
千紗の怒りは李奈にも向いた。しかし李奈は怯まない。すると二人はお互いに捲し立てる。
「あんた先生の何なん? このスタジオ使わせてもろてる人は他にもぎょうさんおるやん」
「スタジオやない。曲を作るためのスペースのこと言うてんねん」
「だからそれが何なん? 自分以外の女が座ったことが気に入らんのやろ? 嫉妬やろ? 仕事の話とちゃうやん。それを公私混同って言うねんぞ」
「李奈に何がわかんねん。うちはあの場所でめっちゃいろんな曲に携わってんねん。めっちゃ時間を
「ほんなら千紗もちゃんと言ぃ」
「何をや?」
「千紗が恭介さんと
「ちょ、なんで恭ちゃんのこと知ってんねん?」
「話逸らすな。千紗は先生のことが好きなんやろ? せやからあの場所に拘るんやろ? 先生の隣に拘るんやろ? 先生にそれを押し付けるんなら千紗も言わんとフェアやない」
「恭ちゃんのことは関係ない。うちの問題や」
「ほんなら先生も答える義理ない」
千紗は唇を噛み締め押し黙った。タスクは二人の殺伐とした空気に何も口を挟めない。すると千紗は立ち上がり応接スペースに置いてある荷物を持ってアトリエを出ていった。千紗が荒く締めた玄関ドアの音が虚しく響く。
「ごめんなさい。取り乱してもうた」
静けさの残る執務室で李奈が口を開いた。
「いや……」
それだけ言ってタスクは立ち上がった。給湯室に向かったタスクが振り返らずに言う。
「そこ座れよ。コーヒー淹れるから」
「はい」
李奈は返事をするととぼとぼとギターケースを下ろした。千紗が座っていたスタジオの防音扉に一番近い席。李奈はその隣の椅子に腰掛けた。横目に開きっぱなしの赤いノートパソコンを見る。表計算が開いていた。
タスクは二人分のアイスコーヒーを持って四人掛けのPCテーブルの李奈の正面に座った。
「ほんまにごめんなさい。もっと言い方あったやろうに」
李奈は俯いてタスクに言った。タスクが差し出したコーヒーが視界に入る。
「気にするなよ。俺じゃあそこまで言えないし。気になってることも聞けないし」
「やっぱ気になってるんですよね?」
「あ、いや。実は俺他に好きな人いるから」
「そうやったんや。さっき言うてた葵さんいう人?」
「いや、葵はインディーズの時サバハリの活動を手伝ってくれてた人で……」
タスクはこれに続く「俺の元カノ」という言葉を呑み込んだ。なんとなく言い辛いのだ。
「千紗にも他に好きな人いるって聞いてるし」
「ほか、知ってたんや。ほんなら先生は千紗のこと恋愛対象やない言うことですか?」
「うん……」
この後しばらく沈黙が続いた。二人がコーヒーのグラスを上げ下げする音しか響かない。それを切るようにタスクが言った。
「ギター弾くんだろ? せっかくだから何か一緒にやらない? 俺ベース弾くから」
「ええんですか?」
「うん、セッション。あ、でもまた千紗に怒られるかな」
「ええですよ、あんなガキんちょのことは。それに使うのは演奏場の方やし。誰かとおもっきし音出してすっきりしたい」
「じゃ、行くか」
「はい」
二人はそう言って立ち上がり、李奈はギターケースを抱えてスタジオに入るタスクに続いた。
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