楽曲 第十一話
八月二十五日
思い出されるのは三日前の出来事。その日のタスクは夏の寝苦しさで予定よりも早く目を覚ました。
「おはよう」
いつもの聞き慣れた声。耳に馴染む声。自分を起こしに来る声。しかしこの日は目覚めてすぐに窓の外から微かに聞こえた。いつもと違う。
タスクは起き上がるとカーテンを開けた。するとマンションの前の道路脇に一台の乗用車が停まっていた。赤いセダンだ。その横に若い男女がいる。男は女の荷物を車に積み込んでいるところだった。そして女が体の向きを変えると顔が見えた。
千紗だった。タスクはハンマーで頭を叩かれたような衝撃を受けた。以前にこの日から行くと言っていた旅行の相手が男だったなんて。あれが宇賀恭介なのか? 弦輝が言っていた通り親しそうにしている。程なくして千紗は助手席に乗り込み車は発進した。
そしてその翌日。
もうすぐ日付が変わろうかというタイミングの夜遅く。また窓の外から千紗の声が聞こえた。
「おおきに。ほいじゃ」
一人でビールを飲んでいたタスクは窓の外を見た。千紗の姿はなく、前の日の朝に見送った車の屋根が見えた。すぐに車は走り出した。けどあの赤いセダンどこかで見たことがある。誰かが乗っていた。
しかし隣の部屋からの玄関ドアを開け閉めする音で考えるのを止めた。程なくしてベランダに隣の部屋の光が漏れた。やっぱりさっきの声は千紗だったのか。タスクはこの日届いたばかりの百花からの手紙を握りしめた。そして箪笥の上段の缶の中へ仕舞った。
千紗がアトリエでタスクと李奈と喧嘩をしてからも千紗は時間を見つけてはアトリエに顔を出した。そしてタスクの事務仕事を手伝った。どんなに気まずくても責任感の強い千紗の行動だ。更に逃げたと思われることを拒否する負けず嫌いの性格も影響した。しかし千紗は必要最低限しか口を利かない。
「ねぇ、聞いてる? さっきから上の空じゃない?」
「え? 聞いてる聞いてる」
意識がこの日に戻ると葵がタスクの顔を覗き込んでいることに気づいた。手にはビール。ここはタスクの部屋だ。
「もう。せっかく部屋に上げてくれたんだからもっとたくさん話そうよ」
「うん。ごめんごめん」
この日タスクはサバハリの飲み会に参加していた。二次会まで出てこの日はもう帰ろうとした。すると葵からタスクの部屋に遊びに行きたいと言われた。その時既に二十二時を過ぎていた。タスクは少し考えた後、了承した。そして葵が部屋に来て今三次会と称し二人で酒を飲んでいる。
「本当に狭いね」
「だから言ったじゃん。こんなとこ見たってしょうもないだろ」
部屋を見回して言う葵。明るい茶髪のセミロング。タスクは葵を見て付き合っていた日のことを思い出す。交際に消極的だったタスクによく半年も付いてきたものだと思う。
「千紗ちゃん、よくこの部屋に来てんだ」
「来てないよ」
自然にタスクの口から出た言葉は嘘だった。言ってすぐになぜ嘘を吐いたのか自分で疑問に思った。何を隠そうとしているのだろう。
「嘘ばっかり。水切り籠に女もののマグカップあったし。彼女いないなら仲のいいお隣さんしか可能性ないじゃん」
嘘はしっかりばれていた。葵は部屋に入る前に通過したキッチンで千紗のマグカップを視界に捉えていたのだ。千紗はこの部屋に自由に出入りして煙草を吸う。自由にお茶も煎れる。勝手知ったる他人の家である。
千紗はハーレムの仕事を終えて夜遅くに部屋に帰って来ていた。
「煙草吸いたい。アトリエに行けばよかったな」
部屋に入ってシャワーを浴びると煙草を吸いたい欲求が襲ってきた。アトリエに行けば置き煙草がありベランダで吸えるが、帰りの道中は煙草のことが頭になかったため真っ直ぐ帰って来た。
ふと窓の外を見た。ベランダにタスクの部屋の明かりが漏れている。
「おるんか」
千紗は毒吐いて一つ溜息を吐いた。いなければもらった合い鍵で忍び込んで一人で煙草を吸うのに。
しばらく考えた。そして決心をした。あまりタスクと顔を合わせたくはないが隣の部屋に行って煙草を吸おう。
タスクの部屋では葵が床に手を付きタスクの顔を覗き込んでいだ。顔が近い。タスクは少し身を引いて戸惑った。
「何?」
「キスしよっか?」
「は?」
「て言うかエッチしよっか?」
「バカ言うな」
「今日泊めてよ。行く場所ないし」
「マジ?」
「本気だよ。もう終電ないし」
葵はじっとタスクの顔を覗き込む。タスクは困惑の様子を隠せない。揶揄っているのだろうか。葵は真剣にも笑っているようにも見える。目が離せないタスクは時計を見ることはできないが、恐らく葵は嘘を吐いていないのだろう。たぶん終電はない。
「私まだタスクとしか経験ないよ?」
揺れるタスクの脳裏に百花のことが過る。そしてもう一人。なぜあの顔まで。
「タスク元気ないみたいだから慰めてあげたい」
「いや、でも」
「エッチしたから付き合ってなんて言わないよ。慰めたい私の自己満足だから」
葵はじっとタスクを見つめている。タスクは目を逸らせない。すると玄関の鍵が開く音がした。
「え? 千紗?」
すぐに玄関ドアの開く音がした。
「ちょっとごめ――」
葵から離れようとしたその時。葵が右手で頬を左手で肩を押さえてタスクの口を自分の口で塞いだ。驚いて見開くタスクの目に目を閉じたゼロ距離の葵の顔が映る。そして部屋のドアが開いた。タスクは慌てて葵の肩を押して離れた。ドアの方向を見るとやはりそこには千紗が立っていた。千紗に表情はない。
「あ、ごめんなさい。あなたが千紗ちゃん? 恥ずかしいとこ見せちゃったね」
葵は千紗を向くと恥ずかしそうな笑顔をわざと作って言った。タスクは唖然とした。
「いえ。勝手に入って来たんはうちやから」
千紗は表情を変えないで言った。タスクは何か言おうとするが言葉が出てこない。
「私サバハリの元マネで葵です。それからタスクの元カノです。今日ここに泊めてもらうことになったの」
「そうでしたか。すいません。邪魔して。うち部屋空けるから隣気にせず今夜はごゆっくりして下さい」
そう言うと千紗は踵を返した。タスクは慌てた。千紗を追いかけようと思った。けど言葉は浮かばない。何と言ったらいいのかわからない。ただ一つだけ。葵が泊まることをまだ了承していないと伝えたい。
しかし立ち上がろうとしたタスクの肩を葵が押さえつけた。そしてタスクの唇に自分の唇を押し付けた。まただ。タスクは混乱してもうどうしたらいいのかわからなかった。頭に浮かぶのは千紗が恭介と一緒に一泊東京を空けた事実。葵の唇がタスクの唇を噛むとタスクはゆっくり目を閉じた。そして玄関ドアの閉まる音が聞こえた。
「なんやこれ、変やなぁ。なんでこんなん出てくんねん。うちには関係やいやん。うちにはツバサさんがおるやん」
千紗は止まらない涙を指で拭いながら夜道を歩いていた。すると大通りの三丁目の交差点に辿り着いた。北は駅。東はアトリエ。今歩いて来た道、西には自宅。そこを右に折れ横断歩道を渡って南へ向かった。何度も何度も止まらない涙を拭いた。
しばらく真っ直ぐ歩いて途中で路地に入った。そしてとあるマンションのエントランスに着いた。千紗以外のハーレムのメンバー三人が住むマンションだ。千紗はオートロック式のマンションの一階のエントランスで壁に寄りかかり腰を浮かせて座った。
「こんなとこ来てどないすんねん。沙織か? 優奈か? 泊めてもらうんか? 李奈はあかんやろ。喧嘩中や。はぁ……」
千紗は膝の上で腕を前方に投げ出し、深い溜息を吐いて俯いた。やっと涙が止まった。一回帰ってから着替えたので部屋着のTシャツとハーフパンツ姿だ。隣の部屋に移動しようと思っただけなのでつっかけサンダルを履いている。足の爪が見える。太ももに何かが刺さる感触がする。タスクの部屋で吸おうと思っていた煙草の箱だ。ポケットに入れたままだ。千紗はしばらくそのまま蹲った。
「千紗?」
千紗はその声に顔を上げた。目の前には部屋着姿の李奈が立っていた。Tシャツにロングのジャージ姿でクロッカスを履いている。手にはコンビニの買い物袋を持っていた。李奈は帰宅後シャワーを済ませコンビニに行っていたのだ。そしてその帰りだった。
「うわぁぁぁん」
千紗は立ち上がると李奈の胸に飛び込んだ。そして声を出して泣いた。立った拍子に煙草とライターがポケットから落ちた。李奈は驚いたが買い物袋を持った右手を千紗の背中に回し、空いていた左手で千紗の頭を優しく撫でた。
千紗は李奈の部屋に入れられて李奈に身を寄せながら泣いた。そしてあったことを全て話した。
「やっぱ千紗は先生のことが好きなんやなぁ」
「ちゃうよ。そんなんやないよ」
泣いていて言葉にならない言葉を李奈にぶつけた。李奈は一つ一つ丁寧に千紗の言葉を拾った。
「じゃぁなんで泣いてんの?」
「知らん。わからん。悔しい」
「悔しいってそれ嫉妬やん。悲しいんやろ?」
「うわーん」
「あぁ、もう。こうしとったるから好きなだけ泣きぃ」
千紗はそのまま李奈の肩に顔を押し付け泣いた。
「ひっく、ひっく」
しばらくすると千紗は呼吸が定まらないながらも泣き止んだ。
「恭介さんとはそういうことやったんか。ごめんな、誤解しとったわ」
「ううん、隠しとったうちが誤解を招いたんや」
李奈は優しく千紗の頭を撫でている。そして千紗の顔を引き寄せた。李奈は目を閉じ千紗の唇に唇を重ねた。千紗も目を閉じそれに応じた。
「仲直りのちゅう」
やがて唇を離して言った李奈の言葉に、千紗がはにかむように笑った。
「千紗、エッチしよか?」
「李奈……」
「今日の夜は嫌なこと全部忘れさせたる。気持ちようさせたる。そん
「……」
「……」
「して……」
一度間はあったものの千紗は迷わずに李奈を求めた。李奈は千紗の手を引きベッドに上げた。
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