楽曲 第九話
千紗は野太い声で「あっづい」と言って買い物袋を四人掛けのPCデスクの上に置いた。千紗はタスクに頼まれ事務用品の買い物に出ていて帰って来たのだ。タスクはパソコン画面から目を離さず礼を口にする。
「ん、サンキュ」
「預かったお金、全額小口に当てといたからな」
「うん、全て千紗に任せております」
「コンビニでいろいろ支払いも済ませてきたで」
「サ・ス・ガ・デ・ス」
「その感情の込もってへん言い方。もっと労いの言葉はないんかいな」
「ワー、アリガトウ。オコヅカイ、アゲヨウカ? オジョウチャン」
「どつくぞ、われぃ」
「失礼しました」
千紗は給湯室でアイスティーを汲むとPCテーブルの上に置いて事務仕事を始めた。
「千紗、今日の夜アレンジしよ?」
「ごめん、夏休み終るまで制作は一旦パス。フェスやライブが目白押しでそっちに感覚を集中したいねん。リハやステージ多いから睡眠もしっかりとらなかんし」
「そっか」
初めて曲作りを断られた。どうしても千紗と進めたい曲があった。しかし千紗が言っていることは尤もだと思うのでここは素直に引くしかない。タスクは諦めた。
「今日もリハだっけ?」
「うん、事務所のスタジオで二時から」
しばらくして千紗は赤いノートパソコンを閉じた。
「ほなうちもう行くわ」
タスクはその言葉に時計を見た。
「まだ十一時半過ぎたとこじゃん。ポン太で飯食って行こうよ?」
「ちょっと用事あんねん。ほな行ってきまーす」
そう言うと千紗はバッグを肩に掛けアトリエを出たので、タスクは仕方なくそのまま一人で仕事を続けた。
一人になったアトリエでタスクの中にもやもやとした気持ちが残った。タスクにはこのすっきりしない気持ちがわからない。梅雨もとっくに明け、外はうんざりするほど暑くすっきりした天気だ。しかしタスクの心は曇り掛かったような天気である。
人付き合いに消極的だったタスクはこの時この気持ちの正体に気づいていなかった。それは誘って断られた時の残念さだ。先日企画したバーベキューは、恐らく自分で企画したのは初めてだ。連絡をとって人を集めてくれたのは千紗と哲平だが、企画者として人が集まってくれることに多少なりとも満足感を抱いていた。
この日は千紗にアレンジをしようと誘い、昼食に行こうと誘い、しかしどちらも断られてしまった。今までは千紗の方から寄ってくることが多く、それが当たり前になっていた。タスクの方から誘ったこともなくはないが少ない。そして千紗に断られたことも思いつく限りない。タスクはこの残念な気持ちを消化できずにいた。
そしてこの残念な気持ちに追い打ちを掛けることがあった。事務所も夏のライブやフェスに意識を向けている。これからハーレムの名前を売っていくのだから当然だ。タスクのバンド指導が八月いっぱいまで休止になっていた。時々別のステージプロデューサーが付いてリハーサルの面倒を見るとのことで、タスクは自分では認識していないが、千紗との時間が減ることに無念さを感じていた。
しかし悪いことばかりではない。先日弦輝経由で連絡があり九月の千堂ヤマトのバックバンドの正式オアファーが届いた。これは千紗にとってもハーレムの名前を売るチャンスで、事務所も全面バックアップを約束してくれた。当の千紗も乗り気で承諾の意思表示をした。千紗もタスクも一緒に音楽の仕事をするようになった頃は二人で同じステージに立てるとは夢にも思っておらず楽しみにしている。
更に九月に入ってすぐに二人は一泊の温泉旅行に行く。特に千紗はこの旅行を楽しみしている。その頃にコンサートのセットリストが届く。二人は旅行後、届いたセットリストを二週間で覚え、二週間拘束された後福岡でのコンサートとなる。拘束と言っても一日二~三時間の練習やリハーサルを優先させられるだけだが。
夕方十八時を過ぎても外はまだ薄明るい。タスクの携帯電話が鳴った。表示は哲平になっている。
「もしもし」
『あ、タスク? こないだはバーベキューありがとな』
「いやいや、こちらこそ」
『今から弦輝と飲むんだけど良かったら来ねーか?』
親友よ。やはり君は親友だ。晴れない気持ちのタスクは酒に縋りたかった。こんな気分に慣れていない。一人になることが不安になっていた。珍しく人と居たいとさえ思っていた。
「いいね、行くわ」
『じゃぁ場所ラインで送るわ。俺たち先に店入ってるから』
そう言われてタスクは周辺を片付けるとアトリエを出た。
哲平が指示した店まで電車を使い二十分ほどで着いた。ここはモダンな造りの創作料理店で落ち着いた雰囲気である。個室も用意されていて芸能人などお忍びの客がよく使う。
タスクは店に入ると個室に通された。
「おう、早かったな」
入るなり哲平が声を掛けて来た。一番奥に弦輝もいる。二人は横並びに座っている。最大十人ほどが入れそうなボックス席の個室だ。
「こんな広い部屋に三人か?」
「タスクに電話した後他にも声掛けた」
答えたのは弦輝だった。タスクはその弦輝の正面に座った。すると個室の入り口が開いた。
「お疲れさまでーす」
そう言って入って来たのは李奈、沙織、優奈だった。
「呼んだのってハーレムだったんだ?」
「そう、連絡したら来るって言って」
タスクの質問に弦輝が答える。すると優奈がタスクの隣を指して聞いた。
「あれ? 先生ここ空いてるんですか?」
「うん」
そう答えたタスクの横に優奈が、その隣に李奈が、李奈の正面に沙織が座った。座るなり優奈が言う。
「先生千紗は?」
「は? 一緒じゃなかったの?」
「リハ終わったらさっさと帰りましたよ。家帰ったか先生のアトリエに行ってるんやと思うてました」
「いや、俺アトリエにいたけど千紗はアトリエを午前中に出たっきり来てない」
「午前中? えらいまた早いですね?」
意外だったのか疑問の表情を見せる優奈。タスクは優奈の質問に話を続けた。
「用があるって言ってたぞ」
「ふぅん。うちらは四時にリハ終わってご飯にはまだ早いなって話になって三人でお茶しとったんです。そしたらさっき弦輝さんから電話もろて。先生も呼んでる言うてたから、てっきり千紗と一緒に来るもんやとばかり」
「そうだったんだ」
この時タスクと優奈の会話を横耳に聞いていた李奈は怪訝な表情をしていた。しかし誰も李奈のその様子には気づいていない。
「そっちの三人、早く注文」
弦輝に急かされてタスク側の三人は慌ててオーダーを決めた。
会も進むと酒が入り賑やかになっていた。この日は口うるさい事務所の社員がいないのでハーレムの三人も少しアルコールが入っている。
「しっかし千紗どこにおるんやろな。電話したろか」
「やめときぃ」
優奈がほろ酔いで言うが、それを制したのは李奈だ。
「千紗なら今日二回も見たよ。同じ男といた」
この言葉に李奈ははっとなった。この言葉を発したのはタスクの正面に座る弦輝だ。タスクと付き合いの短い弦輝は他のサバハリのメンバーが期待するほどタスクの色恋を気にしていない。それなのでタスクと千紗の男女関係も特に気にしておらず、二人は仕事の付き合い程度にしか思っていなかった。つまり哲平菌感染者ではなかったのだ。
「昼時に事務所の近くの喫茶店でランチしてた。その次はここ来る途中に見たんだけど、これも事務所の近くのファミレスに入っていった。すげー親しげだったぞ。俺今日音の修正でレコスタ入ってたから事務所いたんだよ。ま、事務所の近くの店なら週刊誌に撮られても言い訳できそうだもんな」
これに優奈は唖然としてしまった。隣同士の哲平と沙織は二人で話し込んでいてこの話題に気づいていない。李奈は頭を抱えた。
「ふぅん。男できたんだ」
タスクは努めて明るく言うものの、明らかに動揺していた。自分の誘いを断って他の男と会っていたことに。しかしタスクは新たに湧いた疑問を口にした。
「けどなんで事務所の近くならいいんだ? 千紗はともかくその男は関係ないだろ?」
「あぁ、相手の男もうちの事務所のやつだからだよ」
「へ?」
タスクと優奈は同時に間の抜けた声を出すも、李奈は相変わらずである。
「あの、何だっけ。最近オーディションで結構いい役受かったやつ……。加賀? 須賀? 羽賀?……」
「宇賀恭介」
「そう、それ。まぁまぁイケメンの俳優」
李奈が呟くように、自分で確認するかのように言ったアシストに、弦輝はすっきりしたような声を出した。この後タスクはあまり会話が頭に入らず、李奈は居心地の悪さを感じていた。
翌日ハーレムはライブが入っているので李奈は喉の保護のためこの店だけで帰ることにした。気落ちしてしまったタスクもそれに続いた。他の四人は次の店に向かうようだ。
「たぶんうちらの地元の人ですねん」
帰りの電車の中で徐に李奈が口を開いた。李奈とタスクは対面シートの電車に隣同士で座っている。
「え?」
「千紗と一緒にいた男の人」
「なんでそんな人が事務所に?」
タスクに自然と湧き上がる疑問。李奈はゆっくり説明を始めた。
「千紗の死んだ姉ちゃんの元カレでな、俳優になる言うて高校卒業と同時に上京しててん。千紗の姉ちゃんの二個上やからその人先生とタメです」
「私事務所入ってすぐの時、名簿見た時に気づいたんです。本名で活動してる人やから。まさか同じ事務所にいるて思うてなくてほんまにびっくりして」
「私も千紗の姉ちゃんには可愛がってもろてたから元カレの顔と名前くらいは知ってて。いつか千紗が名簿に気づくか、
「千紗は認めへんけど絶対先生のこと好きや思うてます。ちなみに先生は自分でも気づいてないやろうけど千紗のこと好いとる思うてます」
「ただ相手が千紗の姉ちゃんの元カレの宇賀恭介で、今千紗が親しくしてて、私にもそれを言わんってことはなんか入り込めんのですわ」
「そうだったんだ……」
「先生今焼きもち焼いてます?」
「焼きもち?」
李奈の質問に鸚鵡返しで質問を口にするタスクは今一ピンときていない。
「先生もしかして今まで嫉妬とか怒りとか悲しみとかそういう負の感情避けてきたんとちゃいます? 今もやもやっとしてるんならそれは焼きもちですよ? ええ加減自分の気持ちに気づいて下さい。私は物心ついた時から好きな人が近くにおって、何かとその子に寄ってくるもんに焼きもち焼いてたからわかるんです。今はもうだいぶ軽ぅなったけど」
李奈が一生懸命説くが、うまくタスクの理解に及ばない。タスクは顔をしかめた。
「焼きもち、か……。ごめん、よくわからない」
「ちゅうかそれでどうやって小説書いてるんですか?」
「読んだことない? 俺ミステリーが多いから。あとはアクションやSF。感情表現はいろんな媒体を引用してる」
「……」
この後李奈は何も話せなくなった。これだからタスクは作詞ができないのだ。書こうとも思わない。このまま二人は無言で帰路に就いた。
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