楽曲 第七話

 六月も終盤に差し掛かると夏の暑さが顔を出す。この日の昼下がり、東備糸駅を出て歩くタスクに眩い日光が降りかかる。タスクは仕事上の出先からの帰りでアトリエに向かっていた。耳にはスマートフォンを当てている。電話の相手は葵だ。


『と言うわけで夏休みを利用して八月の一カ月事務所で働かせてもらえることになったから。インターンみたいなもんよ。アパートも事務所が用意してくれるって。その間に真紀がサバハリの飲み会もセッティングしてくれるの。タスクも来てね』

「バンドマンの夏は熱くて忙しいんだぞ」

『東京のスタジオリハの後らしいよ。二十五日だって。地方公演があるから翌日出発して、翌々日からツーデイズのアリーナ公演って言ってた』

「ふぅん、わかった。二十五日予定しとく」


 タスクは電話を切るとグループラインのメッセージが溜まっていることに気づいた。牛島とタスクも参加しているハーレムのグループラインだ。タスクはそれを開いた。


「あのクソガキ……」


 タスクは千紗が貼りつけた画像を見て毒吐いた。そこには寝ているタスクの額にアイブロウで落書きした画像が。そしてそれに面白おかしくコメントするハーレムのメンバーの書き込み。そう言えば今朝はおしぼりで額を擦られて起こされたなと思い出す。


 程なくしてタスクはアトリエに着いた。玄関のガラスドアから応接ソファーに座る千紗の後ろ姿が見える。スマートフォンを耳に当てて誰かと電話をしているようだ。


「うちも車、乗っけてくれるん?――助かるわ。――その日撮影抜けれるん?」


 タスクが玄関ドアを開けると、千紗はタスクの入室に気づいた。


「ほな八月二十二日から二十三日な。――うん、よろしく」


 千紗はそそくさと電話を切り、タスクは千紗を横目にデスクに着いた。


「なぁ先生、もうすぐ夏やで」


 千紗はそう言ってデスクに歩み寄り、背中からタスクの両肩に触れた。そしてタスクの顔を覗き込む。


「六月も夏と言う」

「そやなくて、もうすぐ夏休みやで? ときめかん?」

「短い盆休みがある社会人はいても、夏休みは学生だけでしょ」

「その言い方。風情ないなぁ」

「で、何よ?」


 千紗に思惑があることを悟ったタスクは話の本題に入ろうと先を促した。


「せっかくやからどっか遊びに連れてってや。この夏の思い出作りしよや」

「仕事の休み取れんのかよ? 夏は忙しいだろ?」

「うーん、なら九月なってからでもええから。うちらご飯と事務所くらいしか一緒に外出たことないやろ? たまにはどっか遊びに連れてってぇな」


 親におねだりをする子供のようにタスクにすり寄る千紗。


「さっきの電話、一泊二日で旅行にでも行くのか?」

「え、あ、うん。ちょっとな」

「その日休み取れたの?」

「うん。そんなことよりうちは先生と遊びに行きたいねん。連れてってぇや?」

「じゃぁ、温泉にでも行くか? 俺賑やかなとこ苦手だし。ハーレムもだいぶ人気出てきて目立つのも良くないし」


 千紗の表情がぱぁっと一気に明るくなった。そして元気に答えた。


「行く。ほんなら泊まりやな」

「は? それはさすがにまずいだろ。事務所にも何て言われるか。日帰りだって」

「ええやん、別に。今更同じ部屋で寝るんも気にする仲やないし。ここにはもうベッドまであるんやで。うちちゃんとお忍びで行ける宿探すから」

「うーん……」


 タスクは唸った。そして考えた。数分その状態だった。そして顔を上げた。


「わかった、いいよ」

「やったー!」

「一泊な。自分で手配しろよ。日程は任せる。予算上限なしで俺が出すからちゃんと考えて宿探せよ」

「任せとき」


 千紗はステップを踏みながらソファーに戻った。そしてバッグを拾い上げた。


「ほなうちこれから全体練習あるから行くな」


 そう言うと千紗はアトリエを後にした。


 この日のハーレムの練習前、事務所で千紗は沙織を呼び出した。場所は四階の休憩室。煙草の残り香が二人にまとまりつく。他に人はおらず、千紗は安堵した。


「ビッチ隊長。極秘ミッションがあります」

「言うてみたまえ。処女三等兵」


 敬礼のポーズをとる千紗に沙織が腕を組んで胸を張って言った。千紗は敬礼を崩すと少し脱力して懇願の目を沙織に向けた。


「お忍びで泊まれる温泉宿教えてほしいねん。九月の前半に一泊」

「とうとう来たか、この時が」


 沙織は拳を突き上げ、天を仰いだ。


「そんなんやないよ。相手先生やもん」

「何を今更。あんたら未だに何も起きてへんのがおかしいねん。そもそも一泊旅行で何も起きんつもりかいな。起こさんつもりかいな」

「そうや思うけど……」


 そんなことあるわけないと思う沙織だが、言ってもしょうがないかと思い先を続けた。


「ま、ええわ。話進めるで。九月やと生理はいつ来るん?」

「えっと……、たぶんやけど、二週目かな」

「ほな旅行は一週目やな。いくらかピックアップしてラインで送るわ」

「おおきに。助かるわ」

「今度一緒に下着買いに行くか?」

「頼むわ」


 沙織の誘いに即答した千紗は真顔になり、胸の前で両こぶしを力強く握る。


「やる気満々やないか」

「万が一や。万が一な、先生が狼さんになってもうたら浴衣ひん剥かれるやろ。そん時に恥ずかしくないようにや。うちは抵抗すんで。ちゃんと抵抗するからな」

「言うとれや。言うとるか。二回を二回も言いよってからに」


 千紗ははにかむと沙織と一緒に休憩室を出た。


 練習と食事を終えた千紗は東備糸駅を真っすぐ進んだ先の大通りの三丁目の交差点までメンバー四人で歩いた。辺りはもうすっかり暗くなっている。千紗は体を左に向け赤信号の横断歩道を待とうとする三人に言った。


「ほなうちこっちやから」

「アトリエ行くん?」


 右に曲がれば自宅マンションに帰れる道を左に曲がろうとしていたので李奈が聞いた。


「そや」

「千紗ライン送るな」


 沙織が李奈と優奈の背後から二人の肩越しに言った。親指を握り込み人差し指と中指の間から指先を覗かせるジェスチャーを見せる。千紗はそれに敬礼のポーズをして応えた。


 千紗はアトリエに着くと持っていた空のペットボトルを捨てようと給湯室へ入った。そしてペットボトルをごみ箱へ入れて給湯室を出た。スタジオの照明が点いている。タスクはこの中にいるようだ。


「なんやこれ」


 普段は目に付かないタスクのパソコン画面。給湯室から出たことでこの日は目に付き、千紗はデスクに近づくと立ったまま腰を曲げてマウスに右手を添えた。ポインターが動くと画面の中央に丸で囲われた右向き三角形が現れた。薄い白の表示である。


「動画か」


 千紗はそれが再生ボタンだと気づくとマウスを動かした。その時左手をデスクについた拍子にイヤホンコードに引っ掛けてしまった。


「あ」


 小さな鈍い音とともにイヤホンがパソコンから抜けた。しかし千紗はすぐに画面に目を戻し再生ボタンをクリックした。


「あぁ~ん♡」


 瞬間、千紗は手で口を覆った。手の中の口はあんぐりと開いている。目も同様に見開く。パソコンから流れたのは女の卑猥な声だった。そして画面が徐々に遠ざかると裸で絡み合う男女の姿を捉えた。千紗は見入ってしまいそのまま椅子に座った。


「すごっ」


 千紗は座ると肘をデスクに預け、手で口を覆ったまま食い入るように見た。


「うおっ」


 時々驚きの声を上げる。


「ひぇ~。そんなことまで」


 相変わらずパソコンのスピーカーからは女優の卑猥な声が。


 どのくらいの時間集中して見ていただろうか。スタジオの重い防音扉が開く音で我に返り千紗は視線を上げた。正面には唖然とした表情のタスクが立っている。パソコンのスピーカーからは女優の卑猥な声が。千紗の手はいつの間にか太ももに落ち、口はあんぐりと開けたままだ。


「あ……」


 千紗はその開けた口を動かさずに声を出した。目が合った二人の間で一瞬時間が止まったように感じた。しかしパソコンだけはその空気が読めずに起動したままだ。

 タスクはデスクを回り込むと手に持っていたスマートフォンの背面を千紗とパソコン画面に向けた。千紗は唖然としたまま。穿いていた短めのスカートを今にも捲って手が足の付け根に入り込みそうだった。


 パシャッ


 この音で千紗は一気に正気に戻った。タスクはスマートフォンのカメラで千紗の表情と卑猥な画面を一枚に収めて撮影したのだ。


「あかん!」


 瞬間、千紗は叫んだ。


「へへん。ハーレムのグループラインに送ろ」


 タスクは悪戯な笑みを浮かべて言った。いつも千紗には日頃からいろいろと悪戯をされている。これは絶好の仕返しのチャンスだ。グループラインには牛島も入っている。これほど楽しいことはない。

 千紗はタスクの腕に飛びついた。しかしタスクはスマートフォンを天井に向け身長の低い千紗に抵抗した。そして腕を解くと事務所を駆け回った。女優の卑猥な声がBGMとなって執務室にこだまする。


「あかんて、消して。お願いや、消して」


 駆け回るタスクを千紗は追いかけた。一体になった四人掛けのPCテーブルとL型に配置した執務デスクの周囲を二人は何周も駆け回った。タスクのにやついた表情は崩れずスマートフォンを天井に向けたまま。千紗は今にも泣きそうだ。


 何周か回って千紗はタスクのシャツに手を掛けると一気に両腕をタスクの腰に回した。その時にタスクの体が傾き応接テーブルに足が掛かった。千紗が抱き着くような格好で二人はソファーに倒れた。ソファーに倒れこんだ二人は向かい合う状態だ。下にいるタスクは腕を伸ばしたまま首を手の先に向け、千紗は必死にタスクの手のスマートフォンに自分の手を伸ばす。パソコンの動画はいつの間にか終わり音は消えていた。


「ほんまにあかんて」


 千紗のその言葉にタスクが、


「こんな面白いネタ絶対に消さん」


 と言いたくて千紗に向いて首を振った時だった。タスクはこの時千紗の顔がすぐ近くにあることに気づいていなかった。お互いの唇に同時に何かが触れた。一瞬ぶつかっただけに過ぎず二人とも感触を把握できていない。しかし何が触れたかははっきりと認識できた。

 二人はまた時間が止まったかのように見つめ合った。二人とも赤面するのを感じる。


 しばらくそうしてから最初にタスクが口を開いた。


「ご、ごめん……」

「あ、いや……。今のは事故や。気にせんで」


 そう言うと千紗はタスクから下りた。タスクも腰を起こした。その瞬間、千紗がタスクの手からスマートフォンを取り上げた。そして体で抱え込み素早く操作して画像を消した。完全に油断していたタスクはその様子を唖然と見ていたが、気が付いて手を伸ばしかけた時にもう遅かった。


「はぁ」


 千紗はほっとしたように息を吐いた。その声で伸びかけた手をタスクは引っ込めた。安堵した千紗はスマートフォンをタスクに返した。


 この後二人は仕事をしてから一緒にマンションに帰った。一階の集合ポストで同時にお互いの部屋のポストを開けると、千紗のポストに封書が届いていた。大阪の実家からだ。


――ツバサさん。今日のは事故です。堪忍や――


 千紗は手紙を胸に当てると目をぎゅっと瞑り心の中で唱えた。


「何それ?」


 タスクがそう言って怪訝な顔で千紗の手に握られている封筒を見た。タスクは自分が投函した封筒が入っているとは夢にも思っていない。


「何でもない。行こ」


 千紗はそうタスクを促して部屋に帰って行った。

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