楽曲 第五話
五月も中旬のこの日の朝、タスクはアトリエのソファーの裏の本棚の前で折り畳みベッドを広げて寝ていた。普段は畳んでいないと本棚の前のスペースが潰れてしまう。ひと手間かかるがやはり足を伸ばして寝られるのはいい。シングルベッド一つ分入るだけの窮屈さを感じないちょうどいい幅のスペースである。
……のはずだが、なぜかこの朝は窮屈だ。昨晩も夜中遅くまで仕事をしていて疲れている。眠りが深かったはずのタスクは目を覚ました。
「うおっ!」
タスクは飛び起きた。隣で千紗が心地よさそうな寝顔を浮かべて横になっていた。タスクは飛び起きた拍子に本棚で頭をぶつけそうになった。応接テーブルにはラップをしたサンドウィッチが置かれている。千紗は朝食を作り、タスクを起こしにアトリエに来たのだが、例の如くベッドに潜り込んでいたのだ。
タスクはスマートフォンを開いた。カレンダーを見るとやはり朝から来客の予定が入っている。千紗が朝食を持って起こしに来た理由が理解できた。そして今起きれば朝食を取るだけの時間的余裕がある。
ベッドで上半身だけを起こしているタスクは横で眠っている千紗を見下ろした。千紗の寝顔をじっと見る。千紗のすべすべした頬に親指で触れる。こんな時だけしか触れる機会はない。
「やっぱ可愛いよな」
タスクがそう呟いた瞬間、タスクの手首を千紗が掴んだ。タスクの心臓が一気に跳ねる。千紗の目がしっかりと開き、タスクは驚きとともに赤面した。
「今のほんま?」
千紗は満面の笑みである。起きていたのか。タスクは千紗の手を解くと何も言わずに給湯室に向かった。
冷水で顔を流している時ついさっきの状況が浮かんできた。恥ずかしい。これでは潜り込んだことに対する説教もできやしない。このまま給湯室に籠ってやろうか。そんなことを考えた。しかしタスクの考え虚しく千紗は給湯室に入って来た。タスクの顔を覗き込み笑みを浮かべる。
「さっきのほんま?」
タスクの目が泳ぐが、何も答えられない。羞恥心しか感じない。
「ねぇ、ほんまなん?」
「なんでこんなとこまで追いかけてくんだよ」
「朝ごはんのコーヒー淹れに来たねん」
タスクはそう聞くとそそくさと給湯室を出た。この後の朝食の最中、千紗はずっとご機嫌な眼差しをタスクに向けていた。
千紗がアトリエを出て朝の来客の対応を済ませるとタスクはデスク正面のノートパソコンを開いた。おかしい。電源が入っている。来客があったのでこの日初めてパソコンを開く。……はず。
タスクはマウスに手を掛けると唖然とした。スクリーンセーバーが解かれ現れたのは口を開けて寝る自分の不細工な寝顔だった。デスクトップの壁紙に設定されている。
「あのクソガキ、いつの間に……」
この日の昼下がり。千紗がアトリエに戻って来た。千紗は雑誌の取材を受けたりラジオ番組に出演したりとこの日はまだドラムを叩いていなかった。スタジオに入ることが目的だ。
「あれ、電気点いとる。誰かおるん?」
千紗は執務室のデスクで仕事をするタスクに聞いた。スタジオの防音のガラス扉から見える照明に気づいての質問だった。
「あぁ、カズ。あいつ自前のドラムセット持ってるけど、マンションだから家では電子ドラムで練習してんだよ。たまに生のドラムが叩きたいって言って事務所のスタジオ行くんだけど今日は空いてなかったらしくて。そういう時は貸しスタ入ったりもするんだけど、一回ここ来てみたかったって言ってスタジオ借りに来た」
「そうなんや」
千紗はカズの練習が終わるのを待とうと事務仕事を始めた。千紗のためにタスクが用意した新品の赤いノートパソコンを使って。
程なくして練習を終えスタジオから出てきたカズ。
「おう、千紗。来てたのか」
「お疲れ様です」
「練習か? 悪いな、横取りしちゃったな」
「いえ、事務仕事してたから大丈夫です」
「そんなことまでやってんのか?」
「はい。バイトさせてもろてるんです」
そう言うと千紗はカズと交代でスタジオに入った。千紗がスタジオに入るのを見送るとカズがタスクに言った。
「タスクと千紗って本当に毎日一緒にいるんだな」
「どっからの情報だよ?」
「哲平」
哲平菌感染拡大中である。真紀と葵に続いてカズまで。この調子なら雄太と弦輝も疑わしい。李奈は発症ルートが違うようだが。いや、李奈の場合は自発的発症と言うべきか。
「今日はありがとな。スタジオ使わせてくれて」
「いや、全然」
「礼と言っちゃ何だけど、良かったら今日晩飯
「カズん
「おう。千紗も連れて。
「へぇ、そうなんだ。俺は大丈夫。今千紗入ったばっかだからもう少ししたら千紗にも聞いて連絡するわ」
「頼むわ」
タスクはアトリエを後にするカズを見送った。
「手土産ほんまにこんなんで良かったんかなぁ? やっぱ銀座まで行ってもっと高いもん
「閉店に間に合うかぎりぎりだったじゃん。それにそこまで行ってたらカズん
そんな会話をしながらタスクと千紗はカズの家に着いた。着くなりカズとカズの婚約者である佳穂が出迎えてくれた。
「いらっしゃい」
「あぁ、本当に千紗ちゃんだー。めっちゃ可愛い」
「こんばんは。お邪魔します。赤ちゃんおめでとうございます」
「ありがとう。後でサインちょうだい」
「うちので良ければ全然」
千紗はこの後遠慮する佳穂を押してキッチンに立ち炊事を手伝った。カズの家は3LDKで、一体となったLDKにタスクは通された。そしてダイニングのテーブルに着いた。そこには刺身に天ぷらにと豪華なほどの海鮮料理が並んでいた。
キッチンで楽しそうに話しながら炊事をする二人を横耳に聞きながらタスクは先にカズとビールを開けた。
「アトリエめっちゃいいじゃん。充実してて」
「工事と設備に貯金全部使っちゃった」
「めっちゃ稼いでんだからまたすぐ貯まるだろ」
「そんなことないよ」
程なくして千紗と佳穂も合流して和やかな食事が始まった。
「二人は付き合ってるの?」
興味津々という感じで聞いてきたのは佳穂だ。あまり人の関係性に口を出さないカズもこれには興味を示した。今まで一度もタスクの浮いた話を聞いたことがなかったからだ。
「まさか」
「そんなんちゃいます」
同時に答えた二人にはお互いに他に好きな人がいる。お互いにそれを知っている。タスクと千紗は今のままの心地よい関係を望んでいる。……と思っている。
「けどすごく仲良さそうじゃない?」
「それは良く言われます。部屋隣同士やし、お仕事も一緒にやってるし。先生にはめっちゃ助けてもろてます。せやから親しいんは認めます」
千紗らしい回答である。過剰な否定をしない。もし先にタスクが口を開いていたらこうはいかなかっただろう。相手が複数人になると口数が少なくなるタスクの性が影響した。
「じゃぁ、お付き合いする予定はあるの?」
ここで引かないのが佳穂であった。
「それはない」
「そらない」
またしても同時に答えた。カズは呆れたように、佳穂は微笑ましく二人を見ていた。
しかし和やかだったのは途中まで。海鮮と一緒に送られてきたアルコール度数の高い日本酒を空けてから二人が酔っ払いになった。千紗はこの日飲んでいなかった。妊娠中の佳穂も素面だ。酒に強いはずのタスクとカズが酔っぱらったのだ。お互いに強い者同士だからこそ限度をわきまえずハイピッチで飲んでいた。
「まだ
「良かった、良かった。俺もサバハリにいたこと誇りに思うよ」
「カズ飲みすぎ」
佳穂がカズを揺すって落ち着かせようとする。
「まだこれからだって」
「先生も飲みすぎです。それにもう十時過ぎてんねんから帰りましょ? これ以上長居したら迷惑かけてまうから」
「あ? もうそんな時間?」
「千紗ちゃんごめんね。カズがこんなにしちゃって」
「いえ。こちらこそこんなに酔うてしまって」
「その言い方身内みたいだよ?」
佳穂が笑って言う。千紗は困惑して頭を掻いた。
「お似合いだと思うよ」
「いえ、そんな」
俯いた千紗は照れが隠せない。とにかくお暇しようと千紗はタスクを立たせた。肩を貸すとなんとか立てるようだ。
「ほな今日はごちそうさまです」
「いえいえ。ケーキとサインありがとう」
「良かったらライブも来てください。控室通してメンバーにも会わせるんで。あ、でもお腹大きいか」
「うれしい。体調整ったらぜひ行く」
カズはリビングのソファーで寝てしまい千紗はタスクと一緒に佳穂に見送られてカズの家を後にした。
千紗はベッドの上で寝返りを打った。キングサイズのベッドの隣で背中越しにタスクの寝息が聞こえる。
「うち男の人とホテル入るん初めてなんやで。そんな安心して眠れる存在なんか。いつもの悪戯で潜り込むんとはわけが違うんやで」
千紗は背中で眠るタスクに寂しそうに呟いた。タスクは酔っぱらって寝ている。それはわかっているのだが、やりきれない。
カズの家を出た千紗はタスクの腕を担いで歩いていた。この状態から電車で帰るのは無理だと思った。ただ補助をすればなんとか足取りは進んだ。だから大通りまで出てタクシーで帰ろうと思っていた。
しかし程なくしてタスクが暴れた。そうかと思うと今度は脱力してしまいタスクの体重がもろに千紗に掛かった。タクシーですらまともに帰れない。タクシーを降りてから部屋まで歩けない。そう思い、そこで目に留ったネオンの宿泊施設に入ったのだ。
「うち素面やねんぞ。動揺して眠れんやないか」
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