楽曲 第四話
千紗の足元にボールが転がって来た。今立っているのは緑の芝生の上だ。転がって来たボールはサッカーボール。ここはサッカーグラウンドか。周囲を大きなスタンドで囲まれている。
「千紗、早よ蹴り返し」
その声に反応し顔を上げる。そこには千紗と同い年くらいの少女が立っている。美人だ。
「お姉ちゃん」
千紗は声を出した。早くボールを蹴り返さなくては。千紗は右足を振り被った。しかし次の瞬間気づいた。地面から出てきた鎖に左足が固定されている。二度骨折した箇所が痛む。千紗はモーションを止めた。
「もう、何してんの」
そう言って寄って来た姉の百花は青色の日本代表のユニホームを着ている。千紗は中学生の時に所属していたサッカークラブの白いユニホーム姿だ。
「だって足が……」
そう言って足元に目を戻すと鎖は消えていた。
「千紗ってほんまもどかしいな。そんなやから・・・に気づかんねん。・・・見れば想う相手がすぐ近くにおることくらいわかるやろ。せやからいつまで経っても処女やねん。処女のくせにオ○ニーばっかしよってからに。おかずはツバサさんか? タスクさんか? ちゅうか二人は・・・人物やで。そんなことしとる暇あったらちょっとは積極的に行きぃや」
千紗は目を覚ました。自分の部屋のベッドの上だ。うつ伏せの体制で、左足がベッドと壁の隙間に挟まれている。服は着ていない。涙でまつ毛が濡れている。
「お姉ちゃん」
そうだ、昨晩タスクの部屋で飲んだ。タスクと一緒にプロデュースをすることが嬉しく調子に乗りつい飲みすぎてしまった。その後自室に放り込まれてベッドに潜ったのだと思い出した。酒の影響で邪な気分になった。そしてベッドで服を全部脱ぎ一人でしてしまったのだ。
「なんで一人でしとること知ってんのよ」
気にするのはそこではないと思うのだが。
「お姉ちゃんは何を見たらって言ってたんや? 近くってどういうことや? ツバサさんは名古屋やから近かないで。ツバサさんと先生はどういう人やって言ってたんやっけ。ちゅうかなんで二人をおかずにしとることまでバレてんねん、バカ」
だから、最後の
千紗はアトリエに行くと玄関ドアのノブに手を掛けた。鍵が開いている。
「やっぱりここや」
千紗は起きてから部屋を出るとタスクの部屋に入った。しかしタスクはいなかった。千紗は煙草を一本吸ってタスクの部屋を出ると煙草を自室に片付け、アトリエに向かっていたのだ。
千紗はアトリエの玄関を抜けるとタスクに声を掛けた。
「先生、おはよう」
「ん? あぁ、千紗。おはよう」
タスクは集中していて千紗に声を掛けられるまで千紗の入室に気づいていなかった。
「先生あれ何?」
応接ソファーの玄関とは反対側の壁には本棚が並んでいる。ソファーとその本棚の間に折り畳んだ衝立のような家具があった。千紗はそれを指さして聞いた。
「あぁ、折り畳みベッド。俺たち泊まり込むことあるじゃん? スペースの関係で一つしか置けないけどあった方がいいと思ってリサイクルショップで買ってきたんだよ」
タスクが俺たちと言ったことに千紗は自分も入っているのだと嬉しくなった。よくよく見てみるとベランダに布団が干してある。
「スタジオ使ってもええ?」
「いいよ」
千紗はこの日オフだ。午前中は練習に費やし、タスクと昼食を取ると一緒にアトリエに戻って来た。心なしか埃っぽい気がする。開設して一カ月が過ぎた事務所。そう言えば掃除はどうしているのだろうか。
「先生、このアトリエ今から窓開けて掃除したら仕事の邪魔?」
「いや、全然。むしろ助かる」
役に立てる。千紗は軽やかな足取りで執務室とスタジオの窓を開けた。そして備品庫から掃除機を引っ張り出し、掃除を始めた。
タスクのデスク周りの掃除をしている時だった。千紗はデスクに設置した固定電話が光っていることに気づいた。番号通知なので番号も表示されている。音は鳴っていない。しかし明らかに着信だろう。
「先生これって電話鳴ってるんとちゃう?」
「ん? あぁ」
タスクは手を止め一瞬電話機を見たが手と目が仕事に戻った。このアトリエは個人事業主タスクの個人事務所である。仕事上必要な相手からの電話は基本的に携帯電話に掛かってくる。タスクは固定電話の必要性を特に感じていなかった。しかし事業所の登録手続き上必要で、渋々電話回線を引いたのだ。
「お電話ありがとうございます。アトリエウィングです」
千紗が電話に出た。内容はインターネット回線の勧誘の電話だった。タスクは見るからに忙しそうなので取り次ぐ必要性なしと判断し、丁寧に断って電話を切った。電話を切ると千紗はタスクが自分を見ていることに気がついた。
「電話対応できるんだな」
「当たり前やん。実家の電話に出てたんやもん。自宅兼店舗やで。それに今時いくらでもネットで電話マナーくらい検索できるわ」
いや、インターネット上に上がっていてもそれを見ている十八歳は少ないと思うが。タスクは電話機を正面の四人掛けのPCデスクに移動させた。そして受話器を上げ、ボリュームつまみを中間値までスライドした。
「ミュートにしとったんかい!」
「あとよろしく」
「もう……」
千紗はこの後スタジオの掃除も終えると執務室に戻って来た。
「千紗、コーヒーお願い」
「はいよ。――うちは秘書かいな。スケジュール管理だけでは飽き足らず電話対応やお茶汲みまで」
そう文句を言いながらもコーヒーを作る千紗の頬は緩んでいた。
千紗はコーヒーをタスクのデスクに置くと自分のコーヒーを持って四人掛けのPCテーブルに着いた。
「千紗、国語の成績は? 現国の成績」
「は? なんやいきなり。自慢やないけど高校の時はずっと5や」
どや顔で答える千紗。実に誇らしげだ。
「本って読む方?」
「そう言えば言うてなかったな。先生が出した本はGWの地方遠征中に全部読んだで。うち他にも結構小説読むし。アーティストやから感性磨くんや」
「これ頼む。連載小説の原稿。誤字脱字、文面のチェックして」
「は?」
そう言ってタスクは書き終わって印刷をした紙原稿と赤ペンを千紗に手渡した。
「ちょ、せんせ――」
タスクはパソコン画面に集中していた。こうなっては何を聞いても空返事ばかりが返ってきて言葉はタスクの耳に届かない。千紗は素人の自分に務まるのかと不安ながらも添削を始めた。
数時間が経過して千紗は添削を終えた。原稿は所々千紗の赤ペンが入っている。
「先生、できたで」
タスクは原稿を受け取ると素早く目を通した。タスクは呆気にとられた。的確だった。予想以上の添削である。
「ありがとう」
「いえいえ」
千紗は一息吐いた。窓の外を見ると日が暮れ始めている。千紗はベランダに出て布団を取り込み、畳んで立てている折り畳みベッドに布団を掛けた。
「千紗表計算はできる?」
「今度は表計算かいな!」
布団を掛けていた背後からの声に千紗は思わずツッコんだ。
「店の隅でドラム練習始めた時から店番やらされるようになって、お父さんが調子に乗って出納帳までうちにやらせるようになってん。お姉ちゃんが入院してる間はお母さんが付きっ切りやったから人手が足らんくて、うちが店のパソコンで表計算
――君はスーパーマンか。まだ高校を卒業して二カ月だろ!?――
これはタスクの心の中の声である。次はタスクの口に出た言葉である。
「経理、助かる」
「助かるなや!」
毒吐く千紗を尻目にタスクはデスクの背面のキャビネットから小型金庫を取り出し、それをPCテーブルの上に置いた。更に三台あるパソコンのうち一台のノートパソコンをPCテーブルの上に置いた。
「頼むわ」
そう言われて千紗はまたPCテーブルに着いた。タスクは電話を掛け始めた。どうやらノートパソコンを一台注文しているようだ。
「うちの分やな。明日以降もこき使う気やな」
千紗は小型金庫を開けた。中には多少の現金と大量の領収書やレシートの束。次に千紗はノートパソコンを見た。
「先生、帳簿のデータどこなん?」
「ないよ。通帳で追って。はい、これ」
通帳を開いて差し出すタスク。唖然とする千紗。通帳の中身を隠さないあたり、タスクから千紗への信頼の現れだろう。……がしかし、開いて差し出すという中途半端に気を利かせるあたり、表に表記された自分の名前を千紗の目に触れさせないことになるのだが。
「個人経営なんやから私用の引き出しもいっぱいあるやろ?」
「分けてない」
「アホか」
「もしかしてまずい?」
「もう。あかんに決まってるやん。どこまで拾えるかわからんけどやってみるわ」
タスクはアトリエを個人事務所として開設してから一度も経理を触ったことがない。開設して一カ月が過ぎ、税理士から出納帳を提出すように指摘を受けていた。投資の仕事に加え執筆と作曲の締め切りが迫り、初月の経理が進まずこの忙しさだ。
そして数時間かけて千紗はなんとか形になるだけの経理業務を終わらせた。アトリエを出た二人はレストランで遅い夕食を取っていた。
「助かったよ、ありがとう」
「先生がどんなに能力に恵まれた人でもな、さすがにあれは一人でやる仕事量やないわ。とは言えお役に立てて何よりや」
「今日の分から執務室にいる時間の記録付けといてな。千円で良きゃ時給やるから。東京の最低が九百円ちょっとだからそれを上回る額」
「ええよ、そんなん。スタジオ使わせてもろてるし、ご飯かてご馳走してもろてるし」
言葉では遠慮を口にしつつも、出された料理を口いっぱいに頬張る千紗。とは言え、金銭を受け取ることへの遠慮は本物だ。
「だからだよ。千紗の能力なら千五百円でも安いと思ってるから」
「恐れ多いわ」
「出た。千紗の過小評価。方向音痴ではあるけど」
「黙っとれ!」
自分の短所を指摘されてすかさずツッコむ千紗。それを微笑ましく見つつもタスクは話の先を続ける。
「育成援助金だけじゃきついだろ?」
「まぁ」
「他のメンバーはどうしてんだよ?」
「沙織と優奈は音楽関係の日雇いを時々やっとる」
「李奈は?」
「あの美貌やで? パトロンがおるわ」
「マジで!?」
驚きのあまり声を張ったタスクは口の中が丸見えだ。もう少しテーブルマナーに気を使ってほしいと言いたいところだが、正面に座る美少女もまたガツガツ食べるものだから、この二人の席では気にしなくてもいいのだろう。
「ちょっと今のは語弊があるな。李奈のファンのおじさま方が見返りなしに勝手に援助してんねん」
「すげーな。とりあえずこれからも空いた時間だけでいいから俺の仕事手伝ってよ」
「わかった、ええよ」
今後、通帳を含めて仕事上千紗がタスクの名前の漢字表記を目にするのも時間の問題か。それとも他のきっかけが割って入ってくるのか。疑いを持っている相手に対しては敏感になるのが人間の性だが、千紗が大まかなところにさえ目を向けないのは、タスクが文通の相手であることを夢にも思っていない確たる証拠である。
「バイト代は受け取って」
「おおきに。ありがたく頂戴します」
アルバイトという口実ができた。千紗は顔には出さなかったが、これからスタジオのみならず執務室にも自分の居場所ができたことが嬉しかった。
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