楽曲 第二話

 千紗はツアーの出発を翌日に控えアトリエにいた。四人掛けのPCテーブルにあるオフィスチェアーに腰掛け、デスクで仕事をするタスクを見ている。両手を椅子の淵に置いて体を支え、膝を伸ばしたり曲げたりしながら足を上下に振っていた。


「なぁ、先生」

「ん?」

「暇や」

「知らん」


 千紗はこの時既に十分な時間のドラムの演奏をしており、これ以上やると肉刺が出来たり、腱鞘炎になったりするので翌日のライブに響く。午前中にアトリエで練習をして、午後一番から事務所のスタジオでリハーサルを終えてこのアトリエに戻ってきていたのだ。


「すごい集中力やな」

「そう?」


 タスクは一人で仕事をすることを好む。そして集中を切らされることを激しく嫌う。しかし千紗だけは同じ空間にいても話しかけられても不快にならない。


「そっち行ってもええ?」

「邪魔しなければ」


 千紗の身体がビクッと反応した。株式投資や執筆をこの執務室で行っているタスクはパソコン画面を見られることを嫌うと思っていたのだ。だから受け入れてくれたことが意外であった。

 タスクからすればこんなことを言ってくる相手も実際に仕掛けてくる相手も千紗しかいない。意に介していなかった。もちろん千紗以外の相手であったならば拒否するのだが。


 千紗は椅子から立ち上がりデスクを回り込むとタスクの後ろに立った。タスクのデスクにあるパソコン画面のうち二台は、千紗にはまったく理解できない数字や文字の羅列とグラフ、もう一台は執筆した小説の細かな文字が表示されている。


 千紗はふと思った。邪魔をしなければとはどこまでのことを言うのだろう。


 千紗はタスクの肩に手を掛けた。払いのけられない。


 少し体重を掛けて顔を近づける。これも大丈夫だ。まるで親にどこまで許してもらえるかを試す子供のようである。


「ふぅ……」

「うおっ!」


 タスクは飛びのいた。千紗はタスクの耳に息を拭き掛けてみたがこの行動は許容外だったらしい。当たり前だ。


「邪魔すんなって言っただろ!」

「三時のおやつの時間やで?」


 千紗は悪戯を楽しむ子供のような笑みを浮かべて言った。いや、実際に悪戯を楽しんだ子供である。


――クソガキめ――


 タスクは千紗の言葉で時計を見た。すでに十五時半を過ぎている。


「コーヒー淹れたろか?」

「淹れてくれるの?」

「一緒に休憩してくれるなら」

「じゃぁ、お願い」


 千紗は軽やかな足取りで給湯室に入った。

 お互いのマグカップを取り出しコーヒーを淹れると、両方にコーヒーフレッシュを一つずつ入れ、タスクのマグカップにスティックシュガーを半分入れた。千紗のマグカップには残った半分と新たに一本スティックシュガーを入れた。タスクは微糖、千紗は甘めである。

 千紗は二つのマグカップを持って給湯室を出ると応接テーブルに置いた。


「先生、コーヒー淹れたで」

「うん、今行く」


 コーヒーをデスクに持って行かず応接テーブルに置いたのは意図的にしたことだ。デスクに置いたらタスクは休憩をしない。コーヒーを飲みながら仕事を続ける。タスクに構ってほしい千紗の打算である。


「ふぅ……」


 タスクは応接ソファーに座りコーヒーを一口飲むとひと息吐いた。千紗はじっとその様子を見つめる。千紗はタスクの顔が好きだ。特にイケメンというわけではない。だからと言って不細工でもない。なぜかはわからないが時々吸い込まれそうになるほど見入ることもある。


「もう出発の準備はできてるの?」

「うん、ばっちしや」


 千紗は両手でマグカップを抱え笑顔で答えるのだが、この様子がタスクには解せない。暇だと言いながらも千紗は好んでアトリエにいるようである。スタジオに入っている時は理解できるが、自分の仕事中にまで執務室にいて何が楽しいのだろうか。理解不能である。


「もう今日はドラム叩けないなら電子キーボード使って曲作りやればいいじゃん」

「作業ステージ使ってええの?」

「何を今更」

「うち先生が一緒の時しか上がったことないもん。大事な商売道具やから人には触らせんかと思うてた」

「まぁ、確かに。千紗しか上げたことないな」

「うちだけ?」


 何をそんなに目を輝かせているのだ。そんなに千紗が喜ぶことを言ったのか、とタスクは疑問であった。けどこの無垢な笑顔には魅かれるものがある。


「うん、千紗だけ」


 休憩を終え、千紗はマグカップを片付けるとこれまた軽やかな足取りでスタジオに入った。千紗はスタジオ内の二段床が上がった場所にあるオフィスチェアーに腰掛ける。ここは作業をするためのステージになっているのだ。そして肘当てのない椅子。ギターやベースを弾く際に邪魔になるからあえて肘当てがないものを置いてあるとタスクが言っていたことを思い出す。


 千紗は今の時点で曲のイメージを持っていない。電子キーボードの電源を入れ鍵盤に指を置く。適当に和音を押してみた。電子音が流れる。もう一度、次は違う和音を。再び電子音が流れる。


「あ、なんかええかも」


 千紗は続けざまにいろいろな和音を押した。するとコードが組み上がってきた。


「できそうや。挑戦してみよ」


 千紗は普段曲のイメージを持ってメロディーから作る。そして音を拾いコードを組んでいく。しかしタスクの曲作りを隣で見せてもらった時にタスクはギターのリフやコードを組んでから曲を作ることを知った。一度自分もそのやり方で曲を作ってみたいと思っていた。今それを実践しようとしている。

 実際にやってみるとイメージゼロから始まった曲作りがメロディーを形成し、歌となって形を成していく。クオリティに斑はあるようだがこれは曲作りの一つのバリエーションとして期待できる。千紗は感覚を掴むと集中し始めた。


 作業ステージの直上にある黄色の回転灯が光った。千紗は防音扉をみるとガラスの外でタスクが顔を覗かせている。千紗は親指を立ててタスクに合図した。この回転灯はスタジオの中の人に外の人が自分の存在を示すためのものである。言わば二人を繋ぐ回転灯だ。タスクは千紗の合図を確認すると防音扉を開けた。


「牛丼買ってきたよ。食べよ?」


 千紗がふと時計を見た。もう十八時を過ぎている。集中して曲作りをやっていたようだ。千紗は「うん」と言うと軽快に作業ステージから飛び下り執務室へ出た。


「コード先行で曲作ってんねんけどな、いい感じなんやねんけどなんかもう一歩やねん」


 千紗は牛丼を頬張りながらタスクに相談した。


「ふぅん、曲作りっていろんなやり方あるからね。いきなりメロディーが下りてくることもあるし」

「先生もメロディーから作ることあんの?」

「あるよ、そりゃ。それこそきっかけなんてできた曲の数だけ」


 タスクの作り方がコード先行ばかりだと思っていた千紗は、あの日はたまたまだったのかと理解した。


「俺で良ければ一緒に作ろうか?」

「ええの?」

「うん。人によっては合作嫌う人もいるから千紗が嫌じゃなければだけど」

「全然ええ。それでええ曲出来るならその方がええもん」


 一年前の千紗なら拒否する提案だ。曲作りに過剰なプライドを持っていた。一度優奈とぶつかった時の経験が活きている。


 食事を終えると二人は一緒にスタジオに入った。千紗はタスクの隣で制作活動をするのが好きだ。一緒に作曲をするのは初めてだが、今までハーレムの曲で編曲アレンジは何度か一緒にやっている。この時間こそ生きていると思えるのだ。


 タスクは千紗が組んだコードをエレキギターで弾いてみた。ドライブ音がキーボートとは違った味を出す。

 次にそれをパワーコードに変換して弾いてみた。これもまた変わる。スパイスを加えたかのようだ。

 フォークギターでも試してみた。今度は柔らかくなる。


 パワーコードがハーレムの方向性に一番合っているようだ。タスクがエレキギターを握り、千紗がキーボードを弾いて進めた。曲作りは順調でみるみるメロディーが組み上がっていく。そして二人は編曲アレンジまで完成させた。

 千紗は場所をドラムセットに移し、千紗がドラムをタスクがサイドギターを吹き込んだ。リズムマシンで組んだドラムを録音のために一通り叩くだけなので、明日への影響はないだろうとの判断だ。次にタスクがリードギターを吹き込んだ。後はベース、と千紗は思っていた。


「ベースとシンセ一緒に入れよう。千紗さっきの感じでキーボード弾いて」

「え? メロディーやなくてさっきの伴奏? これってハーレムでやる曲やんな?」

「それ以外に誰がやるの?」

「うちキーボードのメンバーおらんで」

「あぁ。ライブの演奏と商品音源は編曲アレンジ違ってもいいよ。ライブではサポート立てなきゃキーボードの音はないけど、商品は濃くていいもの世に出せばいいからシンセ入れよ?」

「そういうもんか」


 千紗はこの時までCDから流れる音楽をライブでそのまま演奏しなくてはいけないと思っていた。それこそ一音一句違わずに。けどそうとは限らないのだと知った。

 こうしてタスクの協力を経てデモ音源を一曲完成させた。


「この曲作詞は李奈がするんだよね?」

「そや」

「じゃぁ作詞:RINA。作曲編曲TASUKU、CHISAだな」

「TASUKU、CHISA」


 千紗ははにかみながら復唱する。タスクと一緒に曲を作って名前が並ぶことが嬉しいのだ。

 千紗はふとデスクの上に立て掛けてあったクリアファイルに目を留めた。そしてそのファイルを取り出した。


「これ何?」

「あぁ、伊星先生から上がって来た詞」

「伊星先生って小森伊星先生? あの作詞家の? 大御所やん」

「そんな大げさだよ」


 いや、言葉の使い方を間違っていないだろうか。大御所と言われたのはタスクではない。


「YURIAから楽曲提供の依頼来ててさ、その歌詞」

「YURIAから依頼来てんの? あの日本の歌姫やろ?」

「大げさだって」


 だから、日本の歌姫と言われたのはタスクではない。紛いなりにも小説家だろ。


「何なら今から一緒に編曲アレンジ手伝ってよ? 曲はもうできてるから」

「は? うちが? ええの? 先生に来た依頼やろ?」

「ソフトな曲だから千紗にキーボード弾いてもらえた方が助かるし」

「やる!」


 千紗が声を弾ませると二人は制作に取り掛かった。ここでタスクは驚いた。千紗の音楽性のセンスに。先程まではハーレムの曲を作っていた。原曲を作ったのは千紗だ。だから特に千紗のセンスに注目はしていなかった。方向性がすでに見えていたからだ。

 しかし今やっているのはハーレムとは違う音楽性の曲。ドラムの編曲アレンジも去ることながらシンセサイザーの編曲アレンジも千紗のセンスがタスクの創作活動を支えた。千紗は涼しい顔をして手伝っているのだが、タスクは口に出さないものの感心していた。


 程なくして曲は完成した。終わった時にはもうタスクは千紗のことを補佐だとは思っていなかった。完全な共同制作だと思っている。編曲アレンジに合わせて原曲もかなり修正した。

 そして伴奏の吹き込みが終わり、残すは歌のメロディー。いつもはキーボードを使って吹き込む。しかしこの日のタスクは違った。


「せっかく女性シンガーの歌なんだからこのデモ音源千紗が歌ってよ。詞もあるし」

「うちが歌うん?」

「ダメ?」

「まぁ、ええけど」


 タスクは千紗に歌詞を渡し、マイクを握らせた。そして録音ボタンを押した。前奏に続いて千紗がマイクに声を当てる。


 タスクは衝撃を受けた。吸い込まれそうになった。それこそ千紗の音楽のセンスに驚いた時とは比べ物にならないほどの驚きだ。タスクが衝撃を受けたのは千紗の歌声だ。

 タスクは千紗の歌声を初めて聞いた。千紗の歌声は今までに聞いたことがないほど透き通っていて、自然と耳に入ってくる。鳥肌が立ち、心臓を鷲掴みにするような美声であった。李奈と同等、いや的確な指導を受ければもしかしたらそれ以上の可能性も。そんな期待さえ抱いてしまう。


「千紗、ライブやレコーディングで自分の声を入れたことは?」


 歌を録り終えるとタスクは千紗に聞いた。驚きの表情をしていることも自覚できないほどだった。


「ライブのMCだけやな。ドラムが疎かになるんが嫌で歌いながら叩いたことない。ドラム叩きながら歌うのめっちゃムズいもん。ベースもそうや思うけどコーラスやっとる優奈は凄いと思うわ。そんなで沙織や優奈と違ってうちは最初はなっからコーラスの計算に入ってへんねん。せやからレコーディングでも歌ったことない」

「曲作りはよく李奈と一緒にやってたんだろ? 李奈は千紗の歌聞いたことあるんだよな?」


 食い入るように質問をするタスクはなぜこの歌声に誰も注目しないのか疑問だったのだ。


「あるにはあるけど、夜中に家でやってたからワンオクターブ下げての小声やったし。はっきり音階伝える時はキーボード弾いてたし。たぶん今ほどまともに歌ったんは李奈も聞いたことないと思うで」

「カラオケとか行かなかったの?」

「サッカーとバンドで忙しかったからあんま遊んでへん。バンド始めた時にはお金もなかったし。行ったとしても誰かと一緒に歌ってたからたぶんソロを聞いたことある人はおらんのちゃうかな? 先生が初めてかもしれん」


 笑いながらそう言ってのける千紗を見て、タスクは千紗が自分の歌唱力の高さを自覚していないと理解した。そしてそれを知る人物は今自分しかいないと思った。

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