序曲~千紗~ 第八話

 先生のアトリエは想像以上だった。執務室もスタジオもベランダも広い。ベランダはこの階でこの広さなら高さと奥行があるため、外から見られずに煙草が吸える。そしてスタジオは事務所のAスタジオと同じ作りだ。かなり充実したアトリエである。ちゃんとドラムセットもある。


「ハイハットの横にリズムマシンあるからそれ使っていいよ。俺隣で仕事してるからドラム自由に叩いて。これから俺が作曲で使う時以外はここ使っていいから」

「わかった」


 それだけ言葉を交わすと先生は隣接する執務室へ出ようとしたので私は先生を呼び止めた。


「先生」

「ん?」

「ありがとな」


 私がお礼を言うと笑顔を返してくれた先生はスタジオの扉を閉めた。今向けてくれた笑顔はなんだかとても心地よかった。その余韻に浸りつつも私はリズムマシンの電源を入れ、機器に繋がるヘッドフォンを頭に被って練習を開始した。


 スタジオ内の二段上がった床。その真上の天井に三色の回転灯がある。この時は何だろうと思っていた。後から聞いた話、この回転灯は中にいる人を外の人が呼び出すためのものらしい。外の人が自分の存在を示すためのものでもある。今後もこのスタジオを使わせてくれるのなら、あの回転灯は私と先生がお互いの存在を示すための橋渡しをしてくれるのだろうか。


 夜こうして音楽に励んでいると高校生の時を思い出す。李奈がうちに来て二人で朝まで曲作りをした。四人集まる時は一番広い沙織の家で私と李奈が作った曲の編曲アレンジを朝までした。

 沙織の家にはガレージがあり、すでに引退した沙織のお爺ちゃんが元個人大工とのことで仕事場に使っていたガレージだ。多くの工具に囲まれたそのガレージに李奈と優奈が楽器と家庭用アンプを持ち寄り、私はリズムマシンとキーボートを持ち込んだ。

 エアコンのないそのガレージで夏場は汗を掻きながら、冬場は電気ストーブを取り合いながら曲作りに励んだ。特に夏場は辛かった。音を出すので近所迷惑にならないよう窓を閉め切っていたため、年頃の女子四人が運動部の部室さながらの匂いをまき散らしていたのだ。


 一度優奈が作詞を沙織が作曲をしたことがある。けど完成曲を聴いてハーレムの方向性とは違うと言ってお蔵入りになってしまった。没曲の判断をしたのは作った本人、沙織だった。沙織は私が作る曲の一番のファンだと言ってくれる。だからこそ沙織は自分が作った曲に納得がいかなかったのだろう。

 私はそんな沙織に多大な信頼を置いている。彼女が奏でるギターのサウンドは私が作った曲を想像以上に押し上げてくれる。解散危機を脱してから意識が変わり、血の滲むような練習を経てリードギターとしての立場を確立してくれた。今ではそのリードギターとして李奈よりも演奏技術が上である。


 今月発売のデビューシングルからは編曲アレンジを一手に先生にお願いすることになった。先生はさすがだ。ハーレムらしさとメンバー一人ひとりの良さを消さない編曲アレンジをしてくれた。イメージ以上の曲が完成して自信作となっている。


 優奈はリズム隊としての私の相棒でお互いの音楽に対する絆は固い。けどそんな優奈とは一度だけ大喧嘩をしたことがある。

 あれは高校三年の夏休みに入ってすぐ、沙織の家のガレージでのことだった。インディーズCDのレコーディング開始を八月に控え、収録曲のアレンジに取り組んでいた時だ。六曲中五曲は完成していた。未完成の一曲で優奈と意見が割れた。


「優奈、Bメロはルートを中心にして弾いてや」

「うねらせた方が格好ええで」

「ルートの方が疾走感あってええやん」

「Bメロはサビ前なんやから溜めた方がええやろ。千紗の方がドラムの手数減らしてや」

「走ってそのままサビに突入した方が盛り上がるやん」

「盛り上げるならそれこそや。溜めよ」


 意見は平行線で、更に四人で多数決を採ったが二対二で別れてしまった。結局その日は話がまとまらないまま沙織の家のガレージを後にし、翌日練習のためスタジオに入った。四人で順々に曲を合わせ、そしてその未完成の一曲の演奏が始まった。

 曲は進みこれからサビという時に私は演奏を止めた。李奈と沙織が怪訝な表情で私を見るのだが、一方優奈は私に背を向けたまま立っていた。


「優奈、Bメロルートにして言うたやん」

「……」


 私の棘のある口調に優奈は立ったまま黙った。視線を私に向けることもない。


「ちょ、千紗――」

「人の目見て話せんのか!」


 私は李奈の言葉を遮り優奈へ乱暴に言葉をぶつけた。


「うちの作った曲やで」

「そんなこと言うたらあかん」


 沙織が私を宥めるように言ったのだが、私の耳にはあまり入らない。私は自分が作った曲にプライドを持っていて、その気持ちからの言葉だった。しかし優奈はここで私に体を向け、睨むように私の目を見た。その時優奈の目には涙が溜まっていた。


「どの曲も作曲は千紗やけど、編曲アレンジはみんなでやっとる。せやからみんなの曲や。今までのみんなの努力を集結させて技術と思いが詰まった曲や。千紗だけの曲やない」


 瞬間、私は二本のスティックをスネアに叩き付けた。そして立ち上がると荷物を持ってスタジオを出た。

 しかし、勢いで出ては行く当てなんてない。私は家の売り場で電子ドラムを叩いていた。いつもおっとりした優奈があんなに頑固だとは思わなかった。悔しい。何が悔しいかって優奈に言われたことだ。言い返せなかった。なぜなら優奈が言ったことの方が正論だからだ。


 何時間電子ドラムを叩いていただろうか。何も考えないように叩いていたのが、途中からは本当に無心で叩いていた。するとCDを手に持った李奈が店に来た。そのCDを手渡しながら李奈は言う。


「さっきのは大人げないやろ」

「優奈は?」

「沙織がついとる。それよかそのCD聴きぃ。意見が割れた曲、千紗の希望と優奈の希望と二通り録った」

「録ったん? どうやって?」

「優奈が持っとったリズムマシンでドラム二通り組んで、店からMTR借りて録ったんや。おかげでスタジオ一時間延長してもうたわ。MTR借りんのもただやないし」

「ごめん。お金はちゃんと払う」


 MTRとは録音機器のことだ。余計なお金を掛けさせてしまったことに責任を感じる。


「二通り録ろう言うたん沙織やで」

「沙織が?」

「沙織っていつもはうるさいけど、ああ見えて客観的に物事見れるし、一番冷静なんやで。ぎょうさん人見てきただけあるわ」

「人っちゅうか男な」

「間違いないわ」


 二人して笑ったこの時、笑い皺が深く染みこんだ。私はどれだけ今まで仏頂面だったのだろう。


「千紗ずっと疾走感のある方のパターンで叩いとったやろ? 作曲の時からそういう作り方やったし。せやから私もずっとそのつもりでおったけど、聴き比べてみたら溜める方もええなって思ってん。今まで両方のパターンでやってみるいうことせえへんかったからな。特に千紗はドラムセットに囲まれて演奏してるから、演奏中は全体像がなかなか聴けへんし。うちの一票は溜める方のパターンに変更や」

「え……」


 ショックだった。裏切られたような気分になった。

 確かに両方のパターンをやってはいない。プロになった今ならレコーディングの最中にスタジオで何通りもやることはある。それで聴き比べて決定する。けど予算と時間が今以上に限られているインディーズでは完成曲を持ち込んでレコーディングをするのが通例だ。


「とにかく聴いてみ? 私の個人的な意見としては多数決やのうて全員一致がええねん」

「わかった」


 私は李奈を自分の部屋に上げると、CDプレイヤーにCDを入れ再生をした。そして二通りの再生が終わるとすかさず李奈が問い掛ける。


「どや? どっちがええ?」

「溜める方がええ」

「ほんま?」

「ほんまや」

「ほな決定やな」


 李奈が笑って私の頭を強く撫るものだから、髪が乱れて顔が隠れた。けどあまり表情を見せたくなかったのでちょうどいい。


「優奈に謝らな」

「千紗?」

「ん?」

「意見がぶつかったことがあかんのやないんやで。スタジオ放り出したことだけ謝り」

「わかった」


 私はこの後李奈に付き添われ優奈の家に行って優奈に謝った。李奈からはスタジオのことだけを謝れと言われたが、私は「自分の曲」と表現してしまったことも謝った。優奈は笑顔で私の謝罪に応じてくれた。この時以来私は、作曲へのプライドは保ったまま「自分の曲」という独りよがりの自惚れた考えを捨てた。


 集中して練習をしているとスタジオの扉が開いた。顔を覗かせたのは先生だ。夕方の練習でできずに怒られたフレーズはできるようになった。練習を重ねればもっとスムーズに叩けるようになるだろう。

 ふと時計を見るともう二十三時だ。私はせっかく先生のアトリエに来たのだからずっと興味があったことを聞いた。


「なぁ、先生?」

「ん?」

「前から先生の作曲のやり方興味あってん。邪魔せぇへんから先生の曲作り隣で見ててもええ?」

「いいよ」


 先生は意外にも承諾してくれた。作曲のスキルは商売道具だから断られるかもしれないと思っていたのだ。

 私は先生の作業ステージに上げてもらい、そして先生の隣に座った。先生の作曲は基本的にギターを弾きながら進める。私はキーボードで作るのだがかなり勉強になった。

 私は曲を作る時メロディーを思い浮かべて、キーボードで音を拾い、コードを組む。先生はコードやギターのリフを先に組み立ててからメロディーを並べる。今度私も挑戦してみよう。


 先生は歌のメロディーをデモ音源に吹き込む時キーボードを使う。けど見ていると鍵盤楽器があまり得意ではなさそうである。ギターとベースが弾けてドラムもそこそこ叩ける完璧人間かと思っていた先生にも苦手なことがあるようだ。ちょっと可愛い。私は邪魔をしたくなかったのでずっと黙っているつもりでいたが、キーボードのお手伝いをした。


 先生が二曲作り終え切り上げようとしたので私は先生にじゃれついた。満足な練習と先生の曲作りが見ることができて開放感があったのだ。

 先生に引きずられたままスタジオの外の執務室に出るとそこにはサバハリの哲平さんがいた。これには焦った。事務所の先輩に先生と過剰に親しくしているところを見られてしまったのだから。しかも先生に対して私はタメ口だったことに罰が悪い。


 しかし哲平さんは話してみるととてもいい人で、執務室では酒盛りが始まり、タメ口のことも咎められることはなく、何より話が面白かった。私の知らない先生のことをたくさん教えてもらったし、音楽の話も興味深いことが多かった。

 せっかくスタジオがあるのだから三人でセッションをしようと提案すると先生も哲平さんも快く応じてくれた。プロの二人とのセッションはとても楽しくて学べることが多く、そして二人とも腕はさすがである。私も今や一応プロだが。


 哲平さんは夜中に帰り、私は向かい合わせになっているソファーでそれぞれ先生と横になったのだが、先生はすぐに眠った。私はお酒が入っているし、セッションをして気持ちも高ぶっている。なんだか邪な気分だ。気を抜くと今にも太ももの間に手が伸びそうになる。

 だめだ、だめだ。先生がいる前でそれだけは絶対だめだ。私は邪心を振り払い少し時間を掛けてようやく眠りに就いたのだ。


 翌朝、目が覚めると正面のソファーには先生の顔がある。私は体を起こすことなくしばらく先生の寝顔を見つめた。やはり吸い込まれそうになる。すると先生の体が動いた。起きたのだろうか。私は瞼を落とし、薄目を開けて先生の様子を窺っていた。

 すると先生は体を起こした。やはり起きたのだ。ここで私は完全に目を閉じた。ごそごそと衣擦れの音が聞こえてくる。先生が私に近づく気配がする。起きているのはばれていないだろうか。


 すると先生は私の髪を撫でた。――なんだか心地いい。


 次に先生は私の頬に触れた。――くすぐったい。


「んん……」


 しまった。声が出た。起きていることばれてないかな。寝返りを打つように私が体勢を変えると先生は私から離れた。どうやらソファーに戻りもうひと眠りを始めたようだ。

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