序曲~千紗~ 第七話
みそ汁の入ったお椀を二つ1Kの部屋のローテーブルの上に置く。ローテーブルの上には他に先ほど作った卵焼きとサラダと、それからお母さんが実家で漬けて引っ越しの時に持たせてくれた漬物が並べてある。私はキッチンに戻り炊き立てのお米を茶碗に二人分盛った。自炊をあまりしない先生が分けてくれたお米だが。
すると先生が私の部屋へ来た。髪がぼさぼさでまだ眠そうだ。寝間着のジャージ姿である。私も寝間着のスウェット姿でまだノーメイクだ。先ほど隣の部屋に先生を起こしに行った時は視界がぼやけていたのでメガネを掛けた。普段はコンタクトだが、レンズが小さな淵メガネは室内用の私の愛用品だ。
「いただきます」
先生はローテーブルの前に座ると発声して卵焼きに箸をつけた。
「うまい」
「やろ」
先生に褒められた。どんなもんだい。これが夫婦共働きの自営業の娘の実力だと言いたい。両親が店頭に出ている時間、よく炊事をさせられたものだ。すると先生は口の中の物を咀嚼すると言った。
「あんな起こし方したらいつか襲われるぞ」
やめてくれ。あなたに襲われたら私は拒否できる自信がない。恐らく起こしに行った時に先生の顔を覗き込んだことを言っているのだろう。先生の顔をじっと見ることがすっかり癖になってしまった。
そんな先生には好きな人がいるそうだ。私にも好きな人がいる。私が言ったら先生も教えてくれたのだが、先生の好きな人ってどんな人だろう。
束の間の朝食の時間を経て先生は自室に戻り、この後私と先生は身支度を済ませると時間を合わせて一緒にマンションを出た。今日は私も先生と同じ時間に事務所に行かなくてはならない。
今朝は遠回りをして、昨晩歩いた川沿いの遊歩道を通って駅に向かったのだが、先生もここの満開の桜を気に入ってくれたくれたようだ。私達は小気味いい会話をしながら駅に着いた。
電車に乗り込むと通勤ラッシュのピークで満員だ。おかげで窮屈だよ。高校生の時は満員電車でよく痴漢に遭っていたから不安である。
東備糸駅で電車を乗ってから最初の駅に電車が停まると誰かが私の手を引いた。焦ったがすぐに先生だと気づいて安心したものの、どうしたのだろうと思っていると私は閉まっている側のドアに誘導された。身を任せているとドアに背中を預ける体勢になった。
先生はドアに腕を突っ張り、私のスペースを作ってくれているようだ。顔を上げると先生は私の頭の上の窓の外を見ている。けど人の圧力が凄いのか途中で肘が折れた。先生と密着する。動悸が激しい。なんだか先生の心遣いが格好いい。私が守られているなんて。
――ちょっとくらいええよな――
私はそう思い、先生の胸に額を預けた。男の人の胸ってこんなにも広いのか。ドキドキする。先生に男を感じる。
その後、途中の駅を境に人口密度が和らいだのだが、別にもう少しこのままでも良かったのにと思う。満員電車を受け入れたのは初めてだ。
事務所の最寄り駅で電車を降りると先生と並んで歩き、やがて到着した四階建ての事務所ビル。所属事務所の建物で、ここに来るのも三週目にして慣れてきた。
建物の入り口を潜るとエレベーターを待つサバハリのボーカル雄太さんの姿があった。最近では地上波のテレビにも出るようになったサバハリ。雄太さんはそのバンドの顔なので一番目立つし知名度がある。そしてイケメン。私は「芸能人がいる」と思ってしまった。何を今更と思う。スタジオ完備の芸能事務所なのだから当たり前ではないか。
「あ、雄太おはよう」
「おう、タスク。おっす」
「おはようございます」
「おはようございます」
私が先生に続いて挨拶をすると後輩の私に畏まった挨拶を返してくれた雄太さん。若干ナンパな感じにも見えるが礼儀正しい人なのだろうか。
「それじゃぁ先生。うち二階なんで階段で行きます」
「うん、それじゃ」
私は先生にそう告げると階段を上がった。私は人前では先生に対して教え子の立場を崩さない。まだ芸能界の新参者。いつものタメ口だと見ている人によっては心証を悪くする。この世界で礼儀正しく立ち回らなくてはならないのだ。
二階の事務所に上がるとサバハリの真紀さんとすれ違ったので挨拶をし、私はエントランスの打ち合わせテーブルで待つように言われたので指定の場所で大人しくている。昨日カズさんに美登里ちゃんと呼ばれた事務員さんの機嫌が心なしか悪いように感じるのは気のせいだろうか。
少ししてから他のメンバー三人が事務所に到着したので時計を見ると、私の一本後の電車に乗って来たのだろうかと予想できる。
「千紗、早かったな」
「うん、先生と一緒に来たねん」
私の顔を見るなり沙織が言うので私は答えたのだが、それを聞いていた李奈が他の人に見えないようにジト目を私に向けてくる。今ならこの美少女の心の中が読める気がする。
この日の仕事はもうすぐ発売のデビューシングルの告知回りだ。CDショップを回って店頭にポスターを貼らせてもらえるようお願いする。その打ち合わせを終えて私たちは牛島さんが運転するミニバンに乗り込んだ。
最初の店頭の前で李奈と優奈が降ろされ、そして数十分走り私は沙織と一緒に次の店頭の前で降ろされた。
「それじゃぁ、渡したスケジュールに沿ってこの先は電車で移動して。全店事前に連絡は入れてあるから。最後の店に入る前に電話ちょうだい。迎えに行くから」
「わかりました」
そう言うと牛島さんは走り去っていった。私の手にはスケジュールの書いた紙が一枚と、沙織の手には丸めたポスターを数本入れた紙袋が握られている。
沙織と一緒にCDショップを回り始めると、インディーズCDを発売した時も関西の店を回ったなと思い出す。学校が終わってから制服姿のまま四人で一店舗。休みの日には数店舗。その時はアポなし突撃だったので店の対応は冷たかった。
製作費は事務所からもらっていたとは言えインディーズCDは自主製作。自分達で売らなくてはならない。全国流通のCDだったが宣伝活動は自分達だ。足とSNSをフル活用して売り込みに励んだ。これも課されたノルマをクリアしてメジャーデビューをするため。避けては通れない下積みだ。
十三時を過ぎて私は食事休憩のため沙織と一緒にファーストフード店に入った。目の前にはハンバーガーとポテトとドリンクが二人分置かれている。沙織はさっきから一生懸命スマートフォンを操作しているのでツイッターだろうかと思っていたが、一瞬ツイッターではない画面が見えた。
「さっきから一生懸命何しとるん?」
「ん? あぁ、こっち来てから知り
「男?」
「そや」
「手ぇ早いなぁ」
「まだ手は出されてへんで。キープや」
この後、その相手が芸能人であることを聞いて飲んでいたコーラを吹きそうになったのだが、それで私の鼻は痛い。
「そんな人といつどこで知り
「東京来て二日目の日にな、事務所の先輩の歌番組の収録がテレビ局であったんよ。メンバー三人でローディーのバイトに駆り出されて、その時初めて
私以外のメンバー三人の東京二日目とは私がまだ大阪にいた日ではないか。また私だけ仲間外れだ。くそぉ。戦友たちはそんなアルバイトをしていたのか。
まぁ、くれぐれもスキャンダルだけは起こさないように気を付けてくれよ。未成年のくせに喫煙者で飲んだくれの私が言うのも何だが。
「千紗はこっち来てからそういうのないん?」
「うん、全然」
「ほんまに?」
なぜ念を押す。その興味深々という笑顔を向けるのは止めてくれ。一瞬先生の顔が頭を過ったよ。私は身も心もツバサさんのものなのに。
「うん」
「大阪の時から相変わらずやな」
「まぁな」
「千紗って処女なん?」
その単語を口にするときはもう少し声量を落としてほしいのだが。いつも賑やかな沙織。彼女の口というアンプのボリュームつまみを左に捻りたくなることがよくある。黙って首を縦に振った私を見て沙織は意味ありげな視線を向けて言った。
「ふぅん」
「……」
「今度合コンセッティングしたろか?」
「ええよ。うち初対面の人苦手やし」
「ほか。ま、いつでも言うてな。千紗の恋のお手伝いすんで。処女卒業しよな」
「おおきに」
最後の一言は余計だと思ったが、とりあえずお礼を言う私。
午後も沙織とCDショップを回り、夕方には牛島さんの運転するミニバンに乗って事務所に帰ってきた。たくさん歩いて少し疲れたがまだ元気だ。他のメンバーも同じようだ。
Aスタジオに入るとすでに先生が待っていて、私達はこれから先生のバンド指導を受ける。スタジオに入るなりどっと疲れたような仕草を見せる牛島さんを見て、あなたの日中の行動は知らないが、絶対私たちよりは歩いていないだろ、と思う。先生に対するアピールか? そうなのだな?
やはり先生の指導は厳しい。程なくして始まった練習で私は痛感していた。普段は何を考えているのかわからない先生。あまり感情を表に出さない先生。けど時々笑顔を向ける先生。もっと時々神かと思えるほど優しい先生。バカみたいにお酒が強い先生。けど指導中はただの鬼。
私はメンバーが見守る中難しいフレーズを一人で叩かされていた。昨日カズさんに教えてもらったフレーズなのだが、まだマスターしていない。
「だからそこだって!」
「わかってますよ!」
私は声を張り上げると、荒くドラムを叩いた。あぁ、やってしまった。私の目に涙が溜まるのを自覚する。完全な八つ当たりだ。私はできない自分が情けなかった。悔しかった。その感情を先生とドラムにぶつけてしまった。くそぉ、泣いてなるものか。
練習が終わると私は片づけをしているメンバーを横目に先生に歩み寄った。練習時間と環境を整えなくてはならない。もう四の五の言ってられない。先生とドラムに八つ当たりをした反省もそこそこに、私は先生に思い切って言ったのだ。
「先生のアトリエってスタジオあるんやろ?」
「うん」
「うち今日そこで練習したらあかん? このままじゃみんなに置いていかれる」
言っているとまた悔しさが込み上げてくる。うまくなりたい。人に認められたい。先生に認められたい。すると李奈が私の横に来て先生に向いた。
「私ら弦楽器の三人は家庭用アンプとヘッドフォン
苦労自慢を言うみたいで自分では憚られる言葉を李奈が言ってくれた。私は李奈のその気持ちがうれしい。
「いいよ」
「けどうちあんまお金も持ってないねん。電気代とか掛かってんねやろ」
「金は取らないから気にするな」
「ええの?」
「うん」
先生のアトリエで私が練習することを先生が承諾してくれたことに喜びと感謝が沸く。これで練習環境が整う。もう言い訳できない。頑張るのみだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます