序曲~千紗~ 第六話

 翼さんへ

 四月になりましたね。新しいお仕事頑張ってください。応援しています。

 先日チームに新しいコーチが着任しました。コーチは普段何を考えてるかわからないのに、なぜか神とも思えるくらい優しい時もあります。それなのに指導中は鬼です。先日はチームメイトがボロクソに言われて泣かされました。とっても矛盾した人です。

 あ、ごめんなさい。愚痴になっちゃいましたね。

 新学期が始まり徐々に就職のことも考えています。社会の先輩として相談に乗ってください。

 百花より


 百花さんへ

 お元気ですか?

 鬼コーチ難しいですね。けど優しいと思えるところもあるなら、人としては決して悪い人ではないと思います。

 僕の方は新しい仕事が始まりました。今までは一人で動くことが多かったのですが、今回はチーム仕事をすることになります。それに伴い新人の教育もあります。なかなか休まる時がありませんが頑張ります。

 就職の相談乗るので何でも言ってください。

 翼より


 築数十年は経つのであろう、外壁に亀裂も目立つ鉄筋コンクリート造のサバイバル芸能の事務所ビル。最上階の四階には柱のない大きな空間がある。この建物を買ったイーグル芸能の元社長はそこにレコーディングスタジオを作った。レコード会社でなく芸能事務所がなぜレコーディングスタジオまで完備させたのかは謎だそうだが。


 そのレコーディングスタジオからサバハリのカズさんが出てきた。いつも映像で見ていたカズさん。実力派バンドサバハリのドラマーなので技術やパフォーマンスを参考にさせてもらっていた。


「お疲れ様です」


 私がカズさんに頭を下げて挨拶をすると、カズさんは私を見て首だけ折って挨拶を返してくれた。カズさんはエレベーターのボタンを押しポケットに手を突っ込んで立っている。貧乏ゆすりをしているのだろうか、体が小刻みに揺れている。いや、あれはどこでもリズムを取るドラマー特有の癖だ。

 するとカズさんの身体の揺れが止まり腰を回すと後ろのめりになって私を見た。


「えっと、タスクが面倒見てる……」

「ハーレムのドラムの千紗です」

「そうそう、ハーレム」


 カズさんがスッキリしたと言わんばかりの声を出すと、エレベーターのドアが開いた。カズさんはエレベーターに見向きもせず私を見たままだ。じっと見られては事務所の後輩として先に視線を外すわけにはいかない。失礼に当たる。


「四階で何やってんの?」


 やっと沈黙を破ってくれたと思ったらこんな何でもない質問だった。けど確かにその疑問は理解できる。四階にはレコーディングスタジオの他、ミーティングルームと備品庫とこの建物内で唯一煙草が吸える休憩室しかない。


 私は今日個人練習をするために事務所に来ていた。日が沈みかけた四月のこの時間、Aスタジオが空いていたので予約を入れておいたのだ。しかしソロシンガーのプロデュースが急遽割り込んできて予約を飛ばされてしまった。それを事務所に来てから聞かされ、途方に暮れた私は煙草の残り香だけも吸おうと休憩室を目指して来たのだ。煙草のくだりを省いて私はカズさんに説明をした。


「ふぅん」


 そう言うとカズさんは私から視線を外しエレベーターのボタンを押した。聞かれたから答えはしたものの興味がないのかな。あるわけないか。エレベーターは四階で停まったままだったのですぐにドアが開いた。


「付いてきな」


 そう言うとカズさんはエレベーターに乗り込んだ。私に言ったんだよな? と思いながら私は慌ててエレベーターに乗り込んだ。


 カズさんはエレベーターを二階で降りた。黙って付いて行くしかない私はやがて事務所に到着した。カズさんは事務所のカウンター越しに内部に向かって言った。


「スタジオの予約票見せてよ」


 誰に向けて言ったのかわからなかったが、一人の中年の事務員らしき女の人が慣れた様子でタブレットを持って来た。


「はい、これ」


 タブレットを受け取ったカズさんが操作をするので、黙って横から覗いてみる。


「お、ビンゴ。それにBスタ空いてんじゃん。個人で使っていい?」

「えー。横の彼女もパートはドラムだっけ?」

「はい」

「どうせAとレコが歌だから運ぶんでしょ?」


 AとはAスタジオでレコとはレコーディングスタジオだ。しかし歌とは何だ? 運ぶとは何だ?


「当たり。さすが美登里みどりちゃん」

「もう。あと十分で始まるから急いでよ。それからちゃんと元に戻しといてよ」

「もちろん。サンキュー」


 そう言うとカズさんは事務所を出たので、私はいそいそと付いて行く。そして再び四階まで上がった。


「あの……」

「ん?」


 エレベーターを降りたカズさんは私に目を向けた。すると私が怪訝な顔をしていたので疑問を読み取ってくれた。


「あぁ、Bスタにドラム運んで個人練習すんだよ。Aとレコが歌録りとボーカル指導だからドラム使わないもんで」

「あぁ、なるほど。そんなことできるんですね」

「移動が大掛かりだから事務所の連中は嫌がるけどな。俺もデビューしたての頃はボロアパートに住んでて、毎日貸しスタジオに入るような金もなかったからよくこうやって練習してたんだわ。今からツーセット運ぶから手伝え。ツインドラムで練習すっぞ」


 なんだか同じドラマーとして言わずして事情を汲み取ってくれている。しかしツインドラムなんて私は初めてだ。参考にしてきたカズさんと一緒にドラムを叩くなんて緊張する。

 カズさんはレコーディングスタジオに入ると中で作業をしていた四人の若い男の人達に指示を出し始めた。彼らはサバハリのローディーだそうだ。


「AとレコのセットBスタに運ぶぞ。十分だ、急げ」


 カズさんはローディーを二人連れてAスタジオに行ったので、私は残った二人のローディーとレコーディングスタジオのドラムを運んだ。


 やがて始まった練習で私はカズさんのやり方に合わせて進めたのだが、正直カズさんのレベルが高すぎてついていくだけで精一杯だ。

 そして一時間ほど経過して休憩を入れると、私はカズさんと一緒にスタジオの床に座った。


「筋いいじゃん」

「いえ、ありがとうございます」


 憧れのカズさんから褒められた。私はカズさんに買ってもらった缶のカフェオレを飲みながらはにかんだ。


「あの、うち苦手なフレーズがあるんでけど」

「どんなん?」


 私は鞄から楽譜スコアを取り出し、先週のバンド指導で先生に指摘された箇所を説明した。バンド指導を明日に控えてまだ解決していない。するとカズさんはドラムセットの椅子に戻り叩き始めた。


「こうだろ?」

「すごい! もう一回見せて下さい」


 カズさんは何度でもやってくれた。それが嬉しかったし、すごく参考になる。


「タスクあいつこのフレーズ本当好きだよな」

「そうなんですか?」

「おう。サバハリの曲のアレンジ進める時もよくこのフレーズ入れさせられるからな」

「そうなんや」


 カズさんはこの後一時間私の練習に付き合ってくれた。残念ながら私はこの難しいフレーズをマスターすることはできなかったものの、ただカズさんの指導で可能性は開けたので練習あるのみだ。

 練習を終えて私はドラムセットを解体しようとした。


「そっちはそのままでいいぞ。Aスタの分だけ片付けるぞ」

「なおさんでええんですか?」

「ん? 壊れてんのか?」

「ん? レコスタですよね?」

「明日午前中からサバハリのレコーディング入ってっから。俺自分のセット入れるし、そのままでいい」

「わかりました」


 そう言って私はカズさんと一緒にドラムをワンセットだけ片付けた。しかしワンセット放置したこの行動、翌朝出社した美登里ちゃんと呼ばれた事務員さんにカズさんが怒られたのは言うまでもない。私が知るのはこの数日後だが。

 更に私とカズさんのこの噛み合っていない会話。私は翌年から始まる新生活の中でその理由を知ることになる。


 事務所を出ると私はカズさんからラーメンをご馳走になった。お世辞にも綺麗とは言えない店内でテーブルには二人分のラーメン丼と餃子が並べられている。この時ほとんど食べ終わっていた。


「つーかさ、確かタスク個人事務所開いたんじゃなかったっけ?」


 アトリエのことだ。興味はあるのだが、私はまだ行ったことがない。


「そこスタジオあんだろ? 使わせてもらえばいいじゃん」

「使わせてくれるんかなぁ。今度聞いてみます」


 使わせてもらえるのだろうか。厚かましいような気もする。


「やべ、もう八時じゃん。嫁に怒られる」

「え? 結婚してたんですか?」

「いや、同棲中の彼女がいて妊娠してんだよ。もうすぐ結婚する」

「うお! おめでとうございます」

「行くぞ」


 そう言うとカズさんは立ち上がりレジに向かうので、私は最後に一つ残った餃子を素早く口に入れて急いでカズさんを追った。

 店を出た私はカズさんに練習と食事のお礼を言うと一人で駅に向かって歩き出した。春の夜風が気持ちいいが、時折寒さも感じる。


 いい練習ができて気分が良かった私は東備糸駅を出ると川の方へ向かって歩いた。今日は遠回りをして帰ろう。いつも駅のホームから見える川沿いに桜が綺麗に咲いていた。川を渡る前に駅に着いて電車を降りるのでいつも近くで見ることができなかったのだ。


 駅を出ると数分で川沿いの遊歩道に差し掛かった。そこは桜が見事に満開である。時折吹く風に花びらが舞い、私はまだこの世に存在しないメロディーを口ずさんだ。


「あ、何か今のええ感じ」


 川沿いの道を歩きながらスマートフォンの録音アプリに今出てきたメロディーを吹き込む。土手には花見の場所取り用にブルーシートが所々敷いてある。大学生らしき若い集団が桜の木の下、缶ビール片手に騒いでいるのが賑やかだ。


「綺麗、ツバサさんと見たいな」


 そう呟いた私の頭の中に浮かんだのは先生だ。なぜ……?


「ま、先生とでもえっか。ツバサさんには手紙でこの桜のことを書こう」


 私はグーグルカレンダーのアプリを開いた。先生は明日朝から事務所になっている。むしろ夜まで一日事務所だ。これは私の出番である。起こさなくては。朝ごはんは何を作ろうか。卵があったし、卵焼きかな。

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