序曲~千紗~ 第五話

 私と李奈は街中に出て昼食と買い物を済ませるとカフェに入った。東京は物価が高い。生活用品の買い物なのに予算オーバーに加えて希望よりも物が買えなかった。


「千紗あんま買わんかったな」


 ミルクティーのカップを置いて言う李奈。私の目の前にはココアが置いてある。


「生活きついねん」

「育成援助金使つこうてしもたん?」

「まだ少しは残ってるけど……」

「どないしたん? 何にお金使つこうてるん?」


 李奈は心配そうに私の顔を覗き込む。私は貸しスタジオにお金を使っていることを言おうかどうしようか迷った。知ったら気を使うだろうし、それでメンバーに心配をかけたくない。とは言え、黙っていたところでいつかは知られる。隠していて知られた時の方が気を使われそうだ。


「貸しスタジォ……」

「貸しスタジオ?……はっ!」


 尻すぼみになる私の言葉を聞いて口に手を当てる李奈。気が付いたようだ。私は家でスティックを握ってクッションを叩き練習をすることもあるのだが、それには限界がある。


「もしかして個人練習?」


 私は黙って首を縦に振った。週末のこのお洒落なカフェは若い人で賑わっていて、ビルの上階にあり窓が広く明るい。この話題に憂鬱な私とは対照的だ。


「ちゃんとご飯食べれてる?」


 君は私のお母さんか。


「うん。お隣さんが優しいから」

「お隣さんって先生のこと?」

「うん。昨日は接待受けた言うてご飯包んで持って帰ってきて食べさせてもろた」

「そっか、そっか。良かったわ。なんだかんだ言うてもええ部屋割りやったな」


 そうかもしれない。先生の隣の部屋で暮らしていることは楽しいしいろいろ助けてもらっている。


「千紗、先生のことどうなん?」

「は? 先生のこと?」


 私は一瞬昨晩の行為を思い出してしまい、羞恥心が一気に襲い掛かる。それこそ正面に座る李奈に知られたような錯覚を起こし、ここから消えてなくなりたいと思うほどだ。


「仲ええやん。プロデューサーとの恋なんてよくある話やし」

「それ言うたらメンバーみんな同じ条件やん」

「そんなことないよ。断然千紗が一番距離近いやろ」

「それは物理的な距離やろ。そんな言うたら同じベーシストの優奈の方が可能性あるやん。それにうち好きな人おるし」

「文通の相手?」


 私はココアを一口口に運ぶと上目で李奈を見て首を縦に振った。やはりこのことを口にするのは恥ずかしく、飲み物でその口を塞ぎたかったのだ。


「大阪おるうちは結局一回も会いに行かんかったな」

「そういう約束やもん。けどな、実は一回だけ家の前まで行ったことがある」

「は? うそやん」


 そう、あるのだ。方向音痴の私が自分の足で。今まで李奈にも教えたことはなかったのだが、とうとう言ってしまった。


「高三の夏に名古屋でライブした時あったやろ?」

「あぁ、あの時か。あった、あった。千紗だけ一人で先に名古屋入りしたなぁ。私らより半日くらい早よう行って。そういうことやったんか」

「うん。けどうちの方から夢が叶ってから会いましょう言うたからどの面下げてうたらええんかわからんくて……嘘の設定やけど。結局ピンポン押す勇気なくて引き返した」

「はぁ……もったいない」


 頭を抱える李奈。彼女の言いたいことはわかる。私はこんな風だから高校を卒業した今でも処女なのだ。キスだって男の人としたことがない。偽りの自分にすがって恋をして。

 もしツバサさんが私の本性を知ったらどう思うだろう。本当は高校を卒業したばかりの十八歳で、東京に出てきたばかりで、メジャーデビューしたばかりの無名アーティーストだと知ったら、受け入れてくれるだろうか。


 中学二年でドラムを始めた私は李奈と一緒にやる軽音楽にのめりこんだ。その前はサッカーで頭がいっぱいだったからこの歳までずっと寄ってくる男は全て排除してきた。中学生の時はずっと李奈と二人で組んで練習を進めていて、その時は私がドラムを叩き、李奈がギターを弾きながら歌った。

 一緒にバンドを組もうと誘ってくる人もいたのだが、みんな男だった。私と李奈はガールズバンドに拘っていた。特に李奈が。後から気が付いたことだが、私に男が寄って来ることを李奈が拒んでいたのだ。この頃の李奈は私に恋をしていたから。

 今こうして話しているとそれももう吹っ切れているようで安心している。あとは李奈に素敵な殿方が現れれば文句はない。


 私と李奈は同じ高校に入学した。すると高校最初の練習で李奈がいきなりスタジオに沙織を連れて来た。沙織は私と李奈とは違う高校に通っていたが、李奈は沙織とこまめに連絡を取っていたらしかった。その時沙織は特定のバンドに所属しておらず、その沙織が連れていたのが優奈だった。沙織と優奈は中学と高校が同じなのだ。

 初めて四人でスタジオに入った日に全員意見が一致してバンドを結成した。すると李奈のメジャー志向は凄まじく結成後どんどんライブの予定を組んだ。更にバンド結成後から私の家に籠っては二人で朝まで曲作りをするようになった。


 高校二年に上がってすぐの頃、一度だけ解散の危機があった。当時まだメジャー志向ではなかった沙織と優奈が、李奈の行動力についていけないと不満を口にし始めたのだ。私は二人を説得した。正確に言うと私が二人に頭を下げた。高校のうちまででいいから李奈を信じて付いてきてほしいと。一緒にメジャーデビューの夢を見てほしいと。

 私はどん底から這い上がらせてくれた李奈に付いていきたかったし、李奈を信じていれば絶対にメジャーデビューができると思っていた。私は李奈の夢を自分のものにし、李奈を守りたかった。


 沙織と優奈は私の言葉に応じてくれた。この時のことは今でも二人に感謝している。解散危機があったことと私が二人を説得したことを李奈は今でも知らない。

 それから沙織と優奈の意識は変わった。よほど練習をしたのだろう、技術も飛躍的に伸びた。そして後にサバイバル芸能からスカウトを受けることとなる。


 どうして私が李奈をここまで庇うのかと言うとやはり恩人だからだ。音楽を与えてくれたこともそうだし、お姉ちゃんが死んだ時だって助けてくれた。三日三晩泣き通しでバンドの予定に穴を空けていた私のもとに来てずっと一緒にいてくれた。李奈も私のお姉ちゃんには可愛がってもらっていたので李奈だって悲しいだろうに、涙を堪え気丈に私を励ましてくれた。


 そんな李奈に高校二年の夏、彼氏ができた。意外だった。相手は同じ高校の同級生だ。

 この頃はちょうどお姉ちゃんが死んでから始まったツバサさんとの文通で、私が恋心を抱いていると認識し始めた時期だった。私は自分の気持ちを李奈に打ち明けていたので、最初は私に恋心を抱いていた李奈の私に対する当てつけかとも思った。

 しかし李奈はそんな腹黒い女の子ではなく今にして思えばそう疑った自分を恥じている。交際中の李奈はとても楽しそうでバンド活動にも影響はなかった。


 しかし李奈はわずか一カ月で破局した。ヤリ捨てだった。李奈が嬉しそうに、恥ずかしそうに初体験を済ませたと私に電話を掛けてきたのに、今度はその翌日に振られたと泣いて電話を掛けてきた。


 私は学校で李奈の元カレを闇討ちした。箒を足に掛け転ばせて、馬乗りになると野球部の部室からくすねてきた硬式ボールで殴りまくった。本当は拳で殴ってやりたかったが、ドラムが叩けなくなるので断念した。

 李奈の元カレは原形がなくなるほど顔を腫らし、それを知った相手の親は傷害で訴えると学校に乗り込んできた。しかし加害者が女だと知ると散々嫌味を言って引き下がったのだが、それは事を荒立てる方が恥ずかしいと判断したのだろう。結局私は二週間の停学処分を言い渡された。


 私はその二週間家に引き篭もった。先生が抜き打ちで家庭訪問に来るので家から出られなかったのだ。私はバンドのスケジュールにまた穴を空けてしまった。お姉ちゃんが死んだ時以来二回目だ。と言っても今回は自己責任なのでメンバーにはすごく申し訳ない。


「なんて無茶すんねん」


 これは謹慎中に李奈が私の家に訪ねて来た時の言葉で、心配そうでいて咎めるような表情をしていた李奈の顔を今でも忘れない。


「ごめん」

「もう。手は大丈夫なん?」

「うん、大丈夫。ごめん、うち最初誤解しとった。李奈がうちへの当てつけで男と付きうたんかと思ってた」

「はぁ? そんなことするわけないやん。けどな、スカッとしたで。やっぱ千紗はうちの親友や」


 そう言って私を抱きしめてくれた李奈はなんだか温かかくて、救われた気がした。


「あんま気にせんでな」

「え?」

「確かにちょっと前まで千紗に淡い気持ちを持ってた。いや、過去形ちゃうな。正直言うと今でもそういう気持ちがあるんは否定できん。けどな、今は前に千紗が言うたように私らは幼馴染で大事な親友やねん。それから千紗と一緒にバンドやってるんがほんまに楽しいねん。バンド活動を通して私はそう気づいた。千紗とはこれからもずっと一緒にいたい。だから早よバンドに戻ってきてな」


 私は李奈のこの言葉に声を出して泣いた。遠慮することもなく李奈の肩に額を預けて。


「もう、そんな泣かんでもええやん。私かて真剣に付きうてたわけやないし」

「は?」

「ヤリ捨てされたんが悔しくて泣いてしもたけど、実は千紗と曲作るようになって男の人との恋愛がどんなんか知りたかってん。だから付きうたんや。ぶっちゃけ作詞のためや」

「そうなん?」

「そうや。強がってへんで。私って要はセクシャルマイノリティやろ。多数派がどんなんかわからんと共感してもらえる詞が書けへんもん」

「曲作りのためかいな。根っからのバンドマンやないか」

「バンドガールや」


 私はそれを聞いて力が抜けてしまったのだが、一方李奈はけろっとした顔で笑っていた。


 謹慎明け最初のバンド練習で私はスケジュールに穴を空けてしまったことが申し訳なくて沙織と優奈にどの面下げて会えばいいのかわからなかった。解散危機の時、熱く説得をしといて合わせる顔がない。私は憂鬱な気分のままスタジオの重い防音扉を開けたのだ。


「あぁ、千紗。手、大丈夫なん?」


 こう言って寄ってきてくれたのは優奈で、明るい表情と声色に少しだけ安堵する。


「うん」

「待っとったで。リズムマシンの音でバンド練習すんのも飽き飽きしとってん。やっと今日から千紗の生きたドラムで練習できるわ。うちのリズム隊の相棒やからな」


 優奈の嫌味のない笑顔とこの言葉に涙が出そうだった。すると沙織も寄って来て左手で私の肩をポンポンと叩いた。そして右手の親指を立てて一言。


「グッジョブ」


 いつも賑やかな沙織の短い言葉だった。そして本気を秘めた笑顔である。沙織も李奈がされたことに悔しさを感じていたのだろう。私はこのかけがいのない仲間をいつまでも大切にしたいと思った。


「私にも何か協力できることあったら言うてな?」


 東備糸駅を出ると徐に言う李奈。夕日に照らされた幼馴染の横顔はとても神秘的で、幾多の男子が惹かれるのも納得できる。


「個人練習のこと?」

「そや。お小遣いあるし」

「うん。ありがとう。その気持ちだけで十分や」


 行き交う人がこっちをチラチラ見るのだが、それは無理もない。私の隣を絶世の美少女が歩いているのだから。


「それから先生のことしっかり掴まえときや」

「はぁ? なんやねんそれ」

「なんやねんってそのまんまの意味や」

「うちはツバサさんのことが好きやもん」

「ふぅん」


 遠くを見つめる李奈は何か言いたげな表情だ。どんな表情をしても李奈は可愛いから世の中不公平だなと思う。


「それにいつか事務所の役員になるかもしれん人やで。事務所の人と所属タレントの恋愛はご法度やろ」

「だからこそや。事務所の人になる前に既成事実作ってまえ」

「アホ言うな」

「ほな私こっちやから」

「あ、もう……」


 駅を出て真っ直ぐ歩き、大通りに出て右折すると私の家に帰れる。李奈たち三人の家はこの大通りの三丁目の交差点を直進した先にある。李奈は私と別れ青信号の横断歩道を渡って行った。

 いつもステージで見ている李奈の背中。小さくて大きい李奈の背中。彼女はその背中に私たちの夢や事務所の期待など多くものを背負っている。

 実家がある商店街の豆腐屋のおじちゃんとおばちゃんに言ってあげたい。この子は日本一立派な十八歳だと。全国どこに行っても名の知れた娘に私が押し上げますと。その時は日本中で自慢して下さい。

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