序曲~千紗~ 第四話
三月も終盤になると外はだいぶ温かい。私は白のカラーパンツに長袖のボーダートップス姿。そしてカーデを肩掛けしていた。
待ち合わせ場所である東備糸駅の南口に行くと李奈の姿はなくまだ来ていないようだ。私は約束の時間ぎりぎりに着いていた。
少し離れた場所で女の子が二人組の男に囲まれている。雰囲気からして迷惑そうである。しつこく声を掛けられているのだろうか。
男二人の間から女の子の顔が見えた。かなり可愛い。地上波に出てきそうなトップクラスのアイドル並みだ。けど遠い存在ではない、見慣れたその女の子の顔。
「って! 李奈やん!」
私は急いで李奈に近づいた。
「おはよう、李奈。お待たせ」
「あ、千紗」
李奈は救世主が現れたかのような救済の眼差しを私に向けた。李奈はギンガムチェックのミニスカートにスカートインの長袖ブラウス姿だ。
「うおっ、待ってた子ってこの子? めっちゃ可愛いじゃん」
金髪の男が私に視線を向ける。二十代前半くらいだろうか。なんだかこの男の、人を舐め回すように見る目が不愉快だ。
「ねぇねぇ、お友達も一緒にこれからカラオケ行こうよ」
こう言った男は黒髪ロング、そして垂れ目。胸元に派手なシルバーアクセサリーをぶらさげている。金髪同様に全くときめかない。私は李奈の手を引くと指を絡めて握り、必要以上に体を寄せ李奈に顔を近づけるとナンパ男を見て言った。
「うちら男の人あかんのです。二人とも女の子専門やから。な?」
そう言って李奈に同意を求めた。この時李奈の顔は図らず鼻と鼻が当たりそうなほど近かったので一瞬ドキッとする。間近で見るとこの女さすがにレベルが高い。わかってはいたが。
「あ、うん。そうなんです」
李奈は私の意図を理解してそう言うと私の腕に自分の腕を絡めた。この時のナンパ男達の唖然とした顔は傑作で、これをネタに何杯でも酒が飲めそうだ。
「行こ?」
私は李奈の手を引いて歩き出した。ICカードをタッチして改札を抜けると階段を上がり駅のホームに出たのだが、ホームで電車を待っている間李奈が俯いて顔を赤くしている。
「李奈どうしたん? 顔赤いで」
「手……」
「あ……ごめん」
私は慌てて李奈の手を離した。
「嫉妬もせぇへんくなったし、気持ちももう大丈夫やねんけど、さすがにくっつくとドキドキする」
私は罰が悪く頭を掻いた。
李奈は私に音楽を与えてくれた救世主だ。もし李奈がいなかったら私はズブズブと下衆の街道をひた走っていたかもしれない。そして私のファーストキスの相手である。
私はお姉ちゃんの影響で小学生の頃からサッカークラブに通っていた。中学生になるとお姉ちゃんと一緒の女子サッカークラブに入った。チームでレギュラーが取れるほどの実力はあったが、お姉ちゃんみたいに年代別の代表に呼ばれるほどではなかった。
私はサッカーが大好きだった。実力やセンスではお姉ちゃんに及ばなかったが、サッカーが好きな気持ちだけはお姉ちゃんにも誰にも負けるつもりはなかった。それ故に三歳から通っていたピアノ教室も小学校卒業と同時に止めてしまいサッカーに打ち込んだ。
李奈の実家は私の実家と同じ商店街にある豆腐屋で、私たちは幼馴染である。李奈は小学生の時は合唱部に所属するなど運動はあまり得意な方ではなかった。けどいつもサッカーをしている私を応援してくれて、それは中学生に上がって李奈が吹奏楽部で部活を始めてからも変わらなかった。
しかし私はサッカーを諦めた。
中学二年の春に足の甲を疲労骨折した。診断によると私の骨格は成長がすでに止まっていたのに肉体はまだ成長を続けていたらしい。だからトレーニングで筋肉はついた。当時Bカップだった胸も今ではDカップある。そんな私の体脂肪率は今でも十パーセントくらいだ。
足腰が細いと言ってもらえるがほとんど筋肉で贅肉がないのだ。そしてその筋肉に骨が耐えられなくなり、それで踏ん張りが効かずボールを蹴る時に軸足を骨折した。
怪我が治ってからも騙し騙しトレーニングを続け試合に出続けた。しかしこの年の秋に二度目の疲労骨折をしてサッカーを諦めた。
大好きだったサッカーを諦めた私は途方に暮れた。そして荒れた。この頃から煙草を吸うようになり、何もかもがどうでも良くなっていた。
中学二年の冬のこと。翌日が休みのとある金曜日だった。私のけがはもう治っていて、私は李奈と一緒に学校から帰っていた。すると通学路で同じ中学校の一人の男子生徒に呼び止められた。
「好きや。俺と付き
「ええよ」
私は即答した。男と遊んでいれば気が紛れるかもしれない。そんな軽い気持ちだった。しかし李奈が横で私の腕を引いた。
「ちょ、何言うてんの? 今何も考えずに返事したやろ? あかんて」
「なんでお前が口出すねん」
男子生徒は李奈に不満を言ったのだが、私は何も考えていないわけではない。前途のとおり気が紛れるかもしれないと思ったのだ。
「返事はまた今度する」
李奈が勝手に男子生徒に告げると私たちはその場を離れた。
「あいつはあかんで。女の子とっかえひっかえする言われてるもん」
「そんなん噂やろ」
私は興味も感情もない声で言ったのだが、実際に興味はなかった。あるのは気分を紛らす方法の模索だけだ。
「噂やない。私も言い寄られたことあるもん。当事者が言うねんから噂やない」
「ふぅん」
李奈には数えきれないほどの男が寄って来る。今までそれぞれクラブと部活で活動が違ったからいちいち李奈に寄ってくる男なんて把握しきれない。私はあまり興味がなかった。
「今日千紗ん家泊りに行ってもええ?」
「は? どないしたん急に?」
「予定あるん?」
「特にないけど」
「じゃぁ、決まりや」
思えば学校や登下校以外で李奈と時間を共にするのは久しぶりだ。今までそれぞれクラブと部活で活動が違ったから。
この日の夜、李奈はうちに泊まりに来たのだが、私の部屋のベランダに置いてある灰皿を見て李奈に煙草がばれた。李奈は何も言わなかった。ただ悲しそうな目をしていたことだけはいつまでも私の脳裏にこびりついている。
そして夜も更けると私たちは狭い私のベッドに一緒に入った。
「こうしてると
そう言って李奈は私に体を寄せてきた。数分、いや数十分そうしていただろうか。確かに温かかった。
すると李奈は目を閉じている私の頬にそっと手を添えてキスをしてきた。私は驚いて目を開けた。李奈は唇を離すと私の背中に腕を回して言った。
「今の千紗見てられんねん」
「李奈……」
「私千紗のことが好きやねん。千紗に恋しとんねん。言わんつもりでおったけど、今の千紗見とったらもうどうにもならんくなってきた」
これにはもっと驚いた。そんなことを考えたことがなかったのだ。
「ごめん。李奈はうちの幼馴染で大事な親友や。そういう目で見れん」
本当に大事な親友だと思っていたからこそ私は正直に答えた。
「わかってる。困らせること言ってごめん。ただあんま自棄にならんでほしい。なんかあったら私のことも頼ってほしい」
「わかった。ありがとな」
私は李奈を抱き寄せ眠った。サッカーを諦めてから初めてまともに眠れた気がした。
翌朝、李奈は私を連れ出した。李奈が連れて来てくれたのは街中の楽器店だった。
「カスタムできてる?」
「おう、待っとれ」
李奈はレジでやんちゃそうなお兄さんに声を掛けた。お兄さんはしばらくレジ裏に消えると白いテレキャスターのエレキギターを持って出てきた。
「これもちょうだい」
李奈はレジカウンターにドラムのスティックを二本置いた。
「ドラム始めるんか?」
「ちょっとな」
会計を終えると李奈はその店の貸しスタジオに入った。私は李奈に付いて行った。
「李奈ギターやってたん?」
スタジオの中でアンプにギターを繋ぐ李奈に聞いた。私はこの時まで李奈がギターを持っている姿を見たことがなかった。
「うん。もう一年近くや」
「そんなに?」
「うん。小学校が一緒やった沙織覚えてる?」
「うん」
今や一緒にハーレムを組んでいる沙織のことだ。沙織は小学校まで一緒だったが中学校は学区が分かれてしまった。
「私吹奏楽で必要なもんあって去年の夏にこの楽器屋に来たねん。その時に偶然
知らなかった。私がサッカーに一生懸命だった時から、挫折して荒れている今まで李奈がギターを弾いていたなんて。
するとセッティングを終えた李奈が右手を振り下りした。豪快なドライブ音がスタジオに響く。反射的に耳を塞いでしまいそうだ。顔を歪めた私を見て李奈が笑う。
すると李奈は先ほど買ったスティックを私に手渡した。
「叩いてみ?」
「は?」
私は一瞬何を言われているのかわからなかった。すると李奈は手渡したばかりのスティックを結局取り上げ、肩から下げていたギターを下ろした。そしてドラムセットの椅子に座ったのだ。
「私
ジャーン! というクラッシュを皮切りに『ドンタンドドタン』と李奈が小気味よいリズムを叩く。ハイハットを四拍子で刻み一拍目にクラッシュを打つ。そこには私の知らない李奈がいた。格好いいと思った。
「李奈ってドラムも練習してたん?」
「吹奏楽部にあるドラムセットを遊びで叩かせてもらっただけや。やってみ?」
そういうと李奈は立ち上がって再び私にスティックを向けた。スティックを受け取った私は恐る恐る椅子に座った。そして大きく息を吐くと李奈を真似して
ドンタンドドタン
「は? なんで一回見ただけでできんの? あんた化けもんか」
李奈が驚いた顔で私を見たのだが、実はこの時あまり李奈の声と表情を認識していなかったように思う。
――足が痛くない――
私の最初の感想はこれだった。座っているから地に足を踏ん張らなくてもいい。けどハイハットとバスドラを踏む時に膝を上下に動かす。上半身のアクションも気持ちがいい。何より怪我を恐れず体を動かせることが嬉しかった。
「サッカーってウォーミングアップの時にステップの練習とかするやろ? それで千紗ならリズム感ええんちゃうかなってずっと思っててん。それに千紗はピアノの経験者やし。けどこれは予想以上やわ。どや? ドラムやってみん?」
「やる!」
私は李奈の問い掛けに満面の笑みで答えた。サッカーを諦めて以来、初めて心から笑えた。李奈はホッとしたのか優しく私に笑いかけてくれた。
私はその日の帰宅後すぐさまお父さんにドラムを買ってほしいとおねだりした。私の挫折に人一倍心配していたお姉ちゃんが味方になってくれた。これにお父さんは前向きに考えてくれた。
しかしスペースは取るし、音はうるさいし、安くもない。そこで電子ドラムを買ってもらえることになった。条件として売り場の隅に置いて練習をすること。売り場で練習をすれば店番をしてもらえるというお父さんの打算があった。
電気屋の隅に置かれた電子ドラムは違和感があるようで違和感がない。たまに商品と間違えるお客さんもいて試奏させてくれなんて言う。電子ドラムは実家の電気屋のオブジェのような存在になった。
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