序曲~千紗~ 第三話
東京での生活が始まって二週目。まだまだ生活には慣れない。一番困っているのは何と言ってもドラムの練習である。
事務所にスタジオは四室ある。その中で軽音楽のスタジオは二室である。他の二室は物がなく大きな壁面鏡が設置されていてダンスレッスン、演技レッスンなど多目的に使用される。
軽音楽二室のうちAスタジオはプロデューサーがアーティストを指導するためのもので、バンドのみならずソロの歌手やミュージシャンにも使用する。もう一室のDスタジオはバンドの練習やライブのリハーサルのために使う。ソロの歌手のリハーサルでもバックバンドを呼んで使っている。
AスタジオとDスタジオが空いている時間は事務所に言えば使わせてもらえるが、バンド練習やリハーサルが優先である。この一週間で私が個人練習のために使わせてもらえたのは二時間を二回だけ。他に、事務所主導の講師レッスンも受けているが、個人練習が一週間で四時間は足りているわけがない。最低でも毎日二時間は練習をしたい。
私は不足分を楽器店に行って貸しスタジオに入り練習をしていた。もちろんお金は掛かる。
「はぁ、お金きつい。バイトせなあかんかな。けど急にライブや営業回り入ったら休ませてもらわなあかんもんなぁ」
私は自宅のベッドでゴロゴロしながら嘆いた。今日も貸しスタジオに入りさっき帰って来たばかりだ。もう夜も更けている。
私は事務所から育成援助金をもらって生活をしている。贅沢をしなければぎりぎりでやっていける額だ。しかし貸しスタジオ代が生活を圧迫する。もうすぐ発売のデビューシングルが売れれば変わるかもしれないのだが、そうは言っても印税が入るのは当分先だ。
そんなことを考えていると電話が鳴った。相手は先生だ。
「もしもし?」
『ご飯食べた?』
「ちょっとだけ」
貸しスタジオで練習した帰りにコンビニでおにぎりを一個だけ買って食べた。ひもじい。
『今投資の仕事関係の人から接待受けてんだけど、もうすぐお開きなんだよ。好きなだけ包んでいいって言われてるんだけど、持って帰ったら千紗食べるかなと思って』
神だ。やはり先生は出会ってからずっと神である。
「食べる!」
私は勢いよく体を起こして答えた。その様子が声に表れていたようで電話の向こうで先生が笑っている。
先生は電話の後三十分ほどで帰ってきた。先生の部屋に呼ばれた私の前に広げられていたのはなんとお寿司である。
「これってもしかして……接待ってことは回ってへんやつ?」
「もちろん」
涙が出そうだ。ありがたや、ありがたや。
「ビール飲む?」
「飲む!」
私が即答すると先生が私の分と自分の分の缶ビールをローテーブルに置き、それに合わせて千円札と私が吸う銘柄の煙草を二箱置いたのだが、これはどういうことだろう?
「煙草クールだったよね?」
「うん」
「あげる」
「ええの? まだこないだのカートン残ってんで」
「ついでに買ってきたから。あと引っ越し翌日ここで飲んだ時の酒代はやっぱ返す」
「なんで?」
「教え子の酒代くらい俺が出したい。格好つけさせて」
なんていい先生だ。先生の男気に胸が弾む。とは言え、恐縮でもある。
「それでも多いで」
「多い分にはいいでしょ」
感動だ。バンド指導では鬼のくせに。私は感動している。バンド指導では優奈を泣かせたくせに。本当にいい先生だ。
「あとさ、今日寿司と一緒に日本酒ももらってきたんだよ。なんか高そうなやつ。ビール飲んだら飲む?」
「飲む!」
私は声を弾ませた。引っ越し翌日に先生の部屋で先生と一緒にお酒を飲んだ。先生にばれてはいないと思うが実は私は酔っぱらっていた。あの時は生理なのに調子に乗って飲んでしまったのが原因で、酔っ払いがばれないようにちゃんと片づけをして、一生懸命真っ直ぐ歩いて私は先生の部屋を出たのだ。生理はもう終わっているので今日は心置きなく飲める。
「あとこれあげる」
そう言って先生が渡してきたものは鍵だった。
「昨日俺夜中までアトリエに籠っちゃったから煙草吸えなかっただろ? だから俺の部屋の合い鍵渡しておくよ」
「マジで? ええの?」
「うん。ベランダで吸って写真撮られてもまずいし」
「けどうちの部屋の合い鍵は事務所にあるから渡せへんで」
「それはいいよ」
「先生おおきに」
ここまでしてくれて私も何かを返したい。先生はたまに朝からアポイントが入っているけど忘れていて起きないと言ったことがある。私にできることと言ったら朝起こして朝ごはんを作ることくらいだ。
「先生って手帳持ち歩いてへんよな?」
「うん」
「どうやってスケジュール管理してんの?」
「グーグルカレンダー」
「グーグルカレンダー?」
「うん。千紗もアカウント取って俺をフォローすれば俺のカレンダーが見れるよ」
「ほんま? 見たい」
私は先生に教えてもらいアカウントを取ると、スマートフォンにアプリをダウンロードした。続いて先生は私のアカウントを承認してくれた。
「おぉ、先生のカレンダーが見れる。合い鍵あるしこれから早く起きなあかん日は起こしに来たるよ」
「マジで? 助かる」
先生が声を弾ませる。喜んでもらえたようだ。目の前のお寿司はおいしいし幸せな気分だ。
そのお寿司はほとんど私が食べてしまったのだが。先生は食べてから帰って来たのでお腹いっぱいだと言って一口くらいしか食べてない。
先生がもらってきた日本酒もいただいた。甘くて喉越しが良く飲みやすく、樽の風味があってとても美味しい。それを私はまた調子に乗って飲んでしまい、しかも二人で一本空けた。すると先生は眠いと言ってベッドで眠ってしまった。
私は片付けを終わらせると先生の寝顔を見た。先生は壁に背を向けて寝ている。私はベッドの横で床に膝をついて、腕をベッドに乗せて顔を覗き込んだ。
先生の寝顔を見ているとなんだか吸い込まれそうだ。初めて新幹線で会った時に感じた先生の悲しくなる笑顔と何か関係があるのだろうか。気を抜くとこのまま近づきキスをしてしまいそうな感覚に陥る。
私は後ろ髪を引かれる思いで先生の部屋を後にした。
翌朝起きると私は裸だった。少し酒が残っている。しかし頭痛はないし二日酔いではないだろう。今日は李奈と買い物に行く約束をしているので、起きなくてはいけない。
昨晩は先生の部屋から帰って来ると久しぶりに自慰行為をしてしまった。高校生の時は頻繁にしていた時期もあったが、年が明けてメジャー契約をしたくらいからは落ち着いていたのに、昨晩は酒の影響があってかそういう気分になった。
いつも思い浮かべるのは私の想い人。顔も知らない相手である。しかし昨晩はいつもと違った。いつものようにしていると思っていたら、達する瞬間に私の頭の中に飛び込んできたのは先生だった。戸惑ったが快感の波が大きく止まらなかった。私は満足するまで果てるとそのまま心地よい眠りに就いた。
私は恋をしている。もう二年になる。私の恋の相手とは手紙で繋がっている。つまり文通だ。相手の名前はツバサさんと言う。
私には二歳年上のお姉ちゃんがいた。美人でスポーツ万能の自慢のお姉ちゃんで、小学生の頃から男子に混じってサッカーのクラブチームに所属しレギュラーだった。中学生の時からは女子サッカークラブに所属し、年代別の日本代表にも呼ばれていて、将来を期待される存在だった。私もお姉ちゃんの影響で小学生の時からバンドを始めるまではサッカーをしていた。
そのお姉ちゃんには恋人がいた。お姉ちゃんの二歳年上で高校の先輩だった。お姉ちゃんの彼は俳優になると言って高校卒業と同時に東京に出た。
一年ほどお姉ちゃんは遠距離恋愛を頑張った。マメにメールを送り、電話を掛けた。本当は東京まで会いに行きたかったのだろうがサッカーの練習や試合でなかなか時間が作れなかった。しかし努力も虚しく徐々に彼との距離は離れていった。
そしてお姉ちゃんが高校三年の時、彼と連絡が取れなくなった。携帯電話を解約したようで電話は繋がらず、メールも送れなくなった。お姉ちゃんはそれを忘れるかのようにサッカーに打ち込んだ。
そして悲劇は訪れた。それはお姉ちゃんが高校三年、私が高校一年の夏だった。お姉ちゃんがサッカーの練習中に倒れたのだ。すぐに病院に運ばれ、検査の結果心臓の病気だとわかった。そして余命三カ月と宣告された。私たち家族は皆打ちひしがれた。
しかしお姉ちゃんは逞しかった。病院のベッドの上で徐々に弱りながらも余命と言われた三カ月を超え、年を越した。そして二月に彼にもう一度会いたいと言って弱くなった握力を振り絞り手紙を書いた。
私はお姉ちゃんに頼まれ封筒だけ私が書いてポストに投函しに行った。そして投函を終えて病室に戻って来るとお姉ちゃんは息を引き取っていた。
数日後お姉ちゃん宛てに手紙が届いた。送り主は河野翼さんという人からで、手紙を送った先の住所の住人は彼からそのカワノツバサさんという人に変わっている旨の内容だった。とても丁寧な文章で、封を開けられていないお姉ちゃんの手紙も同封されていた。
私はツバサさんに謝罪とお礼の手紙を書いた。差出人はお姉ちゃんの名前
するとツバサさんは名古屋の実家に戻ったと言って名古屋から返事をくれた。私はそれにまた返事を書いた。百花として書いていたので大学進学が決まっているサッカー選手だと身分を偽った。お姉ちゃんは健在ならなでしこリーグのチームに入れただろう。けど書いているのは私なのでネット検索されては面倒だ。そこでもし私がまだサッカーを続けていたらという設定でイメージして書いた。
大学生進学が決まっていてクラブチームに所属している。いつかなでしこリーグのチームに移籍して日本代表に入ることが目標。そして女子ワールドカップで優勝することが夢だと書いた。
するとツバサさんは建築士事務所で働いていることを教えてくれた。一級建築士を取ることが目標で将来独立することが夢だと書いていた。
私は手紙のやり取りをするうちに夢があるツバサさんに魅かれ恋をした。私の初恋である。しかし私は身分を偽っている。百花として手紙を書いているので年齢も実際より二歳上の設定になっている。一度携帯電話の連絡先を交換したいと言われた時は嘘がばれるのが怖くて避けてしまった。お互いの夢が叶うか、納得できるまでやりきったらその時は直接会って連絡先を交換しようと返事をした。
ただ好きになってしまった相手との文通をやめるつもりはない。やめられないのだ。だから今でも続けている。東京に来たことを言っていないので住所は大阪のままだ。故人は身分証の提示ができないので、転送願いが出せなかった。私は届き次第すぐに未開封の手紙をもう一枚の封筒に入れてお母さんから転送してもらっている。
私はベッドから起き上がるとシャワーを浴びた。服を着て化粧をすると李奈との約束があるので家を出た。私が文通をしていることを知っているのはお母さんと今から会う親友の李奈だけだ。更にその文通相手を好きになってしまったことを知っているのは李奈だけである。
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