序曲~千紗~

序曲~千紗~ 第一話

 最後にスティックを入れてキャスター付きバッグのファスナーを閉めた。ダイヤルロックもした。スマートフォンとiPodを肩掛けバッグに入れてこれで準備完了だ。早朝に引っ越し社のトラックが家を出たため今日は早起きだ。


「千紗、早よせんと乗り遅れるで」


 一階から張り上げたお母さんの声が響く。私小林千紗こばやし・ちさは荷物を持って階段を下りた。

 数時間前にひとまず最後になるのであろうお母さんの朝ごはんを食べた。お母さんがその時の食器を台所で洗っている。私が下りてきたのを確認するとお母さんはエプロンで手を拭いたのだが、これから離れて暮らすのかと思うと少し寂しい。


「ほな行こか」


 エプロンを脱ぎながら言うお母さんはあっさりとした様子だ。


「あ、ちょっと待ってや」


 私は一階の和室にあるお姉ちゃんの遺影の前に座ると線香に火を点け仏前に立てた。脇にはアップライトピアノが据わっている。


「お姉ちゃん、行ってくるな。うち頑張るさかい見守っててな」


 私は仏前でお姉ちゃんに一言話し掛けてから手を合わせた。写真のお姉ちゃんはいつも笑っている。私はもう写真の中のお姉ちゃんと同い年になってしまった。


 私は玄関から靴を手に取ると、室内を通って一棟になっている売り場へ向かう。その先には忘れてはならない家族がまだいるから。


「お母さん、お父さんに挨拶していくから店から出るわ」

「はいよ」


 お父さんはレジカウンターの中で座って店番をしていた。私の実家は大阪市内の商店街にある電気屋で売り場には多くの家電が並んでいるのだが、レジの横には電子ドラムが隅に寄せられて置かれている。


「お父さん行ってくるな」

「おう、気ぃつけてな。いつでも戻ってぃや」

「うん」


 私はお父さんに笑顔で返すとアーケードで覆われた店の外に出た。派手な服を着て自転車で行き交うおばちゃんの姿も、罵声を飛ばす魚屋のおじちゃんの声も、今日でお別れだ。

 店の裏手にある駐車場まで歩くとお母さんはすでに車の中にいてエンジンをかけていて、私は店の名前が書かれたそのバンに荷物を積み込み助手席に乗った。


 今月高校を卒業したばかりの私は今日から東京で暮らす。一緒に上京する同級生三人は二日前にすでに引っ越しを済ませていて一足先に東京にいる。私は東京で暮らすマンションの入居可能日が最短で今日だったので一人だけ遅れて出発することになったのだ。


 お母さんは新大阪駅まで送ってくれて、私は駅前で車を降りた。行き交う人々はせかせかと歩いていて街の喧騒が賑やかだ。東京も同じなのだろうかと想像する。


「新幹線出る前にちゃんと手土産買うんやで」

「いくつやっけ?」

「事務所に一個とマンションの部屋の両隣りと上下階やから全部で五個や」


 指を折りながら数えるお母さんの顔は真剣で、自営業のくせに数字が苦手なのだと物語っている。


「うち最上階の角部屋やで」

「ほな四個か」

「三個や」

「事務所は人数おるから大きいの買うんやで」

「わかった」

「元気でな」

「うん、お母さんも」


 駅で買い物を終え、やがてのぞみに乗り込んだ私は、チケットに記載された指定席の十四号車十二のDの席の前に立つと考えた。手元にはキャスター付きバッグに肩掛けバッグ。それに手土産の紙袋と駅弁。

 これを抱えたまま通路側の席に座るのは不可能ではないが窮屈だ。一五四センチの身長の私は棚にも手が届かない。どうしたものか。窓側の席は空いている。私は一つの決断をした。


 窓側の席に座ってキャスター付きバッグを足元に。窓台に肩掛けバッグを置いて通路側の席に紙袋を置いた。駅弁はテーブルを下ろしてその上に。窓側の席の人が来たら変わればいい。

 私は窓側の席に腰を下ろすとイヤホンを耳に入れiPodで音楽を聞き始めた。途中検札に来た車掌さんに紙袋を棚に上げてもらって通路側の席は空いた。

 しかしこんな上京のタイミングでよりによって生理である。更に今日は早起きだ。新幹線に揺られていた私の眠気はピークだった。


 そして私は目を覚ました。いつの間にか眠っていたようだ。隣の席に人が座ると煙草の残り香が漂ってくる。車窓から見える風景で新幹線のスピードが速いことがわかるのだが……。


――やってもうた!――


 心の中で悲鳴を上げた。駅を出たばかりならまだスピードが遅いはず。と言うことは隣の席の人はいつからこの席にいたのだ?

 私はすぐに隣の席の人に声を掛け、席を代わろうとしたのだが、隣の席の人は手で私を制した。


「いいです、そのままで。僕煙草吸うのにちょくちょく席立つんで。こっちの席でいいです」


 まだ若そうなその男の人は笑顔を浮かべて優しく言ってくれた。彼は大学生くらいだろうか。とても優しい笑顔なのだがなぜか悲しくなる笑顔だ。

 私は再び窓の外を見たものの場所の検討がつかない。隣の席の彼に聞くと愛知と静岡の県境辺りだと教えてくれたのだが、その時届く煙草の残り香に私も吸いたいと体が欲する。


 先月事務所の牛島さんからメールが届いた。東京での部屋が決まった件とその住所。それから予約してくれたこの新幹線の時間。そして次に書いてあったのは……。


『未成年だから煙草はやめるように』


 私はこの煙草の件にカチンときて勢いでメールを消してしまった。その後もまだ長い文章が続いていたような気もするのだが。


 メールが届く少し前に一人で東京に行った時のこと。事務所のスタジオに入っていた私は途中牛島さんから休憩に誘われた。


「煙草吸うでしょ? 一緒に休憩行こう?」


 臭いで私が煙草を吸うことがわかったのだろう。私はあまりよく考えずに元気よく「はい」と返事をし、牛島さんに付いて行った。すると休憩室で出した私の煙草とライターを牛島さんは取りあげたのだ。


「未成年の喫煙はスキャンダルになるから没収する」


 してやったりの顔で言ってのけたこの時の牛島さんの嫌味な顔は今でも思い出すと悔しくなる。私はそれ以来牛島さんを恨んでいる。嫌いではないが恨んでいる。だから勢いであのメールを消してしまった。ただスキャンダルと言われると何も言えなくなるのでその後渋々煙草を買うことは止めたのだ。


 私はしばらく煙草を吸いたい気持ちを我慢しながら新幹線に揺られるものの思うことは一つ。


――あぁ、煙草が吸いたい――


 あの牛島さんのしてやったりの顔がチラつき悔しさが込み上げてくる。生理がイライラを助長する。そんな葛藤をしていると隣の席の彼が立ち上がった。煙草だろうかと思い、私は厚かましいと思いながらも勇気を出して彼に声を掛けた。「煙草をください」と。彼は一瞬たじろいだが優しく応じてくれた。


 煙草を吸い終わってからの私の機嫌が直っていたことは言うまでもない。隣の席の彼は降りる駅が私と同じ品川で、到着した時に棚に上げていた私の紙袋を下ろしてくれたので、席を譲ってくれたことや煙草をくれたことに続き見ず知らずの同じ人からの優しさに感謝の限りだ。

 彼とは品川駅のホームで別れ、その時時計を見ると十三時を過ぎていた。引っ越し社のトラックはそろそろ着いているだろうか。東京は人が多く大荷物の私は歩くことさえ一苦労だ。大阪も人は多いのだが。

 私は駅員さんに声を掛けた。


備糸市びいとしまではどう行ったらええですか?」

「・・・ホームから・・・方面の電車に乗って、・・・駅で備糸線に乗り換えて下さい」


 よくわからない。最後の備糸線しか理解できなかった。

 私は都心郊外のベッドタウン備糸市に住むことになっている。だからこの名前は憶えていてた。あと備糸駅が最寄りだとメールに書いてあった気がする。牛島さんのメールを消してしまったことがここにきて響いている。


 この後はちょっとした冒険の始まりだった。乗った電車に一時間ほど揺られ元の品川駅に戻ってきてしまったのだが、なぜ電車が戻って来るのか意味がわからない。まるで一周したかのようだ。私は悔しいがマンションまでの行き方を聞こうと意を決して牛島さんに電話を掛けた。


「もしもし千紗です」

「ごめん、今取り込んでるから」ぷちっ。


 切られた。ちくしょう。

 私は一緒に上京した同級生三人に片端から電話を掛けた。しかしみんな電話に出ない。後から聞いた話だがこの時三人はスパにいたらしい。友達が上京する日に迎えにも来てくれないなんて恨んでやる。

 私は駅員さんに何度も聞きながらやっとの思いでとある駅の備糸線までたどり着いた。あれから更に一時間が経っていた。そして路線図を見た。


「東備糸駅、備糸中央駅、西備糸駅、……ってなんで三つもあんねん!」


 私は言葉が返ってくるわけもない路線図に空しくもツッコんでしまった。

 私はとりあえず来た電車に乗り込むと思い出した。誰かが都心から三十分だと言っていた気がする。この駅から三十分くらいの駅で降りよう。しかし後から知った話だが乗り換えのために使ったこの駅はぎりぎりで都心からは外れた場所だった。


 私は二十五分ほどで着いた西備糸駅で電車を降りると、一生懸命記憶を手繰り寄せメールの文章を思い出していた。確か南口を出ると書いてあった気がするのだが、よく分からないので改札を抜けたところで駅員さんに聞いた。


「南口はどこですか?」

「この駅に南口はありません。あるのは東口と西口です」


 なんて非情な通告なのか。これで私はとうとう鼻をすすりあげて泣いてしまった。


「お姉ちゃーん。東京怖いー」


 すると携帯電話が鳴った。表示を見ると知らない番号で、私は一度泣くのを止めた。


『もしもし、ミジンコマークの引っ越し社です。今どこですか?』


 私は神が降臨したと思った。電話の相手は事務所が手配してくれた引っ越し社の人からだったのだが、しかし神はその先にいた。

 引っ越し社の人は隣の部屋の人に電話を代わると言って代わってくれて、その隣の部屋の人は優しく道順を説明してくれた。おかげで私はこの後無事新居へたどり着くことができたのだ。


 引っ越しが終わった時にはすでに辺りは暗くなっていた。こんな時間まで付き合わせてしまって引っ越し社の人には申し訳ない。私は荷解きも手を付けていない状態で手土産を持って隣の部屋に行き、インターフォンを押した。道を教えてくれたことのお礼も言わなくてはいけない。角部屋の私に隣人は一人しかいない。この部屋の人で間違いないはずだ。

 しかしお隣さんは留守だった。私は仕方なく下の階へ行くと、下の階の人はいた。私は挨拶を済ませ自分の部屋に戻ると、とりあえず一軒挨拶ができたことに安堵する。


 実家から運び込んだ私の荷物は少ない。けど実家が電気屋なだけあってお父さんが良い家電を安く揃えてくれた。だから引っ越し社のトラックに積んだ荷物に電化製品だけは多かったのだが、一方家具は必要最低限だ。特に飾り付けもしない1Kの狭い部屋が見事に女子力ゼロの部屋となっている。あとは荷解きをしなくては。


 しばらく集中して荷解きをしていると微かに玄関ドアを開け閉めする音が聞こえた。お隣さんだろうか? と思い、窓の外に目を向けると隣の部屋の明かりが私の部屋のベランダに少しだけ漏れた。


「神がご帰宅なされた」


 すぐに手土産を探し始めた私の胸は心なしか弾んでいた。物をいろんな場所に移動しながら片付けていたのですぐには見つからなかったが、見つけ次第しっかりと手土産を持って玄関を出た。

 隣の部屋のインターフォンを押すと、出てきた若い男の人を見て驚いた。そこに立っていたのは新幹線で隣の席だった彼だった。またお隣さんだ。この優しい彼が神だったのか。納得である。


 私は挨拶を済ませて部屋に戻ると携帯電話が鳴った。表示を見てみると牛島さんだ。


「もしもし?」

「牛島です。さっき何だった?」ぷちっ。


 私は電話を切ってやった。この人は「さっき」という日本語の意味をわかっているのだろうか。あれから何時間経ったと思っているのだ。もうとっくに解決したわ。私には神がいたのだ。牛島いつかどついてやる。

 私は牛島さんのことを思考の外に飛ばし、荷解きを再開すると開けた箱から数十通の手紙の束が出てきた。形を崩さないように透明のビニール袋に入れ、輪ゴムで束ねている。


――そう言えばお隣さんの名前聞き忘れたな――

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