序曲~翼~ 第八話

「いつから……」


 固まったままの僕の口から出た第一声はこれだった。


「うぅん……、一時間くらい前かな」

「お疲れ様です」


 千紗が腰を折って哲平に挨拶をする。


「お疲れ。明日はよろしくな」

「はい、こちらこそ」

「ん?」

「明日サバハリさんのライブの前座やねん。――です」


 千紗が僕の疑問の声に答えたので、明日のハーレムの仕事とはこのことかと理解した。


「ここ一回来てみたかったんだよ。モージマに場所は聞いてたから」


 執務室を見回して言う哲平はほんのり顔が赤い。


「なら連絡してくれればいいのに」

「電話したぞ。出ないからメールも入れておいたのに」


 しまった。仕事に集中しすぎてすっかりスマートフォンを放置していた。


「靴見て女連れ込んでるのはわかったけど、まさかスタジオでイチャイチャはしてないだろうと思って上がって待ってたんだよ。邪魔だったか?」

「いや、誤解だ。ゆっくり寛いでくれ」


 千紗が僕の横で顔を赤くして俯いた。哲平はあらぬ誤解を抱いているようだ。いや、哲平のことだから本当はわかっていて僕をからかっているだけなのかもしれない。


「来たなら声掛けてくれればいいのに」

「だってここのスタジオ二重扉じゃないだろ? 開けたら音漏れちゃうじゃん」

「呼び出せるようになってるよ。あ、ちょうどいいや。こっち来て。説明するわ。千紗も聞いて」


 僕は開けっぱなしだったスタジオの扉に哲平を呼んだ。


「うおっ、事務所のAスタと一緒」


 スタジオの中を見た哲平は少し驚いた様子で声を上げた。Aスタとはプロデューサーがアーティストの指導用に使っている事務所のAスタジオだ。昼間に僕がハーレムのバンド指導で入ったスタジオであり、僕がアトリエにスタジオを作るのに真似したスタジオである。作曲にも適した作りである。


「あそこに三色の回転灯があるだろ?」


 僕はデスクのある床が二段上がった作業ステージの真上の回転灯を指さして言った。その回転灯は天井に設置してある。


「事務所に訪ねてきた人が玄関のインターフォンを押すと執務室では音が鳴るけど、スタジオでは青色の回転灯が光るんだよ」

「へぇ、赤と黄色は?」

「スイッチはここ」


 僕は扉の外にある執務室側の壁に設置された赤と黄色のスイッチをそれぞれ押した。


「用がある時は黄色を押して。けど録音中とかは無視する。緊急時は赤を押して。どっちも押す時はドアから顔を覗かせて」


 僕は防音扉に設置された面積の広いガラス面をコンコンと叩いて説明した。千紗がドラムの練習をしている時もこの回転灯のスイッチを押してから扉を開けようと思ったのだが、説明がまだだったのでやめたのだ。


「すげーな。事務所の練習スタジオにもこの回転灯導入すればいいのに」

「要望で上げろよ。俺はハーレムの指導で週に一回しか使わないから別にいい」

「って言うか、一匹狼のお前がなんで人が来ることを前提にしたこんな設備を取り入れたんだ?」

「え……」


 なぜだ? 僕は言葉に詰まった。確かに僕はなぜ人が来ることを想定していたのだろう。人が来ても無視すればいいだけの話だ。哲平との音楽活動を通して人間嫌いが僕の想像よりも改善されているのだろうか?


「ま、いっか。飲もうぜ。買ってきた焼き鳥まだあるし。菓子も買ってあるぜ」


 そう言うと哲平は陽気に応接ソファーへ戻り、僕にも酒を進めるようなことを言う。しかしそれには疑問が浮かぶ。


「飲もうって言ったって、ビール自分の分しか買ってないだろ?」


 僕は応接テーブルに置いてある哲平の飲みかけの缶ビールを見て言ったのだが、一緒に焼き鳥のパックと広げたポテトチップスが一緒に置いてある。空になって潰された缶が他にも数本あるが、開けていない缶はないようだ。


「給湯の冷蔵庫に入れといたぞ」


 呆れた。すでに冷蔵庫まで開けられていた。哲平にとっては完全に我が家ではないか。


「千紗も飲むだろ?」


 哲平のその言葉に千紗は僕を見た。千紗は未成年であることを気にしているのだろう。僕がしょうがないよと言う意味の苦笑いを向けると、千紗は元気に笑顔で答えた。


「はい、飲みます」


 僕と千紗は給湯室に行き冷蔵庫を開けたのだが、中を見て僕は後ろにずっこけそうになった。元々お茶くらいしか入ってなかった小型の冷蔵庫だが、所狭しと酒が詰め込まれていたのだ。ワインのボトルが二本とあとは缶ビール。これを詰め込んだ男は僕のアトリエを酒場にしたいようだ。一緒に冷蔵庫の中を見た千紗は隣で噴き出して笑っている。


 僕と千紗は自分の分の缶ビールを取り出すと並んで哲平の正面に座った。三人掛けのソファーが二つ向かい合わせになっていて、哲平は一人で幅を取り寛いでいる。


「かんぱーい」


 その発声のもと酒盛りが始まった。ビールがうまい。今日は長時間働いたのでよく喉を通る。千紗も同様のようだった。


「千紗、飲めるね」

「はい。おいしいです」


 感心したように言う哲平の言葉に千紗が笑顔で答える。ただ、釘だけは刺しておかなくてはならない。


「まだ未成年で事務所がうるさいから内緒な」

「おう、わかった」


 僕のフォローに承諾をする哲平。すると千紗が哲平に聞いた。


「さっき言ってたモージマって誰ですか?」

「あぁ、お宅のマネージャーだよ」

「え? 牛島さん?」

「あいつ卑屈っぽくてすぐ愚痴るだろ? その時『もう』って言うじゃん。だから牛島の『牛』と掛けてモージマ」

「あははは」


 千紗がツボにはまったように笑うのだが、つまりはよほど心当たりがあるらしい。僕に対して牛島は他人行儀を崩さないので僕には心当たりがない。


「メンバーにも教えたろ」

「あいつそう呼ぶと怒るからいない時だけな」

「オッケーです」


 笑って哲平に指で丸を作り、それを向ける千紗は実に可愛らしい。


「千紗、タスクの好きな人知りたいのか? さっきスタジオから出てくる時言ってたけど」


 ビールを喉に通していた僕の手が止まる。どういう流れでその話題に移るのだ。


「知ってるんですか?」


 千紗が食いつく。そりゃ食いつくだろうよ。


「うん。こいつ実はな――」

「あぁぁぁぁぁ!!」


 僕は意味不明に叫んで哲平の言葉を遮った。


「冗談だって。教えてもらえるようなもっと近い存在になれよ。頑張れ」


 哲平のこの言葉の後半は千紗に向けられたものだった。哲平はからかうような笑みを浮かべているのだが、頑張れとは何だ。近い存在とは? 引っ掛かる言い方をするものだ。


「頑張ります」


 千紗は千紗でこんなことを言う。仕事の関係者として信頼し合うことはいいことだが、千紗にも好きな人がいるのだからそのことの方こそ頑張ればいいのに。


「二人はいつから一緒に音楽やってたんですか?」

「中一」


 千紗の質問に答える哲平。そもそも僕は三人以上の場になるとあまりしゃべらなくなる。聞いてはいるが会話に入ることが少ないのだ。


「そんな前から」

「うん。二人でいろんなバンドを経験して高三になってすぐにサバハリを組んだんだ。当時は高校生になったばかりの二個下のカズにタスクがいっつも怒られててさ」

「え? 先生がですか?」

「そう」

「もういいじゃんその話は」


 僕は恥ずかしくなりさすがに口を挟んだのだが、哲平はさっきから触れられたくない話ばかりする。けど二人は話題を変える様子がなく実に楽しそうだ。


「ずれてるとか、アクセントが違うとか。そんでタスクはカズに毎回宿題を出されるわけよ」

「宿題って何ですか?」

「課題曲。あれやれこれやれって。それがレッチリやミスタービッグで。難しい曲かタスク指弾きなのに速い曲かだもん、笑っちゃって」

「そう言えば、千紗って大阪ではどうやって練習してたの?」


 ふと思い出して僕は話に入った。


「住んでた実家に電子ドラムがあります」

「俺の前では別にいいぞ」

「え?」


 そう言った哲平に千紗が虚を突かれたように反応した。


「普段タスクに対してはタメ口なんだろ? さっきスタジオから出てくる時そうだったし。俺のせいで二人の距離遠くしても悪いし」


 だからその引っ掛かる言い方。千紗との距離ってなんだよ。


「ほなそうします」


 千紗は笑顔で言う。哲平にも慣れてきて楽しそうである。自分が人見知りだからだろうか、僕は同席者同士が気を使っていないかを気にする癖がある。ちょっと安心した。


「哲平さんはミスタービッグやらんのですか?」

「やったよ。サバハリ組んだ時なんか練習課題曲にしてたし」

「ほんなら今から三人でスタジオ入ってやりましょうよ? うちも個人練習でやったことあるし」

「お、いいね」

「ね、先生ええやろ?」


 千紗は僕の腕を揺らしねだってきたのだが、この三人でセッションをするのは実に楽しそうだと僕も興味を抱く。


「いいよ」


 この後すぐスタジオに入りセッションをした三人は、酒も入っていてテンションが上がった。他にも何曲か三人共通の曲を出しては楽しんだ。




 翌朝、僕は執務室のソファーで目を覚ました。哲平は昨晩夜中の三時には帰って行った。向かいのソファーでは千紗が寝ている。


 僕は体を起こすと千紗に近づいた。床に膝をつくと千紗の寝顔を覗き込む。凄く魅力的な寝顔だ。

 千紗の頭を撫でてみる。髪がさらさらで指どおりがいい。

 白く綺麗な頬に手の甲を当てる。すべすべしていて触り心地がいい。


「んん……」


 千紗はくすぐったかったのか声を出すと寝返りを打った。

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