序曲~翼~ 第七話
僕は千紗と一緒に事務所を出ると東備糸駅まで帰ってきた。そして二人で駅前のフランチャイズの牛丼店に入った。
帰ってくるまでの電車の車内で僕はファミレスに入って食事をしようかと提案したのだが、千紗から時間がもったいないと却下された。千紗は早く練習がしたいらしい。実にストイックである。それで手っ取り早く食事が済ませられる牛丼店に入ったのだ。
僕は牛丼の丼を抱えながら言った。
「俺が言うのも何なんだけどさ、あんま気負いすぎるなよ」
「無理や」
即答である。
「人に認められるだけうまくなりたい」
僕なりの精一杯の励ましの言葉だったのだが、今は何を言っても気休めにもならないようだ。尤も、一度仕事を離れると態度が変わる僕もどうかと思うが、それでも千紗のこの向上心には感心する。
僕も哲平に勧められてベースを始めた時は置いて行かれまいと必死で練習をしたし、サバハリを組んでカズがリズム隊の相棒になると、カズから事あるごとにダメ出しを食らい、僕はそれが悔しくて更に必死で練習をした。そんな時を思い出す。
慌ただしい夕食を終えて牛丼店を出ると、四月の夜風は寒さを感じる。今日は一日の最初と最後が千紗と一緒である。
駅前の道をまっすぐ歩き大通りに出て右折すると自宅マンションに帰られる。僕たちはその三丁目の交差点を左折して、駅前の牛丼店を出てから十分ほど歩いたとこりにある十五階建てのビルにたどり着く。エレベーターで十一階まで上がり僕はアトリエの鍵を開けると、玄関に入るなり執務室の照明を点けた。
「うわぁ、ここが先生の仕事場?」
「うん」
玄関で靴を脱いだ千紗は歩を進めると感嘆の声を上げた。照明に照らされた執務室を見回している。そして千紗は南向きの窓の前に立つと外の景色を眺めた。
「高い。めっちゃ景色ええやん」
十一階の窓は無数の街の明かりを映していて、その夜景は確かに綺麗なのだ。
「ベランダ広い。出てもええ?」
「いいよ」
千紗が窓を開けベランダに出ると執務室に風が吹き込む。僕も千紗に続いてベランダに出るとすかさずポケットから煙草を取り出し、火を点けた。千紗が物欲しそうな顔をするので千紗にも一本渡した。千紗は煙草を部屋に置いていて持ち歩かない。牛島のチェックに引っ掛からないよう部屋の中で隠しているそうだ。
このアトリエには十階の屋根になっている広いベランダがある。それはアトリエと同じくらいの広さがある。僕は広いベランダもこの物件に決めた理由の一つだ。僕の喫煙所でもある。
「こんだけ広かったらバーベキューできるやん」
「バーベキュー? キャンプ場でやるやつ? 外で肉焼いて酒飲むあれだよね? ここでもできるの?」
煙草を吸いながら夜風を浴びている僕と千紗の持つ煙草の煙は、その風に揺られている。
「先生バーベキューやったことないん?」
「ない」
「うそやん。そら天然記念物ものやで」
天然記念物かよ。今まで人との付き合いを避けてきた僕はそういう催し物にあまり出たことがないのだ。
「雄太や哲平なら交友関係広いからそういうの詳しいかも」
「ほなサバハリとハーレム合同のバーベキューやろや? 事務所の人も呼んで。親睦会や」
「そうだね」
いつもの僕なら面倒くさがってここで断るはずなのだが、千紗と一緒にいると調子が狂う。
「あかん、こんなことしとる場合やない。早よ練習せな」
千紗が気を入れ替えたので、僕たちは屋上に設置した灰皿に煙草を始末すると執務室に戻った。そして僕は千紗をスタジオに案内した。
執務室の奥の重い防音扉は玄関から一番遠い場所にある。僕はその扉を開けるとスタジオの照明スイッチを押した。
「すごっ。事務所のスタジオと一緒や」
千紗が二度目の感嘆の声を上げた。そう、このスタジオは事務所の指導用のスタジオを真似して作っている。
南面の窓を背景にドラムセット、キーボード、アンプを配置し、そこから向かい合わせになるように二段上がった床に幅の広いデスクを設置している。
デスクの上にはパソコン、電子キーボード、PA機器、録音機器が所狭しと並んでいる。デスクの背面にはメッシュウォールがあり、その両面にギターとベースが陳列して掛けられている。更に東西両側の壁は一面収納棚と本棚だ。
「ハイハットの横にリズムマシンあるからそれ使っていいよ。俺隣で仕事してるからドラム自由に叩いて。これから俺が作曲で使う時以外はここ使っていいから」
「わかった」
僕は隣接する執務室へ出ようとした。すると千紗に呼び止められた。
「先生」
「ん?」
「ありがとな」
僕は笑顔を返しスタジオの扉を閉めた。恐らく作り笑いではない自然に出た笑顔だったはずだ。自分で思う、不思議だ、と。僕はしばらくデスクで自分の仕事に集中した。
仕事を終えてふと時計を見ると二十三時に差し掛かっていた。アトリエで仕事を始めてから三時間近くになる。ふと千紗のことを思い出した。僕は立ち上がりスタジオの扉を開けた。
ドラムのビートが執務室にこだまする。バスドラの低音がみぞおちに響く。僕は中に入るとすぐに扉を閉めたのだが、その時僕の入室に気づいた千紗の手が止まった。
「あ、もうあかん? 先生スタジオ使う?」
千紗はリズムマシンに繋いだヘッドフォンで顔を挟まれている。顔が小さな千紗は耳に当てたヘッドフォンのスピーカーの方が目立つ。僕は千紗の様子を見に来ただけだったので特に言葉が浮かばない。
「なぁ、先生?」
「ん?」
「前から先生の作曲のやり方興味あってん。邪魔せぇへんから先生の曲作り隣で見ててもええ?」
なるほど。曲作りを人に見せるのも育成の一つかもしれない。考えたことがなかった。今まで我流でずっと一人で作ってきた僕には新しい感覚だ。千紗はハーレムの作曲を担当しているし少しでも参考になればいい。
僕は「いいよ」と快諾するとデスクのある二段上がりのステージに千紗を上げた。二脚ある椅子のうちの一つに千紗を座らせ僕はエレキギターを取り出した。僕が手にしたフェンダーのストラトキャスターはボディーもピックガードも黒で僕の一番の愛用品である。
僕はもう一脚に座るとエレキギターを鳴らした。コードを組み、メロディーを並べる。時々録音をして、マメにスコアを付ける。スコアを付けるとは楽譜のメモを取るという意味だ。そうして曲を作っていく。メロディーは口ずさみながら作るが、一曲できるとギターのコードに乗せてキーボードでメロディーを吹き込む。それを録音したものがデモ音源となる。
しばらくして一曲ができあがると僕は録り終えたギターのコードにキーボードでメロディーを吹き込もうとした。するとずっと横で黙っていた千紗が言った。
「メロディー入れるんならうちがキーボード弾こか? もう音覚えたし」
「もう覚えたの?」
「うん、こうやろ」
そう言うと千紗は鍵盤に指を置いて今僕が作ったばかりのメロディーを弾き始めた。それを聴いているとさすがだなと思う。ピアノの経験者なだけあって音感がしっかりしているし滑らかに弾きこなす。
僕は鍵盤楽器が苦手だ。まず両手で弾けない。せいぜい自分が口にしたメロディーの音を探して単音で弾くだけだ。
「頼むわ」
千紗の演奏を聴いた僕は迷わずお願いした。商品ではないデモ音源とは言え千紗が弾いた方が綺麗だ。そうして一曲を完成させた。
更にもう一曲作り始め千紗の協力を経てこの二曲目も完成した。実に順調である。気づけばもう夜中の一時だ。……が、しかし時間を知って焦った。
「千紗明日の予定は?」
「先生はオフやで。オフと言うかアポがないだけやからここで仕事すんのやろうけど」
「俺じゃなくて千紗の予定」
「あぁ、うちは明日午後仕事が入ってんで。二時に都心に集合や」
安堵した。もし朝からだったら早く休ませてあげなくてはいけない。体調管理もプロの務めだ。そんなことを考えていると徐に千紗が質問を向けてきた。
「先生って詞は書かんの?」
「うん、書いたことない」
「なんで? 小説書いてんねんから作詞の方が得意そうやん」
なんで? と聞かれても回答に困る。書こうと思ったことがない。単純に興味がない。
「好きな人のこと書いたらええやん。おんのやろ。想ってる気持ちをそのまま。今できた二曲目なんてラブソングのイメージやけど」
「うぅん、別にいいや」
「ふぅん」
千紗が残念そうに僕を見る。千紗がじっと見るものだから僕は椅子を回転させ、体の向きを変えるのに合わせて千紗から目を逸らした。
「先生の好きな人ってどんな人? って言うか、ぶっちゃけ誰? うちも知ってる人?」
上京してきたばかりの僕と千紗の共通の知人と言ったら数は限られるだろうに。千紗から視線は逸らしたが、声から興味深々という感情が読み取れる。
「千紗が自分のこと話すなら話す」
「それはできん」
「じゃぁ俺も内緒」
僕はそう言うと立ち上がった。
「えぇ、なんでぇ? 別にええやん。教えてや」
僕は千紗の質問に答えずスタジオを出ようとステージを下りた。すると千紗が追いかけてきてステージから飛んだのを背中に受ける衝撃で感じた。僕の首に腕を回し体重をかける千紗の柔らかいものも背中に感じるのだが。千紗ほど可愛い女の子にこんなことをされては世の男から羨ましがられるだろう。
けど僕は平静を装って千紗を引き摺るように歩いた。そしてスタジオの扉を開けた。
「ええやん。教えて。先生の好きな人って誰なん?」
背中で千紗の声を感じながら執務室に出た僕は固まった。僕のその様子を感じた千紗が僕から離れた。
「どないしたん?」
千紗が回り込んで僕の顔を覗く。そして千紗は僕の視線の先を見た。
「あ……」
千紗は執務室の応接ソファーにいる人物を捉えると手を口元に当て目を丸くした。
「よ。仲いいんだな。お邪魔だったか?」
そこには缶ビールを片手にソファーで寛ぐ哲平がいた。哲平は缶を持つ手と反対側の手を僕達に向けて上げていた。
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