序曲~翼~ 第五話
僕は千紗と一緒に時間に余裕を持って事務所に着いたのだが、これも起こしてくれた千紗のおかげである。
事務所ビルの扉を開けるとエレベーターを待つ
「あ、雄太おはよう」
「おう、タスク。おっす」
「おはようございます」
「おはようございます」
僕と雄太の後に続いたのは千紗の挨拶だった。それに雄太が応えたのだが、この様子を見る限り千紗は雄太と初対面のようだ。
「それじゃぁ先生。うち二階なんで階段で行きます」
「うん、それじゃ」
千紗は人の前では僕に対して他人行儀を崩さない。愛想のいい挨拶をすると階段室に消えたので、それを見送って僕は雄太の隣に並びエレベーターを待っていたのだが、雄太が締まりのない顔を僕に向ける。
「今のってハーレムのメンバー?」
「そう」
「めっちゃ可愛いじゃん。あれが噂のボーカルの李奈?」
「いや、ドラムの千紗」
僕はエレベーターの階数表示を見上げながら答えたのだが、頭上に疑問符が浮かんだ。噂とは何だ?
「メンバーみんな可愛いって聞いてたけど李奈は特別可愛いって聞いてるぞ。千紗であのレベルなら李奈ってどんだけだよ?」
いやいや、それはどこからの情報だよ。確かに李奈や千紗が可愛いのは認めるが。もちろん沙織と優奈も。雄太は相変わらず女好きでお調子者だ。つまりチャラい。
僕は止まったままのエレベーターの階数表示を眺めながら話題を変えた。
「遅いな。四階で止まってる?」
「さっきカズが自分のドラムセット運んでたからな。荷卸ししてんじゃね?」
カズとはサバハリのドラムで
「なぁなぁ、それより今度ハーレムのメンバーと飲み会組んでよ?」
「メンバーみんな十八歳」
「じゃぁ合コン」
「雄太!」
突然、僕達の会話に割り込む女声。雄太を咎めるように呼んだこの声の主は
「何タスクに合コンのセッティング頼んでんのよ」
「いてててて。ごめん、なんかの冗談だって」
雄太は真紀に耳を引っ張られ顔を歪めているのだが、その様子が滑稽であるととも僕からは苦笑いしか出ない。
「タスクおはよう」
「おはよう」
真紀は僕に向くと挨拶をしてくれた。手は雄太の耳を掴んだままなので雄太が痛々しい。
彼女はサバハリのキーボードで雄太の交際相手だ。僕の二歳年下である。プライドが高く融通が利かないが、良く言えば凛としている。
「事務所出たらなんか声が聞こえるなと思って下りて来てみたら、油断も隙も無い。タスクもこんな話まともに付き合わないでね」
言われなくてももちろんそのつもりだ。万が一真剣に雄太の話に付き合った日には僕が真紀から何をされるか恐ろしくなる。命がいくつあっても足りないのだ。
それに声が聞こえたのではなく、真紀は二階で千紗とすれ違って、一階で千紗を目にしたのであろう雄太が追いかけて来ないか心配で下りて来たのだ。恐らくこの二人は一緒に来ていた。雄太はかなり前からなかなか動かないエレベーターをこの場で待っていた。あくまで僕の憶測だが。
そうしているとやっとエレベーターが到着した。僕たちは三人で乗り込みレコーディングスタジオがある四階で降りた。そしてレコーディングスタジオとは反対側にあるミーティングルームに入った。
中にはギターの
「おはよう」
僕は室内にいたメンバーに挨拶をした。
牛島はハーレムとこのサバハリのマネージャーを掛け持ちしている。他にも担当のタレントがいるらしく、体がもたないから早く葵を招聘してくれといつも嘆いている。残念だが彼女はまだ名古屋の大学に通う学生だ。
牛島はこの後ハーレムの付き添いがあると言ってすぐに退室した。
弦輝は僕と同い年で僕が脱退した後に加入したメンバーである。名古屋で活動していた時に他のバンドで活動していた弦輝と知り合った。僕が事務所への出資に合わせて脱退を決めた頃、弦輝は特定のバンドに所属しておらずフリーだった。腕は確かなのでメンバーみんなで誘ったのだ。非常に落ち着いた性格をしていて頭の回転が速い。
哲平はサバハリのリーダーである。彼も僕と同い年だ。ノリが良く活発な性格をしている。僕は中学生の時にこの哲平の影響でベースを始めた。
僕の父は趣味でジャズバンドを組んでいてギターを弾いていた。僕の実家の前をたまたま通った当時中学一年の哲平はギターを運び込む父を見たのだが、その時哲平はギターを始めたばかりだったので僕に興味を持ち、その翌日学校で話し掛けてきた。
当時僕は絶賛引きこもり中だった。とは言え登校拒否ではなく学校には行っていたのだが。ただ所属していた部活には顔を出さず、授業が終わると毎日真っすぐに帰宅していて、自室に籠り本を読み、洋楽のロックを聴き、国内リーグや日本代表のサッカーの試合をテレビ観戦したりなど、人との付き合いを拒んでいた。
僕は小学生の頃から周囲とノリが合わないと感じることが多かった。それは日に日に大きくなりいつしか友達との接触を拒むようになった。今では列記とした人間嫌いである。
しかし哲平はそんな僕に学校で声を掛けてきた。一緒にバンドを組もう、と。最初は、僕みたいな奴に声を掛けてきてこいつ物好きか? と思った。だから僕は哲平に取り合わなかった。しかし哲平は毎日のように声を掛けてきた。
ある日僕は父に相談した。ギターをやっている同級生が僕にバンドをやろうとしつこいのだと。僕は迷惑を相談したつもりだったのに、その時の父の嬉しそうな顔は今でも忘れない。
コミュ障の僕を心配していた父は舞い上がり、数日後には知り合いに安く譲ってもらったとか言ってフェンダーのジャズベースを持って帰ってきた。三年後に知ったのだが、このベースはヴィンテージ物で時価数十万円だそうだ。更に父が使い古した安物のエレキギターもこの時もらった。
もらってすぐに僕は学校で哲平に声を掛けた。哲平は僕の父との話の経緯を喜んだ。僕はその時はまだ渋々だったのだが、一応軽音楽をやるつもりにはなっていた。
最初の話題は僕がギターとベースのどちらをやるのかであった。ツインギターでバンドを組むのかベースとギターでバンドを組むのか。僕の答えは単純だった。
「弦が四本のベースの方が簡単そう」
である。実際やってみるとベースは極めようとすればするほど奥が深く、今にして思えば本当に浅はかな考えだったと思う。
けど、哲平に置いていかれたくなくて僕は必至でベースの練習をした。高校に入るとギターも触るようになり作曲も始めた。そして哲平と何組かのバンドを経験し、高校三年の時にサバハリの原型ができた。
哲平と一緒に音楽をやってきたおかげで多少コミュ障が改善された。結局今はフリーの仕事を選んだものの、それでも音楽を聴くだけのものからやるものにも変えてくれ哲平と父には感謝をしている。
数分後。
バタバタと慌ただしい足音とともにドアを開けたのはカズだ。
「セーフ」
「三分遅刻だよ」
定刻を過ぎて入室してきたカズの言葉を真紀が折った。
カズは一言で言うとやんちゃである。気性が荒く、気が短い。しかしドラムの腕は繊細だ。一緒に演奏をしていた時はリズム隊として多大な信頼を置いていた。
「搬入に手間取ったんだよ。それに事務員の説教が長げぇし。余裕もって事務所には来てたんだからいいだろ」
「カズ座れ。始めるぞ」
哲平が優しく笑ってカズに言うと、カズがそれに従い、この日のミーティングが始まった。
ミーティングの議題は新しいアルバムの選曲だ。僕が作曲した曲も数曲候補に入っているため僕もこのミーティングに呼ばれたわけだ。哲平がサバハリのプロデューサーで僕が哲平のアシスタントという立場もある。
僕の脱退後はほとんどの曲を哲平が作っている。他の一部の曲が僕の作曲だ。作詞は雄太が全曲担当している。
そして四十分後。
「それじゃぁこの十二曲で決定」
哲平がそう言うとこの日のミーティングは終った。僕と哲平は選曲したリストを牛島に渡すために事務所へ下りたのだが、これが面倒ながらも僕はアシスタントなのでこれも仕事だから仕方がない。
他のメンバーは先にレコーディングスタジオに向かうが、スタジオには手伝いをしてくれるローディーがいるためセッティングは進んでいるようだ。
僕と哲平が事務所に入ると、事務所のエントランスにある打ち合わせテーブルから牛島とハーレムのメンバーがちょうど立ち上がったところだった。
「はい、リスト」
「ちょうど今から出ようとしてたところなんだよ。いるうちに持ってきてくれて助かる。先生もご苦労様です」
「いや」
哲平が牛島にリストを手渡したのだが、それよりも牛島のこの僕だけに対する敬語はどうにかならないものか。社員という立場上仕方がないのだろうが。
「先に車行ってて」
牛島はハーレムのメンバーにそう言うとリストを上司の下へ届けに行った。ハーレムのメンバーは僕と哲平の脇を抜け事務所を出たのだが、すれ違う時に千紗が僕に向かって笑顔を向け小さく手を振った。
「仲いいんだな」
「ん、まぁ」
その様子を見ていた哲平が言うので、僕は否定をしなかった。
この後僕は哲平と一緒にレコーディングスタジオに入ると、スタジオ内ではカズがドラムのレコーディングを始めるところだった。アルバムリスト十二曲のうち半数以上はすでにアレンジまで済んでいる。
基本的に一発で録らない限りレコーディングはドラムから始める。その時曲の進行がわかるようにギターやキーボードが伴奏を個室で鳴らす。この時はサイドギターも担当する雄太とキーボードの真紀が二室ある個室にそれぞれ入っていた。
数分後、カズのドラムのレコーディングが終わると今度は弦輝が演奏スタジオに入った。弦輝はカズのビートに合わせてベースを弾く。
弦輝が加入した当初、僕は弦輝よりベースのスキルが高いと自負していた。しかし今こうして弦輝の演奏を聴いているとベースラインの組み方も技術もとっくに追い越されたと痛感してしまう。
僕はフリーの作曲家になってからギターを触っている時間の方が長い。アレンジもするので今でもよくベースには触る。しかし弦輝ほどではないはずだ。
サバハリがメジャーデビューしてからの二年間僕は大学の勉強も怠らなかった。小説も書いたし投資家としての仕事もしていた。追い越されるのは無理もない。けどこのもやもやした気持ちは何なのだろうか。何か込み上げてくるものがある。
弦輝はミスなく一度で録り終え、スタジオからコントロールルームに戻って来た。満足げな笑みを浮かべている。僕は作り笑いを浮かべて弦輝を迎え入れた。
僕の作り笑いは社会に出るにあたって大変重宝している。もし中学の時に哲平が声を掛けてくれなければ僕は人との交わりを避け、完全に社会不適合者になっていただろう。しかし人間嫌いながらもバンドを組んだおかげで人と交わることになった僕は、うまく立ち回るために作り笑いのスキルを身に着けた。
人より社会に出ることが早かった僕には、そして人間嫌いの僕には作り笑いはなくてはならないものとなった。執筆では出版社の人間と関わり、株式投資では証券会社の人間や社会的地位のある人間と関わり、不動産投資では不動産業者と関わり、そして今は音楽芸能業界の人間と仕事をしている。
どれだけ人間嫌いでも、どれだけフリーランスであると強がっても、社会とは一人で生きていけるものではない。これが現実である。
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