序曲~翼~ 第四話

 春眠暁を覚えず、とはよく言ったものだ。四月に入り春の心地よい眠りの中朝を迎える。けど僕は目覚める意思がない。


「先生おはよう、起きて」


 千紗の声が聞こえる。僕は重い瞼を少しだけ開けた。


「うおっ」


 瞬間ベッドの上で飛びのいてしまった。千紗は床に膝をつきベッドに顔を乗り出していた。お互いの顔の距離は数センチだ。……近い。

 僕は寝返りを打って千紗に背を向けた。すると今度は掛布団越しに上から重力を感じる。


「さっさと起きぃや」


 千紗が僕の腰にまたがり頭をぐちゃぐちゃにするので、眠気の真っただ中にいる僕にはそれが鬱陶しい。


「わかった、起きる、起きるから」


 僕はまだ覚め切らない頭を活動させしっかりと目を開ける。見上げるとそこには僕を見下ろす美少女が。千紗はなんだかんだ言って可愛いと思う。僕の目覚めを確認すると千紗が僕から離れた。


「朝ごはん作ったからうちの部屋来てや」


 東京での生活が始まって三週目。千紗は僕の部屋の合鍵を持っている。千紗は僕の部屋でしか煙草を吸わないので、僕が部屋にいない時でも自由に出入りして煙草を吸えるように合鍵を渡したのだ。千紗の部屋の合鍵は事務所が持っているので僕はもらっていない。

 千紗の部屋は僕の部屋に負けず劣らず殺風景だ。必用最低限の家具と家電、カーテンも地味なもの。特徴と言えば鍵盤楽器のキーボードが置いてあることくらいだ。


 僕は千紗の部屋の中央に置かれたローテーブルの前に座った。目の前には千紗が作った朝ごはんが並べられている。


「いただきます」


 僕は千紗が作った卵焼きを口にした。卵の食感とともに絶妙な出汁の風味が口いっぱいに広がる。


「うまい」

「やろ」


 千紗がどや顔で言う。千紗の手料理は朝食でしか食べたことがないが、千紗は料理が上手いと思う。僕は茶碗に盛られたご飯をかき込んだ。


「あんな起こし方したらいつか襲われるぞ」

「事務所の所属アーティスト襲うん?」


 僕は口の中の物を咀嚼すると千紗を諭したのだが、あまりこの美少女には堪えないらしい。しかし僕も負けじと応戦する。


「俺事務所の人間じゃないし」

「ふぅん。うちは先生のこと信頼してんねんけどな」

「左様ですか」

「それにうち襲ったら強姦に加えてもれなく傷害も付いてくんで」

「ん?」

「処女やもん」

「ゴホッ!」


 啜っていた味噌汁を噴きそうになった。いや、口から噴かなかっただけで、喉から閉じられた口の中では噴いた。そんなこと聞いてもいないのに。


「彼氏いたことないのかよ」

「ない。うち好きな人おるもん」

「へぇ、どんな人?」

「内緒や」

「ちぇ」


 容姿に恵まれた千紗だが、彼氏がいたことがないとは意外であった。今は芸能人の端くれでもあるわけで、一般人の高校生の時なんかはモテたたのではないかと予想するのだが。

 ただ好きな人がいると聞いて、やはり年頃の女の子だなと納得もする。


「先生は彼女おらんの?」

「うん、いない。俺も心に決めた人いるから」

「へぇ、そうなんや。片思いなん?」

「わかんない。けど距離を縮めるのは今じゃない人」

「ふぅん、うちと一緒やな」


 千紗が笑みを浮かべて味噌汁を啜る。一緒とはどういうことだろうか。どうせ聞いたところで答えてはもらえないと思うので、僕は話題を変える。


「なんで今日は早く起こされたんだっけ?」

「あのなぁ、ええ加減自分のスケジュールくらい把握しぃや。グーグルカレンダーに書くだけしっかり書いとるやん。せっかく書いてんねんからちゃんと見ぃや」

「へぇい」


 咎められた僕はお道化た声で返すのだが、それを千紗の綺麗な瞳がキリッと僕を見据える。


「今日は九時からサバハリのニューアルバムの打ち合わせ。十時から昼を跨いでサバハリのレコーディング。十五時から事務所の役員会議。十七時から十九時までハーレムのバンド指導。今日は一日事務所に拘束や」


 君は僕の秘書かよ。完璧に僕の一日のスケジュールを把握しているじゃないか。


 千紗は僕のグーグルカレンダーをフォローしている。僕はそれを承認した。すると僕の予定を確認できるようになった千紗は朝が早い日に起こしてくれるようになり、更には朝食まで用意してくれる。

 昨日はアトリエで夜中まで曲作りをしていたので、千紗に起こしてもらっていなければ確実に寝坊していた。ありがたい。


「なんで俺が役員会議に出なきゃいけないんだよ」

「知らんわ。完全に役員扱いされとるんとちゃうん?」


 そうかもしれない。僕は役員が管理職を呼んで行う会議に僕は呼ばれているのだが、外部の人間なのにと愚痴を抱く。うまいことサバハリとハーレムの予定に挟まれて事務所から逃げられないようになっている。牛島、恨む。


「俺を起こすために千紗も早起きしたの?」

「うちも今日は九時に事務所集合やねん。そっからみんなでCDショップ行ってデビューシングルの告知回り。せやから事務所まで一緒に行こ?」

「うん、わかった」

「うわぁ、リプいっぱい溜まっとる。返さな」


 千紗がふと声を上げた。スマートフォンでツイッターを見ている。千紗は新人アーティストなのでツイッターやブログに力を入れている。どんどん名前を売るためにまめにSNSを活用しているのだ。SNSはいい。人付き合いが苦手な僕にはちょうどいい社交場だ。


「先生って元サバハリで作曲やプロデュースで有名人やけど、公に顔出さんよな。ツイッターも顔ぼかしとるし」

「うん。目立つのが苦手なんだよ」

「そうなん? サバハリの時ライブはどうしてたん?」

「ライブはお祭りみたいって言うか、箱の中のあの一体感が好きだったわけで」


 一見矛盾した意見だと自覚しているのだが、本音であるのだからどうしようもない。


「なんかそれわかる」

「けどジャケ写はなるべく顔がはっきり映らないようにしてたし。出してる本も顔写真はなるべく断ってる」

「だから覆面作曲家って言われんねん」

「まぁ……」


 そう、覆面作曲家とは僕の巷での通称のようなものである。サバハリのメンバーだった時にライブのステージには立っていたので百パーセント顔を隠しきれているわけではない。ステージでの演奏は好きだったし、無理に隠そうとしているわけでもない。けどメディア活動は苦手だ。


 朝食を終えた僕は一旦自分の部屋に戻り身支度を済ませると時間を合わせて千紗と一緒にマンションを出た。


「先生こっち通って行こ?」


 千紗はいつも駅に向かう道とは違う方向を指さしたので、僕は何があるのだろうと疑問を抱いた。


「川沿いの桜が満開やねん」

「へぇ、そうなんだ」


 それに僕は興味を示したので、時間に余裕を持って家を出たため僕は千紗の誘いに乗り、少し遠回りをして駅に向かうことにしたのだ。


 僕たちはマンションを出てからすぐに川沿いの遊歩道に差し掛かった。ここは駅への抜け道として利用する人が多いらしい。立地上僕と千紗が住んでいるマンションからは大通りを歩いた方が駅までは近い。この時まで僕はこの遊歩道の存在を知らなかった。


 川沿いの桜は見事に満開の花を咲かせていて、土手には花見の場所取りのためのシートがいくらか敷いてある。今日は金曜日なので今日の夜から花見客で賑わうのだろうか。

 この日千紗は膝が見える丈のスカートと、体のラインがわかるシャツをインナーに、ジャケットを羽織っていた。細い脚とウェストに、程よい大きさの胸。こうして見ていると千紗は美少女と言えるだけの容姿に加えて恵まれたスタイルである。桜と一緒につい見惚れてしまう。


「日本人ってほんまに桜好きやよな」

「確かに」

「うちも典型的な日本人や」

「ミーハーとも言う」

「その言い方……可愛くない。風情ないなぁ」

「そりゃ失礼」


 川沿いの遊歩道は心地よい春風が吹く。時折吹く強い風は肌寒さすらも感じる。


 気持ちのいい朝の散歩はあっという間で僕たちは間もなく駅に着いた。改札を抜けてホームへ上がると千紗は迷いもなく僕がいてはいけないであろう場所で電車を待とうとした。


「ちょ、千紗? ここって女性専用車両の乗り口じゃ?」

「ん? あ、そや。ついいつもの癖で。うち高校の時電車通学で、よく痴漢にうててん。せやからこの時間帯は女性専用車両に乗るんが癖になってた」


 千紗のスタイルなら納得だ。男心に痴漢の心理は理解できる。もちろん僕は痴漢などしたことはないが。


 乗り口を移動すると程なくして電車がホームに入ってきた。通勤ラッシュのピークで電車に乗り込むと満員である。


 一駅目に到着し、僕は人が降りる流れに乗って千紗の手を引くと、千紗を閉まっている側のドアまで誘導した。千紗はドアに背中を預ける。千紗を正面に見て、千紗の頭越しに車窓の風景が見える。背中からは人の圧力を感じる。

 僕はドアに腕を伸ばし千紗にストレスが掛からない程度のスペースを作った。けど背中の圧力は凄まじい。千紗に体重をかけることはせずに済んだが、千紗と緩く密着する。千紗は俯いていて額を僕の胸に預けるような体勢だ。


 車内は都心に近づくごとに人が少なくなっていく。乗る客はベッドタウンの備糸市内がピークのようで、僕は徐々に余裕を持って立てるようになっていた。千紗は俯いている時間が長い。髪の隙間から微かに覗く千紗の耳は少し赤くなっているようなのだが、先ほどまでの人口密度で体温が上がってしまったのだろうか。


 僕たちは事務所の最寄り駅で電車を降りた。ふと千紗を見てみるとまだ俯いていて、心なしか顔も赤いようだ。本当に体調を崩したなどとあっては、デビューを目前に控えたこの時期に心配だ。


「どうした? 体調悪くなった?」

「……」

「千紗?」

「たまには格好ええやん」

「え?」


 千紗はぼそっと呟くと早歩きで改札を抜けて行った。僕は慌てて千紗を追った。


 翼さんへ

 お手紙ありがとうございます。私は相変わらずです。

 今日うちの近所の桜が満開でした。平日なのに夜はお花見客で賑わっています。キャンパスの桜も満開で大阪にも春が来たんだなって感じます。

 クラブの方は新人が増えてチーム内の競争が活発になっています。新チームで新人に負けないよう私も日々精進します。

 それではお体に気を付けて。百花より


 百花さんへ

 桜いいですね。僕も先日見てきたばかりです。名古屋も満開でした。

 新人が入ると競争があって大変ですね。僕の方は指導だけなのでまだマシかもしれません。それでも人にものを教えるというのは大変です。

 日々忙しく辛いこともありますが、百花さんとの手紙のやりとりは僕にとっての楽しみです。百花さんの活躍を変わらず応援します。

 翼より

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