序曲~翼~ 第三話
家から歩いて十分ほど、駅の方向へ向かい、左折すれば駅へ通じる大通りを直進し、僕は十五階建てのテナントビルに入った。
エレベーターで十一階まで上がるとエントランスの両脇に一軒ずつテナントがある。僕は右手のテナントの鍵を開けた。ガラスドアには「Atelier Wing」と記されている。ここは僕個人のアトリエ、つまり仕事場である。
扉を開けると玄関がありその先に執務室が広がる。更に奥には音楽スタジオがある。執務室と音楽スタジオはそれぞれ五十平米ほどで、合わせてアトリエは百平米ほどになる。僕の肩書は小説家、投資家、作曲家だ。投資家以外の肩書から先生と呼ばれる。
中学生の時に書いた小説が新人賞を獲り、その時の賞金で高校生の時に株を始めた。これが順調で手を広げ、現在では不動産投資も行い、小さな賃貸マンションも持っている。そして高校生の時に組んだサバハリで作曲を始め、これが大学生になって評価されるようになり、作曲の仕事も始めた。サバハリをはじめ数組のアーティストに曲を提供した経験がある。
僕の活動名は「TASUKU」だ。
執務室には幅一・八メートルのデスクを二台L型に配置して、デスクトップのパソコンが二台とノートパソコンを一台置いてある。ここで株投資と執筆を行う。デスクの正面には四人掛けのPCテーブルを設置した。PCテーブルだが目的は書類を広げられるためのものであってパソコンは置いていない。その先には玄関正面に応接セットが置いてある。
デスクの右手は完全防音室の音楽スタジオだ。L字の脇机とその上に置いた二台のデスクトップパソコンがスタジオの入り口に向かい合わせで平行に向いている。スタジオの中にはパソコンが一台とPA機器や録音機器を設置してた。ギターアンプとベースアンプ、キーボード、ドラムセットが置いてありギター、ベースの本体もそれぞれ数本ある。
このアトリエを用意するのに多額の金が掛かった。テナントを借りる初期費用に防音工事や機材を揃えたりする設備費用だ。当初は土地を買って同一敷地内に自宅とアトリエを建てたかった。若しくは自宅兼アトリエを建てたかった。しかし二年前の芸能事務所への出資で資金がなくなってしまった。
出資後再び金を貯めた。株の配当や家賃収入、執筆と楽曲の印税。僕は管理職のサラリーマンの一般的な収入よりはいい金額を手にしている。その貯金をはたいてこのアトリエを作ったわけだが、おかげで住居に金が掛けられず1Kの安いマンション暮らしとなったわけである。
昨日東京に引っ越しして来たばかりの僕はこの日が初仕事だ。僕は早速デスクで仕事を始めると、株の動向をチェックし、締め切りが近い連載の執筆を進めた。
集中して仕事をしていると外はすっかり暗くなっていた。時計を見るとすでに二十時。昼過ぎにこのアトリエに来て煙草も吸わずによくこんな時間まで集中していたものだ。僕は主要な電源を全て落としアトリエを出た。
徒歩で部屋に帰ると僕は勢いよくベッドに腰を下ろした。さすがに疲れた。家電の揃ったこの狭い部屋に家具はテレビ台とベッドと洋服収納くらいしかない。見事に殺風景な部屋である。
しばらくベッドに座り何も考えないでいるとインターフォンが鳴った。昨日のうちに少ない荷物は解いていて、今日はモニターが見られる。するとそこに映っていたのは千紗だったので、僕はインターフォンには出ず玄関まで行きドアを開けた。
「こんばんは」
「どうしたの?」
「先生帰って来たのがわかったからコンビニに誘おう思て来てみた」
「コンビニに?」
このマンションはベランダの蹴破り戸の隙間から隣の部屋の明かりが漏れるようだ。それで千紗は僕の帰宅に気づいたのだろう。
「あの、お金は出すんで――」
「あ、煙草?」
「正解。先生代わりに
千紗は物をねだる子供のような笑みを浮かべて言う。まだデビュー前とは言え今のうちからスキャンダルに気を使うのはいいことである。喫煙自体はいいことではないが。僕もちょうどビールを飲みたいと思っていた。冷蔵庫は搬入されたばかりで中身はまだ冷えていない。
「いいよ。行こうか」
「やった」
千紗の声が弾んだ。無垢な笑顔である。
マンションを出た僕と千紗は並んでコンビニに向かって歩いた。最寄りのコンビニまでは五分ほどである。
「先生事務所の役員やのに質素な部屋に住むんですね?」
「俺役員じゃないよ」
「ちゃうんですか?」
「うん。役員だったら俺の前で煙草吸うのもまずいでしょ?」
「あ、そや」
千紗は罰が悪そうに笑った。けどそれが愛らしい笑顔でもある。
「俺は株主だけど直接経営には携わってない。家賃も自腹だし、契約も自分の名義だし。部屋を探してくれたのは事務所だけど」
「そうなんや。それでももっと広いとこ住んでるイメージでした」
「アトリエに金使っちゃったから金ないんだよ」
「アトリエ?」
千紗がきょとんとした表情を向ける。確かにいきなり「アトリエ」と言われても理解できないかと納得する。
「うん。俺の仕事場。作曲するための防音スタジオもあるし」
「スタジオ? 見てみたい!」
「いいよ。今度時間があったらね」
そう話しているうちに僕たちはコンビニに着き、僕は真っ直ぐに酒のショーケースに向かい六本セットの缶ビールを取り出した。
「千紗、銘柄は?」
「クールワンカートン」
こうして会計を済ませ僕たちはコンビニを出たのだ。
「先生って部屋で煙草吸うてます?」
「うん」
「うち先生の部屋行って煙草吸うてもええですか?」
「俺の部屋?」
「はい。牛島さんがちょくちょくメンバーの部屋見に来る言うんです。男が入った形跡がないかとか、うちの場合は煙草のチェックも」
合点がいった。千紗の煙草に直接口を出したのは牛島か。それで千紗は牛島の監視を逃れたいわけだ。
「あいつ厳しいんだな」
「そうなんですよ。だから臭いでばれてまうんです」
「そういうこと。わかった、いいよ」
「やった」
こんな話の流れで千紗はコンビニから真っ直ぐうちに来たのだ。
「はいこれ」
部屋に入ると千紗は五千円札を渡してきたので、煙草の代金だと思い僕はお釣りを出そうと財布を開けたのだが、それを千紗が声で制した。
「あ、お釣りええです」
「なんで?」
「その代わりビールも下さい」
「ぷっ」
僕は噴き出してしまった。煙草はともかくまさか十八歳の女の子にビールまでねだられるとは思ってもいなかったのだ。
僕は千紗と部屋でビールを開けた。途中千紗が自分の部屋からするめやジャーキーを持って来たのだが、完全におっさんの味覚である。僕たちは小一時間ほどで六本の缶ビールを開けてしまった。
「追加の買い出し行きます?」
「焼酎でいいならボトルであるけど?」
「飲ませて下さい」
床に座っていた千紗は土下座の真似ごとをするように頭を下げた。面白い女の子である。昨日出会ったばかりの子にここまで僕が心を開いたのも珍しい。酒のせいだろうか、千紗の人間性だろうか。
僕は焼酎のボトルを取り出し水で割って千紗と飲み始めた。
「先生はなんでサバハリ脱退したん?」
しばらく飲んでいると千紗は少し酒が回ってきたのだろうか敬語がなくなった。僕は体育会系でもないので千紗の言葉遣いを特に気にしない。
「事務所の出資者がメンバーにいると気を使っちゃうでしょ?」
これはいつも人に説明をする時の建前だ。
僕は人間嫌いである。サバハリのメンバーは葵を含め僕が人生で心を開いた数少ない仲間である。それでも僕は群れることが嫌いだ。だから一人でできる今の仕事を好み、バンドを脱退して、会社役員の打診を断っている。これが本音だ。そしてこのことは口には出さなかった。
「ふぅん。うちにはようわからん」
確かに会社経営に関することは高校を卒業したばかりの千紗には難しいのだろう。ローテブルの上に置いた灰皿の上で火の点いた煙草が二本煙を上げている。
「先生これから毎週うちらのバンド指導してくれるんやてな?」
「うん。ライブとかの予定がない金曜日かな。その時に曲作りの指導もするから」
「よろしくお願いします」
千紗が畏まって言う。
ハーレムの楽曲は李奈が作詞をし、千紗が作曲をしている。当初ドラマーの千紗が作曲をしていることに意外であったが、マネージャーの牛島によくよく話を聞いてみると、千紗はピアノの経験者で鍵盤楽器が弾けるらしい。キーボードで作曲をしているそうだ。
鍵盤楽器で作曲をするだけあって千紗の曲はポップでメロディアスである。しかしハーレムは勢いがあってハードなアレンジをするのでそのギャップが面白い。来月発売のデビュー曲からは彼女たちの楽曲のアレンジを僕が担っている。彼女たちの良さを消さないテクニカルな楽曲になっていて自信作だ。
夜も更けると千紗は自分の部屋に帰って行った。足取りはしっかりしていたので酔いは大丈夫だろう。
片付けもしっかりしてくれたので千紗がいなくなったこの部屋は、酒の席の後ではあるものの特に散らかってはいない。
僕は箪笥の上段から缶の箱と便箋を取り出した。箱の中には昨日真っ先に荷解きをした数十通の手紙が入っている。箱は荷解きの途中に出てきたものを利用した。僕はその中から一番最近届いた手紙を取り出すと、内容を読み返し返事を書き始めた。
百花さんへ
お元気ですか? 三月も中旬でまもなく新しい季節が訪れます。
今日、四月から入社する後輩が事務所に挨拶に来ました。僕にとっては初めての後輩です。僕は何事にも融通が利かない性格なので優しく指導していけるか心配です。とは言え可愛い後輩になってくれればと期待している自分もいます。
四月から新しい仕事も始まりそうです。不安もありますが、ワクワクする気持ちの方が強く楽しみです。夢への一歩として、また夢への通過点として変わらず頑張っていきます。
それでは、翼より
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