序曲~翼~ 第二話
引っ越しの翌朝、僕は都心をぎりぎり外れた場所にある四階建てのビルの前に立っていた。ここは僕が出資した芸能事務所の事務所ビルで、一階に倉庫と搬入口、二階に事務所、三階に音楽スタジオ、四階にレコーディングスタジオがある。
僕は2階の事務所にいた社員たちと軽く挨拶を交わすとそのまま事務所を抜け、社長室の前に立った。そしてドアをノックした。
「どうぞ」
中から女社長の声が聞こえる。僕はその声を確認してからドアを開けた。
「先生。おはようございます」
この会社の代表である
天野社長は三十二歳になる年齢だが美人で色気がある。キャリアウーマンという言葉が相応しく、スーツを見事に着こなした天野社長は艶やかな笑顔を僕に向けた。
この日はもう一人先客がいた。非常勤の
「先生、おはようございます」
「おはようございます」
僕は緊張を隠しながらも二人に挨拶を返したのだが、緊張の理由は貫録と身分のある目の前の二人に、大学を卒業したばかりの若年の僕が先生と呼ばれるのも些か恐縮だからである。
僕は大学時代サバイバルハリケーンという軽音楽のバンドを組んでいて、ベースを担当していた。サバハリという愛称で当時の活動地である名古屋で人気と知名度が上がり、このサバイバル芸能の前身のイーグル芸能からメジャーデビューの打診を受けた。大学二年の時だ。当時の最年少メンバーが高校三年だったためそのメンバーの高校卒業に合わせてメジャーデビューの話が進んでいた。
しかしスキャンダルが起きた。当時イーグル芸能の稼ぎ頭だった女性タレントが不倫騒動を起こしたのだ。CM女王とも呼ばれたその女性タレントのスキャンダルはCM契約を筆頭に億単位の違約金をもたらし、そしてイーグル芸能の経営は傾いた。
その煽りを受けたのはサバハリだった。メジャーデビューに先立ってのイーグル芸能との所属契約ができないと通告されたのだ。タレントやアーティストは稼げるようになるまで育てるのに多大な金が掛かる。だから無理もない。
サバハリは当時大学二年だった僕とギターのメンバーが大学中退を決意していた。一歳年下のボーカルはアルバイトをしながら音楽活動に専念していたので問題はなかったが、高校三年のドラムとキーボードのメンバーは就職活動も受験に備えた準備もしていなかった。
そこでサバハリのメジャーデビューを棒に振りたくなかった僕は出資することに決めたのだ。当時からすでに学生事業家だった僕には資金があったことが幸いで、その時持っていたほとんどの現金資産を出資に充てた。
サバハリの楽曲の作曲をしていた僕はフリーの作曲家として活動をしたい気持ちが強く、出資に当たって会社には所属せず筆頭株主の立場でいれることを条件にした。またサバハリから名前をもらい、会社名をサバイバル芸能に変えた。そしてバンドも脱退した。
大学は中退せずに通い、この春無事卒業することができた。駅まで見送りに来てくれた葵はインディーズ時代にサバハリのマネージャーをやってくれていて、来春この芸能事務所にマネージャーとして受け入れることを約束している。
僕と一緒に芸能事務所の再建を助けたのが親会社の大手レコード会社であるジャガーミュージックの社長、星野役員だ。
ジャガーミュージックはイーグル芸能の他にジャガープロダクションという芸能事務所を傘下に持っている。ジャガーミュージックはスキャンダルに伴って傘下の芸能事務所を一本化することに決め、イーグル芸能を切り離してしまった。そのため星野役員が個人資産で出資をしたわけだ。
ジャガープロダクションは当時、軽音楽のバンドが飽和状態でこれ以上抱える方針がなかった。そのためサバハリは受け入れられなかった。これがサバハリを逆境に立たせた第二波であり、星野役員が個人でそれを助けた形だ。
そしてもう一社。再建のための出資をしたのが天野社長の血族が経営する菱野グループの菱野エンターテイメントだ。天野社長は菱野エンターテイメントの社長令嬢である。長女が婿養子を取り、その婿養子が菱野エンターテイメントの会社経営に携わっている。
菱野エンターテイメントはパチンコ店やゲームセンターなどの遊技場を経営する会社であるが、以前から芸能業界への参入を狙っていた。そこで今回僕と星野役員が出資することに便乗したのだ。そして三者で均等に出資し三分の一ずつ株を分け、更に次女の天野麻利絵を出向させこの天野社長が社長職を全うしている。
こうした経緯を経てサバハリは無事サバイバル芸能に所属し、ジャガーミュージックからメジャーデビューを果たすことができた。今ではそれなりに名の売れたアーティストに成長し、僕はフリーの作曲家として曲をサバハリにも提供している。
サバハリと所属タレントがコツコツと結果を出し、今では星野役員の株をジャガーミュージックが買い戻して、サバイバル芸能は大手ジャガー傘下の芸能事務所に舞い戻ることができた。
「先生にプロデュースをお願いしたガールズバンド、もう来てますよ」
「あのバンド勢いがあっていいですな。プロデューサーも先生だし将来が楽しみだ」
天野社長の言葉に星野役員が満足に続いたので、期待値が高いことに安堵するとともに重圧を感じる。
「いやいや恐縮です。ご期待に添えられるように頑張ります」
「先生どうですかな? 例の件は考えてくれましたか? 先生ほど実績のある人が経営に携わってくれれば鬼に金棒なのだが」
「すいません。まだ今の仕事を納得できるだけ全うできてませんので。お気持ちだけ」
僕は努めて笑顔で答えた。
星野役員はサバイバル芸能の役員の席を僕に用意している。しかしまだ僕はフリーの身でやりたいことがたくさんある。会社に所属しては会社に縛られ他の事務所やレーベルのアーティストに曲を提供できなくなる。仕事の幅が狭まってしまうのだ。その
「残念ですな。首を長くして待っています」
「ありがとうございます。――メンバーはレコーディングスタジオですか?」
後半は天野社長に向けた質問だ。
「はい、そうです」
「じゃぁ僕はそちらに行ってきます」
「はい、よろしくお願いします」
僕は社長室への顔出しを終えるとエレベーターを使って四階に上がった。重い前室の防音扉を開けると更にもう一枚重い防音扉がある。僕はそれも開けると中にはマネージャーやレコーディングエンジニアなど三人の男がいた。
コントロール室になっているその部屋にはPA機器など無数の機材が配置されており、大きなガラスが構えてある。ガラスの向こうには演奏スタジオがあり四人の少女が演奏をしていた。コントロール室のスピーカーからはスタジオ内の演奏の音が流れている。
「先生、お疲れ様です」
僕の入室に気づくと立っていた一人の男が声を掛けてきた。スタジオ内で演奏をしているガールズバンドのマネージャーで
「これがハーレムの新曲?」
「そうです」
「へぇ、いいじゃん」
ハーレムとは今演奏をしている彼女たちのユニット名だ。ボーカルギター、リードギター、ベース、ドラムの四人組でドラム以外の三人とは二月にこのスタジオで一度会っている。まだ名古屋に住んでいた僕が彼女たちのデビューシングルのレコーディングのために東京に来た時だ。
ドラムのメンバーは当日身内の法要があるとのことで事前に上京し音録りを済ませていたのだが、僕がいない日だったのでまだ面識がない。しかし残念なことに演奏スタジオは薄暗く、ドラムのメンバーの動きは見えるが未だ顔がよく見えない。
録り終っているデビューシングルは来月発売である。このシングルの発売をもって彼女たちはメジャーデビューを果たす。僕は彼女たちのプロデューサーだが、今演奏中の曲はセカンドシングルの候補曲で僕は初めて聞く。
「先生、今後のスケジュールの打ち合わせがしたいのでこちらへ。――笠寺さん、終わったらメンバーにミーティングルームに来るように伝えておいて下さい」
「はいよ」
レコーディングエンジニアの
三人掛けの長テーブルを四台四角に組んだミーティングルームで僕は牛島のはす向かいに座ると、牛島の手元には分厚いシステム手帳が置かれていることに気付く。それが牛島の仕事量を思わせる。
「昨日ドラムの
「そっか」
「四人ともこの春大阪の高校を無事卒業しました。来月のメジャーデビューに向けてマネージングも順調です」
「セカンドシングルはいつの予定?」
牛島は明るい声色で……いや、筆頭株主としての僕のご機嫌を取るような感じだろうか。接客業のような話し方をしてくるので、僕はそれが嫌で素っ気なく返す。
「七月です。なので今月中には選曲をして来月には先生のアレンジとレコーディングが終われれば理想です」
「候補は何曲あるの?」
「五曲です。今録ってる曲でデモが五曲揃います。この中からメイン一曲とカップリング二曲の選曲をお願いします」
「わかった」
この調子で今後のスケジュールの打ち合わせを進め、そして十数分後。ミーティングルームのドアがノックされた。
「失礼します」
部屋に入ってきたのはハーレムのボーカルギター
「え……」
「え……」
僕とドラムの少女はお互いを認識すると驚いて声を出した。
「あれ? 千紗ってタスク先生とは初対面やなかった? 面識あったん?」
僕とドラムのメンバーの様子を見てそう言ったのは李奈だ。
「あ、いや、新幹線と部屋がお隣さんで……」
千紗は困惑した様子で答えた。そう、ドラムの千紗は隣人の少女だった。僕と千紗はまだ驚きの表情を隠せない。
「部屋隣なん?」
バンドのリーダーでもある李奈が質問を続ける。
「そう連絡したじゃん。――ね、先生?」
「え?」
僕に同意を求めてきたのは牛島だ。連絡した? 何のことだ?
「あれ、二人に事前に送ったメールに書いておいたんだけどな。二人が東京に引っ越してくる日が同じ日だから新幹線のチケットまとめて取りましたよって。それから二丁目のオートロックのマンションが三部屋しか空いてなくて千紗以外の三人に当てたから、千紗の部屋はオートロックじゃない三丁目にあるマンションにしたよって。防犯上事務所の関係者である先生の隣の部屋にしたから安心してって」
先月メールが届いたのは覚えている。新幹線のチケットの件と、事務所が部屋を手配してくれた件だ。しかし今牛島が言っていることはおそらく長文で届いたメールの後半だ。面倒くさくて読み飛ばしていた。
千紗の反応を見る限り彼女も同様だろうか。しかしこれで新幹線の席や部屋が隣だったことが偶然ではないことに納得ができた。
「あ、そう言えば先生まだ千紗とは会ってなかったですね。今思い出しました。てっきり昨日仲良く東京まで来たのかと思ってました」
初対面で、しかも仕事の関係者だと思っていない相手と仲良く来るわけがないだろ。すると千紗が僕に近寄り耳打ちをした。
「煙草の件、内緒にして下さい。スキャンダルになるって事務所から止められてるんです」
なるほどな。スキャンダルに敏感な事務所だ。未成年の喫煙に口を出したのは事務所か。合点がいった。千紗が僕に耳打ちした様子を他のメンバーと牛島は怪訝な表情で見ていた。
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