第3話 もう一人の漂流者

 翌朝。

 セラが海岸に行くと、怪物ハリマウの姿はなかった。夜のうちに元気を取り戻して去っていったに違いない。ほっとしたような、少し残念なような気持ちで海に釣り糸を垂れた。

 怪物の体の重みで岩があちこち砕けていたが、漁場にはもうたくさんの魚が帰ってきていた。

 海底が荒れたのがかえって良かったのか、いつにない大漁で、四十センチ以上もあるハタばかり数匹も釣り上げた頃、遠くからセラを呼ぶ声が近づいてきた。


「おーーーーい!! セラーーーー!! 大変だーーーー!!」


「なーーーーにーーーー!?」


 波打ち際を掛けてくるのは、幼なじみのセイン=ジュレンだ。

 村長の息子で、唯一人この秘密の漁場を知る人間でもある。彼だけは、たまにこの漁場へセラに会いに来てくれるのだ。


「村はずれの海岸に……怪物の死体が打ち上げられたんだ。大人たちはみんな、海の悪魔だって言ってる」


 両膝に手をつき、息を切らせながらいうセインの言葉に、セラの心臓が大きく音を立てた。顔から血の気が引いていくのが自分で分かる。

 昨日の怪物ハリマウだろうか? だとすると、せっかく水を飲ませたのに、死んでしまったということなのか?


「浜の方だね!?」


 言い捨てて後も見ずに駆け出すと、後ろからセインの声が追いかけてきた。


「おーい!! この魚、どうすんだよ!?」


 波打ち際を走りながら振り向くと、セインは、セラが釣り上げた魚をぶら下げて、重そうに引きずりながら走ってくる。


「あげる!!」


 言い置いて、今度は振り返らずに走り出した。

 ここに置いておけば、どうせ鳥に食われてしまう。二日連続で獲物無しとなるが、そんなことよりも、あのハリマウのことの方が気に掛かった。

 海岸沿いに大きく回り込みながら、波打ち際を十分も走ると、人だかりが見えてきた。

 場所は村とセラの家の中間あたり。男たちの丸木船がいつも停まっている砂浜だ。

 そこには、たしかに何か大きな塊が打ち上げられている。だが、セラの予想に反して、それは青黒い岩のような怪物ではなく、白くブヨブヨした肉の塊のようなものだった。

 昨日の怪物とはまるで違う。あんなゴツゴツした皮膚はどこにもないし、だらりと伸びた触手には、吸盤のような丸いものまでついている。大きさこそ数十メートルと桁外れに大きいが、どうやらタコかイカの仲間であるらしいことは、セラにもすぐわかった。


(違った……)


 セラは、心の中でほっと胸をなで下ろした。

 それにしても、いったいこれは何なのだろうか? この島には、海流の関係から様々な物が流れ着くが、こんなものは初めて見る。

 

「おそらく、巨大イカマラキンプシットじゃな……」


 長老が、ぼそりと呟いた。


「巨大イカ……ですか? それにしても大きすぎる。あれはせいぜい脚の長さを入れても数メートルくらいのものでしょう?」


 聞き返したのは、村長のランバクだ。

 たしかにこの数十年で、巨大イカ=ダイオウイカが打ち上げられたことは何度かある。が、どれもこれほどの巨体ではなかった。


「十三年前、巨大化したアリマサグが島を襲ったことがあったじゃろう? アレはどうも、世界中で起きておったことらしい。こいつも、そんなバケモノの生き残りじゃろうて……おお、セラ、来ておったか」


 長老は、人垣の中にセラの姿を見つけると、破顔した。そして、歩み寄ってきたセラの頭を愛おしげに撫でる。

 セラの母は長老の娘だ。そういう意味では孫娘にあたるわけだが、祖母が正妻でなかったため、家の敷居をまたぐことは許されていない。

 それでも、長老は何くれと理由を付けては、セラが困らぬように計らってくれていた。

 成人していなかったセラが、正式な巫女となれたのも、長老が強く推したおかげであった。


「己の使命をよくわかっておる……お前の母が死ななければ、こんなに早く巫女の役目を負わせたりせんで良かったろうに……」


 セラは頬を染めて、小さく頭を振った。


「いえ」


 少し面はゆい。べつに村を守るという使命感から、ここに来たわけではないのだ。

 だが、否定的な言葉を口には出来ない。巫女であるからこそ、村人に一目置かれ、いろいろと配慮して貰っていることも、供え物などで不自由なく暮らしていけることも、セラにはよく分かっていたからだ。


「はい……あの……もしかして、あの薬が必要になるんでしょうか?」


「そうしてもらいたいところじゃが、もう残り少ないのじゃろう? とても村人全員には行き渡るまい。すでにこれは死んでおるようじゃし、いざという時のためにも、とっておかねばの」


 あの薬、とは巫女の家系にのみ伝わる秘薬であった。

 血族のみに伝わる秘密の製法と共に、ずっと守られてきた秘薬である。だが、その原料となる植物は、十年前、長老の言う巨大蟹アリマサグ=巨大ノコギリガザミが上陸してきた時に吐き出された海水を被って全滅した。その畑を守ろうとした母も、父も、もろともに押し潰されたのだという。

 つまり、今ある薬を使い尽くせば、もう二度と秘薬は作れないのだ。

 島に伝わるこの秘薬は、幾つかの不思議な効力を持っていた。

 そのひとつが、生物的汚染に対する抵抗力だ。

 細菌やウイルスなどの感染症の予防に、百パーセント近い効力を発揮するのだ。それが、長い歴史上に何度かあった伝染病の上陸にも、島の人間が全滅しなかった理由でもあった。

 また、この抵抗力は巨大化した生物である「巨獣」が引き起こす、様々な健康障害にも有効だった。十年前も、村人たちは秘薬を飲んで災いから身を守った。

 秘薬のもう一つの効果は、治癒力の増強である。人間や、イヌ、山羊などのケガは、それこそあっという間に治る。だが、ある種の生き物にとっては過剰に働くようで、見たこともないくらい巨大化してしまうことがあった。

 とくに昆虫に顕著で、その大きさは十数メートル~数十メートル。

 巨獣、と呼んで差し支えないサイズの怪物へと変貌するのだ。それを、島の民は守護神、「タンガ」として崇めた。本来の巫女の役目は、この「タンガ」との意思疎通を行うことでもあったのだ。

 巨大蟹アリマサグが島に上陸した時にも、当時の島の守護神であった「タンガ」がこれを退けた。

 だが、今はもう守護神タンガはいない。

 島を襲った巨大蟹アリマサグを退けはしたものの、力尽きて倒れた。その時に秘薬の原料も失われたせいで、それ以来タンガを招来する儀式は、形だけのものになってしまっていた。

 両親が死んだ後、セラは村長のランバクの家に引き取られた。そしてタンガの巫女となった数年前から、一人で暮らすようになっていたのだ。


「む? おい、あれは白人カウカシャンじゃないか? 子供だぞ」


 騒いでいた村の男たちが、海岸を駆け出した。

 たしかに、腐りかけ、悪臭を放つ巨大な肉塊から少し離れた砂浜の上に人が倒れている。真っ白な肌、金髪のそれは白人の子供のように見えた。


「おーい。生きているぞ!! 女ども!! すぐに湯を沸かしてくれ!!」


 巨大イカと共に海から流されてでも来たのだろうか? 村の若者に抱えられた子供は、ぐったりとして意識がない様子だ。

 何故そんなところに倒れているのかは分からない。だが生きている、と聞いて、セラもホッとした。少年を抱いた村の男が歩み寄ってくる。不思議なことに、どうやら何も衣服を着ていないらしい。近くで見ると、真っ白な肌は傷一つ無く、金色の髪もつややかで、自分たちとは違う生き物のように思えた。


(いやだ……怖い…………)


 背筋を寒いものが走ったのは、どうしてだっただろう。

 ぐったりと気を失って見える少年から、何か凄まじい波動のようなものを感じて、セラは数歩、後退った。

 それだけではない。吐き気がこみ上げてきて立っていられなくなってきた。


「どうしたのだ? セラ? 気分でも悪いのか?」


 青い顔で胸を押さえたセラを気遣い、村長が、心配そうに顔を覗き込んだ。だが、答えることも出来ずに、頭を抱えて踞る。


「まいったな。病人が二人か。おい、誰か、セラを家まで送ってってやれ!!」


 人垣の中からその声に応えたのは、セインだった。


「僕が行くよ!! セラの魚も処理してやんなきゃいけないし!!」


 セインは、セラの釣った魚を持って追いかけてきてくれていたのだ。


「そうか。よし、頼むぞ。巨獣の死体が流れ着いただけじゃなく、遭難者が白人カウカシャンとなると、すぐに政府に連絡せねばならんしな」


 村長は腕組みをして言った。

 「政府」とは国連からの委任で、この島を統治しているアメリカ合衆国政府のことである。この島には病院が無く、重病人や怪我人が出ると、政府の出先機関に村長が連絡を取り、ヘリや高速艇で大きな病院のある島へ運ぶのだ。

 ミクロネシアは、数百もの島々からなる。パラオ・ミクロネシア連邦・ナウル・マーシャル諸島の各国およびキリバスのギルバート諸島地域、アメリカ合衆国の領土まで含まれる広い地域だが、中でもこのサンゴル島は、特殊な位置づけにあった。

 他の島々から一つだけ離れた場所にあり、物流の要衝でもない。火山島であり、面積の割に平地が少なく、植生も貧困で、これといった作物も特産物もない上に、人口も少ないため、歴史上も大きな役割を担ってこなかった。

 多くの島々が巻き込まれた太平洋戦争時にも、何の影響もなく、平和に過ごしてきたこの島が、にわかに脚光を浴びたのは、ある事件がきっかけであった。

 四十数年前、この島に未知の巨大生物がいるという噂を聞きつけた日本の実業家が、守護神タンガを見つけてしまった。さらに、タンガと意思疎通できる巫女の特殊な能力にも気づき、日本へと連れ去ってしまったのだ。

 怒れる守護神は東京上空へと飛来し、日本は大パニックとなった。

 幸いにも巫女は助け出され、タンガも巫女と共に島へと帰っていったが、それ以来、この人口数百人の小さな島は、国連の直轄管理地域となり、古来の文化は尊重されつつも、その危険さから厳重に管理されてきた。

 アメリカは、国連から委任されてこの島を統治しているが、あくまで自治独立が保たれている。決してアメリカの領土ではないのだ。しかし、そのせいで近代化は遅れていた。

 空港はもちろん、大きな港もなく、舗装道路もほとんど無い。電気や水道すら最近になって引かれた。

 十数年前の巨獣来襲……巨大蟹アリマサグ上陸の際にも、アメリカはもちろん、国連も何もしてくれなかった。島を守ったのは守護神タンガとその巫女だったのだ。

 後に生化学分野で論文を出した学者がいて、巨獣を作り出す不思議な秘薬の存在は知られていたが、手を触れにくい地域ということで、研究する者もいなくなっていった。

 秘薬があらゆる感染症や汚染から守る効果があることも、既に守護神タンガを作り出すほどの秘薬が残っていないことも、島の者以外は知らない。

 この島は長い間、忘れられた島だったのだ。



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