第2話 眠り

 赤道近くの浅い海。

 そこの海水は深海と違って濃く、甘く、またとても温かく感じた。

 珊瑚礁は複雑な構造で、穴がいくつも空いている。遠浅に見えても、その足下には巨大な空洞が広がっていることも珍しくないのだ。

 海流や悪天候で大きく穴が開く場合もあるし、地形の違いによるサンゴの生育状況の差でそのようになることもある。あるいは大地の隆起や陥没によって出来る空洞もあった。

 そして、そのいくつかは直径数十メートルのトンネルになっていて、彼が身を隠すのに充分な広さとなっていた。

 彼……頭部から尻尾の先まで、全長およそ二百メートル。

 ゴツゴツとした溶岩のような皮膚と、サンゴのように不規則な形をしたクリスタルブルーの背びれを持つ生き物。

 傷つき、疲労しきったその体を今支配しているのは、生きようとする意志だけだった。

 もやの掛かったような意識の中で、彼はただ生きようとしていた。

 海岸で偶然出会った少女のおかげで、たっぷりと真水を飲むことは出来た。あと必要なのは休息だ。栄養も充分とは言えなかったが、巨大な体の一部には千年ほど前に蓄えた栄養素が、まだいくらか残っている。それを使えば当面は生きていける見通しがあった。

 今、彼の潜む珊瑚洞窟は直径数キロの礁湖の内側にある。

 浅すぎて大型船舶は近づけないし、洞窟内にいる以上、航空機でも衛星でも見つけようがない。もちろん、もしもその気になって探せば、海底の珊瑚礁が線状に破壊され、島から洞窟に至る太い道路のような痕跡が見て取れたかも知れない。が、そういう視点でこの辺りを捜索した者は誰も居なかった。

 深海で意識を失ったGが意識を取り戻したのは、茫洋とした海原だった。

 海面まで浮上できたのは、海流のせいというよりも運の要素が強い。深海を流れるゆっくりとした深層海流の流れがその巨体を運び、表層へと持ち上げるまでに、数百年掛かっていても不思議ではなかった。

 意識を失ったことで、普通なら呼吸器官の空気をすべて吐き出してしまうところを、倒れ伏した場所に偶然あった海底施設から漏れ出る空気を吸い、浮力を得ることが出来た。

 また、そのおかげで無意識に体を動かし、ほんのわずかだが泳ぐことも出来た。

 仮死状態での完全な海底漂流であったなら、目覚めるのは早くても数十年は先のこととなっていたに違いない。

 むろん、細胞内共生生物メタボルバキアがいる以上、Gが死亡することはあり得なかったのだが。


“あり……がと……う?”


 Gは、生体電磁波で少女に向けて発したその言葉を、何度も反復していた。

 自分は、その言葉を知っている。

 最後に使ったのはいつだったか……いや、言葉などという概念は、そもそも自分には無かったはずだ。

 いったい、何故こうなったのだろう。

 まるで、自分の中に違う誰かが住み着いたような、逆に見知らぬ巨大な何かに、自分という存在が包み込まれてしまったような、そんな不思議な感覚なのだ。


“何かが…………おかしい”


 こんなに明晰に何かを思考したことは、ここ数万年もなかったことだ。

 いや、こんなに意識が朦朧として考えがまとまらないのは、自分が病に冒されて腫瘍が脳を圧迫し始めた時以来だ。

 二つの意識。

 二つの記憶。

 二つの思考が、巨大な体の中でせめぎ合い、もつれ合い、からみ合う蔦か何かのように感じられる。

 自分はどうしてしまったのか。

 温く、浅く、甘い海の中で体を休めながら、Gは自分の記憶をたどり続けていた。

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