巨獣黙示録外伝・南海のハリマウ
はくたく
第1話 流れ着いたモノ
その日。
セラは、いつもとは違う海岸に出てしまったのだと思った。
そこは、もともと岩場が大きく抉れた場所だった。この島の火山が活動していた頃の名残か、溶岩が流れ込んだ跡が切り立った崖になっていて、崖は海から急に立ち上がっている。沖に出なくても十数メートルの深場に釣り糸を垂れることが出来る場所なのだ。
入り江の中は、波は静かだが底の方には大きな潮の流れがあり、沖から大型のロウニンアジやカンパチ、コショウダイなども回遊してくる。
彼女はそれを知っていたから、ここでよく大物を釣り上げた。それが唯一の現金収入だったのだ。
村の男たちは、ほとんどが丸木船で沖に出て漁をする。女たちも、遠浅の珊瑚礁を歩いて貝やエビ、タコなどを捕る。
村の外れに住んでいるセラは、船を持たない。遠浅の珊瑚礁は、それぞれに縄張りがあって、勝手に貝やタコは捕れなかった。
島で生き残った唯一の巫女として大事にはされていても、勝手な振る舞いは出来ないのだ。ほとんど漁だけで成り立つ村人の生活も、楽ではないのをセラもよく知っていた。
儀式の供物がある日はいいが、そうでない日は自分で食い扶持を稼がなくてはならない。
だからこの場所は、まだ十三になったばかりの少女が一人で生きられるだけの獲物を捕れる、数少ない漁場であったのだ。
村の人間はここには立ち入ろうとしなかった。
ここは神域の一部で、巫女の家系であるセラだけが立ち入ることを許されていたのだ。
年に数回ある儀式の際には、村中が集まる場所でもあった。
その大事な神域が、青黒い岩で埋め尽くされている。
セラは何度も振り返って確かめたが、道は間違っていなかった。いったい、一晩で海が埋まるなどということが、あり得るのだろうか?
とにかく、これが現実なのかどうか確かめようと、セラはその岩場を歩き出した。
「ひゃあっ?」
漁場を埋める青黒い岩に踏み出した足を、セラは思わず引っ込めた。海岸の岩と同じ色、同じ質感に見えたその岩は、不思議に柔らかい感触であった。
岩とは明らかに違う。そして、何故か少し温かかった。
(これがもしかして溶岩……っていうものかな?)
セラの住む島は火山島だ。大昔に噴火したことがあると聞いてはいたが、実際に流れる溶岩を見たことはない。それにいくらなんでも、溶岩が噴き出して気付かないなどということがあり得るのだろうか? この岩以外に海岸にも島にも変化は見あたらない。噴煙も轟音も地震もなにもなかったのだ。
セラは噴火など知らないが、どう考えても昨夜のうちにそんな大変なことがあったとは思えなかった。
青黒い岩の上から見渡すと、さらに不思議な光景が目に飛び込んできた。
海の波がそのままの形で固まっている……そうとしか表現できないものが見えたのだ。
コバルトブルーの複雑な形と、その表面を覆う白い泡。どう見ても、打ち寄せた波がそのまま固まったとしか思えないそれが、海の底からいくつも屹立している。そして…………
(何? 宝石? …………こんな大きな……)
それまで気付かなかったのが、不思議なくらいであった。
足元から数メートル向こうにあるその透明な石は、自分の背丈よりも大きいと見える。表面は卵のようにつるんとしていて、とても自然のものとは思えない。透き通った赤は南国の日差しを透かして、キラキラと煌めいていた。
美しい。率直にそう思える石である。不思議な固まった波と宝石に見とれて、数歩、歩み寄ったセラは、ようやく別のことに気がついた。
(違う……これは、岩じゃない…………)
たしかに岩のように見える。
だが、この岩の表面は、規則正しく上下していて、それに合わせて目の前に二つ並んだ大きな洞穴から、生温かい風が出入りしているのだ。
これは……呼吸。つまり、この二つの穴は……鼻?
とすると、足元から伝わってくるこの暖かさは、体温だ。
よく見ると、すぐ足元にある大きな裂け目からは、象牙色の牙まで覗いている、その奥に見える薄いピンク色がこの生物の口腔であるとするなら、大きな裂け目は口だ。
ならばあのコバルトブルーの波も、この生物の器官に違いない。どうやら、背びれのようなものだとセラには思えた。宝石は何なのかよく分からないが、グンカンドリのノド袋のような、飾りではないか。
(これ、ものすごく大きな生き物なんだ……岩みたいな……もしかしてこれが、伝説にある海の悪魔……?)
長々と横たわっている巨大な生物は、大きさも形も、今まで見たことのないものだった。
島には伝説がある。嵐の日に海から現れて、人を喰らう
その伝説の
そう思った瞬間。セラの足は恐怖で動かなくなってしまった。一歩でも動けば、怪物に食われてしまうと思えた。
「ひっ……」
セラは自分の口を押さえ、悲鳴が漏れるのを辛うじて止めた。
鼻の穴からずっと向こうに、巨大な目が現れたからだ。岩のようなまぶたが持ち上がり、鳶色の目がセラを見た。
「…………苦しいの?」
思わず口をついて出たのは、その鳶色の瞳が、とても優しげに見えたからだ。
巨大な生き物は、答える代わりに大きな息を一つつき、またゆっくりと目を閉じた。
「……弱っているんだ……そうだ、お水……」
セラは、水筒代わりの使い古しのペットボトルから、自分の飲み水を、象牙色の牙に掛けてやった。
「きゃっ!!」
思わず飛び退いた。その亀裂のような口から巨大な舌が這い出してきて、水を舐め取り始めたのだ。
やはり、相当のどが渇いている様子だが、この巨体にこんなわずかな水では、何の足しにもなりそうもない。だが、こんな巨大な生き物が満足するほどの水を、汲むだけの体力も容器も、セラは持ち合わせてはいなかった。
困り果てて辺りを見渡して、ようやくセラは、その怪物がここにやって来た意味を悟った。
「そうか……きっと、この流れに引き寄せられたんだね……」
この海岸には、山から流れ落ちてくる湧き水があったのだ。
絶海の孤島には珍しく、冷たく、質も良い湧き水で水量もそこそこあるのだが、海岸に来るまでに岩の間に流れ落ちてしまって、波打ち際までは届いていない。
湧き水はいったん地中に消えたあと、百メートルほど沖の海底から噴出している。その中に含まれる栄養分が魚を集めているのが、ここは良い漁場である理由の一つであった。
その真水に誘われて泳ぎ着いた怪物は、海から這い上がれずに力尽きてしまったのだろう。
だが、そうと分かれば助けてやる方法はある。
流れの途絶える場所から怪物の口までは、ほんの数十メートル。そして、波打ち際には異国で廃棄された竹やプラスチックの管が流れ着き、ゴロゴロ転がっていた。
赤道直下にあるこの島の周囲は、いくつもの海流が渦を巻いている。世界中のあらゆる国が捨てたゴミが流れ着く場所でもあったのだ。
セラは早速、怪物の口元まで水を引く水路を造り始めた。
材料になりそうなゴミを拾い集め、竹を半割にして節を抜く。岩や流木で水路を支えれば、大して手間は掛からない。
一時間ほどで手製の水路は完成し、怪物の口に水が注がれ始めた。
「美味しい?」
のどを鳴らして水を飲み始めた怪物に満足すると、セラは帰り支度を始めた。
獲物はないが、漁場がこれでは仕方がない。今日は入り江の向こうでシャコ貝でも捕って食べるとしよう。そう思って、ため息をつきながら歩き出したセラは、後ろから話しかけられたような気がして振り向いた。
(ありがとう)
少年の声でそう聞こえた気がしたのだ。
しかし、そこにいるのはあの巨大な怪物だけだ。気のせいか、と思ったが、セラは、精一杯微笑んで言葉を返した。
「どういたしまして。でも、そこはあたしの大事な漁場なの。休むなら、できれば場所を変えてね。それに、島の人が見つけたらびっくりするよ?」
ハリマウに聞こえたのかどうかは分からなかったが、巨大な頭が小さく頷いたように見えて、セラは少し安心した。
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