第四話

 日が傾き始め影が長くなったころ。特設ステージの裏で相棒のベースをチューニングする。緊張で手が震えてうまく音が合わせられない。

 店長の大事な話。それは空いてしまった時間の穴埋めだった。

 夕方からの演奏はプロ顔負けの猛者たちが出演する演目になっている。耳の肥えた客たちを満足させるのは容易じゃない。


「けっこう集まってきてるよ」


 会場を覗きに行っていた鈴葉が楽しそうに小走りで戻って来る。鈴葉に緊張の色は全く見えない。

 日はまだ暮れきっていない。これでは観客の表情が見えてしまう。果たして戸神にそれが耐えられるだろうか。


「……大丈夫。みんなが一緒だから」


 全然大丈夫じゃないほど顔を白くして戸神は力強く頷く。


「本当にこいつらで大丈夫なんだろうな」


 ギブスを嵌めた男性は先ほどから何度も店長に確認している。

 そりゃそうだろう。自分たちの代行が高校生だなんて、心配しない方がおかしい。


「だいじょぶ、だいじょぶ。そう心配すんなよ」


 自分が出るわけでもないのに店長は胸を張って答える。

 自信があるわけじゃない。それでも思いきりやれて、本気で評価される場なんてそう無いだろう。自分の力量を量る上では良い機会だ。


「ヒロたちも心配する必要ないぞ。責任は俺が取る」

「はい。ありがとうございます」


 こんな店長は初めてだ。明日は雪が降るんじゃないのだろうか。


「飛び入り参加なんて自殺行為よ。他のバンドが二回出た方がまだまし」


 最後まで参加に賛成しなかったカノンは最後の抵抗とばかりに言葉をぶつけてくる。


「そうかもしれない。それでもやるよ」

「どうして? 失敗する可能性の方が高いのに」

「絶対に失敗すわけじゃないから。それに場所があって、機会があるのに、音を鳴らさないのはもったいないだろ」


 俺の言葉にカノンはきょとんとして、返事をすることを忘れてる。


「なんか変なこと言ったか?」

「別に。もう知らない。勝手にすれば」


 拗ねるように鼻を鳴らしてから俺の脛を小突いてステージ裏を後にした。


「結局あの子は立たず、か。ペット持って来てるからもしかしたらと思ったんだが」


 店長が愚痴をこぼす。


「まだわかりませんよ。どうなるかは俺たち次第です」


 ここで俺たちがカノンの心を動かす演奏が出来れば、カノンはこの場に戻って来る。

 MCが次のバンドの不参加を説明し、代わりとして出る俺たちのことを説明すると、場内がざわめき、空気が質量を増していく。感じたことのないアウェーの空気が会場を包んでいた。


「ここまで来たらやりきるしかないよ。行こっ!」


 MCのやり過ぎなくらいの煽りの後、気負うことなく飛び出していく鈴葉に続いて俺と戸神もステージへと出ていく。

 じりじりと肌を刺す照明に混ざって観客の無遠慮な視線が突き刺ささる。先頭ということもあってか、人はそこまで多いわけではない。それでも集まった人の熱い息遣いと、スピーカーからのフィードバックが俺を圧倒した。


 これが本当のステージ。


 久々に味わう緊張感に気分が臆するどころか、むしろ、高揚する。

 鈴葉と戸神に視線を送る。鈴葉は待ちきれないと言わんばかりに笑って見せ、戸神は緊張の色はあるものの、こちらに応えるように大きく頷いた。

 親指の腹で鳴らす柔らかなギターの音で演奏が始まった。


 一曲目のフル・ハウスは三拍子でありながら速い展開で曲が進む。

 誰でも見ることのできる野外ステージに加えて、俺たちは飛び入り参加の新参者だ。観客を引き込み、飽きさせない工夫をする必要があった。

 万華鏡のようにころころと表情を変えていくギターソロに合わせて、出遅れることなく堂々とウォーキングする。

 久々に引くはずのベースが自分の身体の一部になったように馴染む。弦を押したときの感覚や、弾いた時の響きがまるで違う。弾きやすいように調整がされている。

 鈴葉は頃合いを見計らって戸神に合図を出す。

 俺の拙いベースソロではせっかく鈴葉が温めた空気を台無しにしてしまうので、その代わりにドラムソロを入れることにした。

 曲の形を保ったままのドラムソロはまるで打楽器に音階が存在しているようだった。

 驚く観客にドヤ顔で応える。

 今まで人前に出ることが出来なかったとは思えないほどに堂々としていた。

 無事に一曲目を終えて、まばらな拍手をもらう。掴みとしては上々の立ち上がり。

 俺たちに興味のない観客に聞く耳を持たせることができた。

 勝負は次の二曲目。ここからが本番。

 戸神のカウントの後、ギターとユニゾンしながらステップを踏む。

 フォー・オン・シックス。

 ずれないように戸神と息を合わせて慎重にかつ軽快にリズムを刻んでいく。

 特徴的なリズムを一周繰り返した後、ステップをベースに任せてギターがテーマに入る。

 ここまでは順調だ。

 テーマから引き継いだ疾走感をそのままに跳ねまわるようにソロを弾く。

 まばらだった人が次第に増えだし、通りすがり人も足を止めて俺たちの演奏を聴いていた。少しずつ俺たちの音が会場を染めていく。

 もっと自由に、弾きたいように。どの音を鳴らせばよく響くのか、それは身体が知っている。

 調子を上げるドラムのレガートに乗せてウォーキングする。リズム隊が起こした波に、鈴葉のオクターブ奏法が乗る。

 オクターブで繰り返されるフレーズにベースを乗せた途端、会場の雰囲気が変わっていくのを感じた。

 自分たちの音が世界を切り開いていく感覚。

 しかし、その音はまだ完成じゃない。いつでも入ってこれるように空席を作ってある。

 観客の後ろの方にいたカノンは祈りを捧げるように首から下げた袋を両手で握っている。

 こんなに楽しい誘いを断るのか? 席なら空いている。早く来い。

 カノンにぶつけるようにバンドの音を響かせる。

 俺たちの演奏にどんどんと人が引き寄せられていく。


「あっ!」


 俺たちにしか聞こえないくらいの鈴葉の小さな悲鳴がした。

 ギターの弦が一本、力なく垂れている。

 こんな時に限ってどうして切れるんだ。

 何とか音を止めずに曲を終えると、すぐに替えの弦を係りの人が持って来てくれる。交換は数分で出来るが、勢いだけで持ってきた空気が冷めてしまう。

 時間をつなぐ何かをしないとならないが、リズム隊だけで何ができる。

 少しずつ、引き寄せられた人たちが離れていく。観客の中にカノンの姿はなかった。

 今回も駄目なのか。形が見え始めていた音が次第に霧にのまれたように消えて。

 それは突然だった。

 切り裂くような金色の音がまっすぐに会場を駆け抜けていく。


「――この音って」


 背中から突き抜けたトランペットの音は間違いなくカノンの音だ。

 驚いて後ろを振り向く。そこにあるのはステージの背後の幕。

 突然のことに会場も時が止まったようにその音を聴いていた。

 そんな状況はお構いなしに、氷の上を滑るような音は、軽やかにステップを踏み会場全体を踊りまわり、ガラスのような澄んだ音色へと変化すると、淡い藍色の空の彼方へ飛び立っていく。

 数泊の静寂を置いて、甘く囁くようなに演奏が始まった。


 マイ・ファニー・バレンタイン。


 最愛の恋人を愛おしく丁寧に語っていく。

 吐息が聞こえてきそうなトランペットの語りにギターのコードが寄り添う。シャボン玉のようにふわふわと飛んで行ったしまう音をドラムとベースがしっかりと地に捉えた。

 音楽は引き算や、足し算には例えられない。無理に例えるとしたら、化学反応みたいなものだ。

 トランペット、ギター、ベース、ドラム。四つの音が重なり、別の音を作り出している。

 ようやく音がそろった瞬間だった。

 ここにいる誰もが俺たちの演奏に魅了されている。

 最高の気分。最高の時間。

 きっと、カノンだって同じに違いない。

 もう一度、背後の幕を見る。

 触れれば崩れてしまいそうなほど華奢な身体で、トランペットを吹いているカノンが見えた気がした。

 最後の一音まで丁寧に鳴らし、曲が終わる。

 静まった海面が破れて、歓声が巻き起こった。



 人がまばらな帰りの電車は俺たちを深い眠りにいざなうように揺れる。

 隣に座る鈴葉は困憊の身体を柔らかなシートに預けて、か細い寝息を立てていた。

 真っ暗な車窓を眺めて先ほどまでの興奮を思い出す。

 あの後はもうやりたい放題だった。カノンと鈴葉が殴り合うようにソロを繰り返し、戸神はもっとやれと囃し立てる。そんな中で俺は、二人がどこかに行ってしまわないように繋ぎ止めるだけで精一杯だった。

 観客も見えないトランぺッターに大興奮。ソロが終わる度に、割れるような拍手と指笛が会場に鳴り響いていた。

 与えられた時間を終えて、なだれ込むようにして裏に下がった俺たちを、共演者の笑みが迎えてくれた時、そこでようやく成功したんだと実感した。

 放心状態の俺たちに「後は任せろ」と豪語してステージに出て行ったトシさんは、誰もが憧れる漢そのもので、演奏も言葉の通り、圧倒的なサウンドだった。

 今思い出しただけでも、絶対的な実力差にへこむ。

 ライブ後の打ち上げは、イベント同様に大盛況だった。

 俺たちをヒーローと褒めちぎるトシさんや、屋台の売り上げをトシさんにほとんど持っていかれて嘆く店長、大勢の人に座敷の隅で震えあがる戸神、お酒が入っていないのに酔っ払いと同じテンションで盛り上がる鈴葉。

 どれも最高に楽しい時間だった。

 だけど、ステージ裏にも、打ち上げの場にも、カノンの姿はどこにもなかった。

 あのトランペットの音は、本当にカノンの音だったのか。一滴の不安が心を揺らす。

 あの時は確信があったが、俺はまだ音で人を判別できるほど耳はよくない。もしかしたら、俺たちのピンチを救うために、他の誰か人が吹いたのかもしれない。

 不安の波紋は止めどなく広がっていく。


「これで……全員そろったね……」


 鈴葉の寝言に乱れた心が凪いでいった。

 俺だけじゃない。みんながカノンがいたと感じている。


「そうだな」


 不安を吐き出すように大きく息を吐いて、電車の心地いい揺れに身体を預けた。



 いつもより数本後の電車に乗る。

 昨日の疲れが溜まっていたのか、はたまた、誰かのいたずらか、目覚ましは俺に抱えられて沈黙していた。

 ようやく帰ってきた相棒でさっそく朝練をしようと息巻いて寝たというのに、これでは防音室に機材を運ぶだけで予鈴がなってしまう。

 全員揃ったからって油断しすぎだ。

 駅前を通ると、特設ステージや、屋台テントは跡形もなく片付けられていた。

 自分たちがここで演奏した痕跡は何一つ残っていなくても、身体にはしっかりと染みついている。

 甘えるように囁きかける音、甲高い声をあげて空気を突き抜ける音、すすり泣く様に震わせる音、鼓舞するようにステップを踏む音。あんな小さな肺にそんなに空気が入っているのかと思うほどのロングトーンや、パンチのように瞬発力のあるトーン。

 カノンの音には色々な表情があった。

 音だけじゃなくて、普段のカノンもあんな風に色々な表情を見せればいいのにと思う。


「おそい。おそすぎ! 何時だと思ってんのよ!」


 部室の扉を開けるといきなり噛みつかれた。


「遅いって、別に約束した覚えはないけど」

「そうじゃないでしょ!」


 相当、お怒りの様子で下の階に響かんばかりに地団太を踏む。


「そう怒るな。カルシウム足りてないな。カリカリしてると友達もできないぞ」

「友達ができないは余計よ!」

「いてぇ」


 思いきり脛を蹴られた。


「昨日、たまたま、上手くいったからって油断しすぎ!」

「確かにそれはカノンの言う通りだな。反省する」

「だったら、ベースはここに置いて機材運び手伝って。すず達は先に行ってるから」


 え? いまなんて。

 動かずに呆けている俺を苛立ちながら睨み付ける。


「もしも予鈴までに間に合わなかったら、授業サボってでも準備させるからね。私たちには、時間が、ないんだから……」


 勢いのあった言葉は尻すぼみになり、睨み付けた視線も決まりが悪そうに逸らす。


「それって、つまり俺たちのバンドに入るってことだよね」

「そうよ。昨日の演奏は及第点ってところだったから」


 平静を装うようにして言っているが、耳まで真っ赤にしている。

 結構時間はかかったが、これでようやくメンバーは揃った。

 後は新フェスに向けて突き進むのみ。


「ありがとう」

「なに感極まってるのよ。これでゴールじゃないのよ」

「そうだな」

「私だってこんなところで止まってるわけにはいかないのよ」

「どういう意味?」

「なんでもない。さっさと練習するわよ」


 一瞬だけ見せた物憂げな表情を隠して部室を出て行く。

 ところで、カノンはステージ裏でトランペットを吹いていたとき、どんな表情をしていたのだろう。

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