第二話

 その後、俺たちは何度も音をぶつけ合い、次第に余計な音は削られて行った。

 成果は出ている。不協和音だった演奏は聞けるレベルになり、あと一歩のところまで来ている。しかし、あの時の演奏には届いていない。

 最近は練習を早めに切り上げて解散している。このまま続けても意味がないと判断されているのだろう。


「ヒロくんの演奏どんどん駄目になってる」

「これじゃのれない」


 二人からはそう指摘された。

 部室に漂う耳を劈くような沈黙。それを掻き消すように、録音した演奏を聴く。

 何度聴いてもずれてる感じはしないが、まったく盛り上がってない。

 こうなっている原因は俺にある。俺が二人のレベルについていけていない。音を合わせる度にそれを痛感させられる。

 こんなことではカノンが入りたいと思えるバンドなんて……


「単調な音。聴いてるだけで毒ね」


 立てかけたベースに伸ばした手がカノンの毒舌によって止められる。


「だったら聴かなきゃいいだろう」

「ヒロに毒なの。止めて」


 釈然としないが、言われた通りに停止ボタンを押す。

 カノンはいつも通り不遜な態度で前の長椅子に腰かけた。


「とは言っても、あんな演奏を毎日隣で聴かされたら私にも毒なんだけどね」

「わるかったな。あんな演奏で」


 俺たちは演奏を聴かせるために、カノンが籠っている防音室の隣室で日々練習していた。

 いまのところそれは逆効果となっている。


「文句言いに来たところ悪いけど、付き合ってる暇ないから」


 その言い方はひどかったかと後悔したが、後の祭りだ。

 情けない。なに、人に当たってんだか。

 どうすることのできない焦りが苛立ちに変わっていくの感じていた。


「だから何よ」


 怒気を隠すことなく晒した言葉がぶつけられる。


「ヒロの事情なんて知らない。私はヒロに言いたいことがあるの」


 機嫌悪く口を尖らせたカノンは俺を指さして指摘する。


「どうしてシンコペーションを入れないの。前までは気持ちわいくらい入れてたのに」

「気持ち悪いは余計だろ」


 しかし、カノンの言うことは真実で俺はシンコペーションをほとんど入れていない。

 シンコペーションとは拍節の強迫と弱拍のパターンを変えて独特のリズムを作り出すことだ。これができていないと単調で面白みのない演奏になりやすい。

 さらにカノンの容赦ない指摘が続く。


「シャッフルもしてないから音が平らでつまらない。これじゃ機械に弾かせた方がましよ」


 じわじわと響く指摘はボディブローを食らっている感覚に近い。


「初めから下手だったけど」


 そして弱っている俺に渾身のストレートを見舞った。


「さらに下手になってる」


 なんの返答もできず、椅子の背に身を任せる。

 盛り上がらない理由は単調なベースラインのせい。そのことはわかっていた。俺だって好き好んで単調なベースラインを弾いてるわけじゃない。シンコペーションを入れようとすればずれるし、前のように弾こうと思っても気持ちばかりが前に言って上手く弾けない。


「言いたい事はわかった。なら練習するよ」

「ダメ」


 立てかけてあったベースをカノンは横から奪い去る。


「何すんだよ」

「右手見せて」


 人のベースを我が子のように抱え込んだカノンは俺にそんな要求を突きつける。


「なんで?」

「良いから。じゃないと返さない」


 強引にも程があるだろう。

 しかし、従わなければ埒があきそうにないのでおとなしく見せることにする。


「やっぱり全然わかってないじゃない」


 右手の掌を見てカノンは責めるわけでもなく、貶すわけでもなく、まるでこちらを慰めているように言った。


「もしかしてヒロは根性論でなんでも乗り切るタイプ?」

「そうんなことはない。適度な休養も必要だと思ってるぞ」

「ならどうして休ませないの。これくらい平気だと思ってる?」

「いっ!」


 カノンが右手の人差し指と中指にできた水ぶくれに乱暴に触れる。かなりの痛みが右手にはしり、思わず手を引っ込める。


「私の忠告を聞かないから……」


 申し訳なさそうに悪態をつかれると、こちらが憎まれ口を叩けない。


「その指じゃ弦を弾く度に痛かったでしょ」

「そうだけど、これくらいは耐えられるぞ」

「音って言うのは繊細なの。万全な状態じゃないと万全な音は出せない」

「確かにその通りだな」

「わかったらこれ貼って保護しときなさい」


 可愛い猫のマスコットが印刷された絆創膏を投げつけられる。

 絆創膏を貼りながらカノンの言った意味をようやく理解する。指の痛みは以前からあったが、無意識のうちに指を庇って演奏に支障が出していたということだろう。


「よくここまでわかったな」


 やっぱりこれが才能の差なのだろうか。


「気持ち悪いシンコペーションの嵐がある日突然聞こえなくなったからすぐに気付いた」


 また、気持悪いって言われた。地味に傷つくな。


「もしかして鈴葉と戸神も」

「きっとわかってるわ」


 最近、練習が早く終わるのはそのためか。


「指がそうなるのはベーシストとして当然だし、はっきりと言わない二人が悪いのよ。ヒロが単純で脳みそ筋肉なのはわかってることなんだし」

「微妙なフォローありがとう」


 つまらなそうに演奏をするカノンに音楽の楽しさを伝えたくてベースを始めたのに、今のままではきっとそれを達成することはできない。カノンとバンドを組むことだけが目的というわけじゃない。

 そんな思いに縛られて空回りしていた。


「よいしょっと」


 カノンは俺のベースをケースに入れるとよろめきながら背中に背負う。小柄なカノンではまるでベースに背負われているようで微笑ましく、じゃなくて。


「おい何してんだ?」


 そのまま部室を出て行こうとするカノンを慌てて引き留める。


「何って。持って、帰るのっと」


 振り返りざまにとんでもないことを告げるカノンは、ベースに身体を振られてよろける。


「返せ。俺のベースだぞ!」

「だから何。返したら無理に弾きそうだから私が預かっとと、意外と重いわね」


 胸を張ろうとして後ろに倒れそうになる。もう見てられない。


「絶対に弾かないから返してください。お願いします」

「ダメ」

「それなら」

「動かないで! 動いたら背中から倒れる」

「なっ!」


 人質を取るなんて卑怯だ。

 楽器を大切にするカノンのことだから倒れるというのは脅しにすぎないと思うが、無理矢理取り返そうとして転びかねない。そうなればカノンにも危害が及ぶ。


「わかったよ。諦める」

「妙に物わかりが良いわね。気持ち悪い」


 疑いの視線を向けられる。気持悪いは余計だろうが。


「気を付けて帰ってくれよ。くれぐれもベースは傷がつくことがないように」


 特に他意があったわけではないのだけれど、カノンには馬鹿にしていると伝わったようで。


「なまいき。言われなくてもわかってる」


 噛み殺すように呟くと。身体を左右に振られながらもこちらに突っかかってきた。


「正直に言いなさいよ! チビがこんなもの背負って笑える。とか思ってるんでしょ」

「思ってないよ」


 似たようなことは思ったけど。


「私だって好きでチビなわけじゃないのよ。ママみたいにもっと背が高くて、モデルさんみたいで、格好良くて」


 さっきまで怒っていたくせに、今度はこの世の終わりみたいな落ち込み方をする。


「別にそのままで十分だろう」

「そんなの気休めにもならないわ」

「気休めじゃないよ。実際、可愛いと思うし」

「本当?」

「うん。本当に可愛いと思うぞ」

「そうなんだ。は! いま可愛いって」


 金魚のように口をぱくぱくさせて顔を赤く染める。

 なだめる為とはいえ俺はなんてことを口走っている。


「な、なに、変なこと言っ……っ!」


 俺から距離を取ろうと後ずさったカノンはコードに足を取られてよろめいた。

 咄嗟にカノンの手をつかみ抱きしめる。


「人の楽器を預かってることを忘れるなよ」


 抱きしめられたカノンはお湯が沸かせそうなほど、顔を真っ赤にして俯いている。


「ヒロくん。やっぱり黙ってるのは良くないかなって思って」


 申し訳なさたっぷりの表情で部室に入ってきた鈴葉は、中の光景を見るなり口を半開きにして固まってしまう。

 どうしてわざわざこんなタイミング。


「す、鈴葉、これはな」

「う、うわあああぁぁぁあああ」

「だっ!」


 カノンはこちらの手を振り解くと、頬にきつい一発を見舞って部室から逃げて行った。


「おい。俺のベースはいつ……もういない」


 部室から廊下に出るとカノンの姿はどこにもなかった。


「ヒロくん」

「ひぇっ!」 


 後ろからいきなり肩を掴まれ心臓が口から出そうになる。

 振り向くと鈴葉はアルカイックスマイルで俺を見ていた。


「誤解だよ。あれはカノンが転びそうになったから。事故。事故なんだよ」

「そんなに否定しなくても大丈夫だよ。皆には黙っておくから」


 全然大丈夫じゃない。とてつもない勘違いをしている。


「いや、だから、そういう事じゃなくて」

「でも誰かが来るかもしれない部室でそういう行為はどうかと」

「話を聞いて」

「皆やってるのかな? 店長に相談しよう」

「それだけはやめて! てか黙っておくって言ったよな」


 この後、状況を理解してもらうために俺は何度も同じ説明をするはめになった。

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