第二話
鈴葉は帰るところだったようで部室棟の廊下で出くわした。
「どうしたの?」
「ちょっと話があるんだけど」
昨日の態度からは想像もできないほどにいつも通りだった。のほほんとした話し方で柔和な笑みを浮かべている。
「新フェスのことなんだけど」
「あー、それのこと。それなら昨日も言ったけど」
「初めてソロをやったとき、コードを見失うんじゃないかって不安だった。だけど、鈴葉のギターリフがちゃんと道を示してくれたから、俺は迷わず好きなように音が出せた。バンドを完成させるためには鈴葉が必要なんだよ」
こちらが熱弁をふるっている間も鈴葉は柔らかな表情を変えぬまま、こちらを見つめていた。何か見えない壁が俺たちの間にあるように感じる。
「そう」
多く語った俺に対して、鈴葉はたったの二文字だけ。期待を裏切られたかのような、溜息にも似た返事だった。
「言いたい事はそれだけ?」
大きな瞳にはっきりと失意の色が窺える。
「そ、それだけって」
動揺してどうしようもなく俺は視線を泳がせてしまう。泳がせた視線の先にはもちろん答えなどない。
「新フェス、がんばってね。ギターがほしいなら亀田先輩に頼むといいよ。きっと私なんかより上手くやってくれる」
誰が見ても嘘だとわかる乾いた笑顔を向けて横を通り抜けていく。
「待って。理由は? あんなにセッションしたがってたじゃないか」
「セッションとバンドは全く別だよ」
「どういう意味?」
「ヒロくんには関係から」
こちらを振り返りもしなかった。
関係ない。明白な拒絶をされてしまったら、何も言わずに見送るしかなかった。
崩れ落ちるように壁にもたれかかり、萎れた花のように首を垂らす。
「はぁはぁ、ヒロって、ほぉ、ほんとうに、バカなの?」
後を追ってきたカノンは息を切らしながら俺を断罪する。
「カノンはこうなるって知ってたのか?」
「あのすずが直接言われてない程度で、出ないとか言い出すわけないじゃない」
言われてみればそうだが、だったら言ってくれれば良かったのに。
「私が悪いみたいに見ないで。最後まで話を聞かないヒロが悪いんだから」
「全くその通りだな」
カノンの刺すように冷えた声が傷口に塩を塗る。
「すずは三軽に入ってから一度もバンドを組んでないの」
「組んでない? だって主催したライブには」
「一人で出たのよ。この部がなんて呼ばれてるか、ヒロも知ってるでしょ」
「音楽の墓場」
鈴葉もまた例外なく、問題を抱えてここに辿り着いた部員の一人。どうしてそれを失念していたのか。
「俺は鈴葉のこと何もわかってないんだな」
「幼馴染って言っても所詮は他人。そんなの当たり前じゃない」
「そうじゃないよ。俺は鈴葉のことを知ろうとしていなかった」
「それはお互い様じゃない?」
「お互い……さま」
――言いたい事はそれだけ――
鈴葉に言われたことが鐘のように内側に響く。
「そんなの言ってくれないとわからないじゃないか」
もちろん聞かなかった俺も悪い。いつもそばにいるからといって何でもわかるわけじゃない。
「鈴葉はいったい何を抱えてるんだ?」
「私が知るわけないじゃない」
今は厳しい言葉よりも、慰めの言葉がほしかった。
「そうだよな」
「諦める?」
うつむく俺をカノンがのぞき込む。
余計な考えを振り切るように、首を大きく横に振った。
「諦める選択は無いな。ここで諦めたらカノンと一緒に新フェスに出られないからな」
のぞき込んでいた顔が急速に赤く染まる。
「本人を前にしてよくそんなこと言えるわね」
「自分がどうしたいのか伝えることは重要だろ」
「……そうね。精々頑張りなさい」
「そうするよ。今日は帰っただろうから直接家に」
「鈴葉ならPC室にいますよ」
凛とした声が閑散とした廊下に響く。唯敷さんは今日も委員長のオーラを纏って、背筋を地面と直角に伸ばしている。
「鈴葉は気分が落ち込んだ時は必ずPC室に行きます。ですから今回もそうでしょう」
気分が落ち込む。どうして断った方の鈴葉が落ち込むのだろう。
「ありがとう。助かったよ」
「ちゃんとフォローしてあげてくださいね。鈴葉も普通の女の子ですから」
意味深な事を言うと、颯爽と去っていった。
「私あの女嫌い」
「だろうな」
上から目線だったり、規律を重んじる性格はカノンと合いそうにない。
鈴葉も腹黒なんて言ったりするけど、音楽に真摯に向かう姿勢や、友人を思う行動はとても腹黒とは思えなかった。
扉の前で深く息を吸って吐いてを繰り返した。
勝負に挑む時の自分なりの儀式だ。スタート台に上る前はいつもこれをやっていた。
いつもなら軽々しく暖簾をくぐるようなノリで開けられる引き戸が、今ではなんだか重苦しく重厚感にあふれている。
これは俺が勝手に作り出している壁だ。ここまで来て尻込みしても仕方ない。
「早く入りなさいよ」
「言われなくても入るよ。てか別についてこなくても」
「失敗した時に慰める役が必要でしょ。邪魔ないようにここで待ってるから」
「はいはい」
失敗するとか言うなよ。縁起でもない。なんだかんだ言ってカノンも心配なのだろう。
深く息を吐いてから持ち手を強く握りしめ扉を引く。
中に入るとPC室独特の匂いが鼻をつく。扉を閉めると弦を限界まで張ったような空気に気づく。
室内にいるのは俺と鈴葉だけだった。
薄氷の上を歩くように窓際の奥の席まで行く。
「誰から聞いたの?」
俺を見る鈴葉の目は冷ややかで、近寄りがたい。
「唯敷さんから」
「さすが、腹黒りっちゃんだね」
「良い人だと思うけどな。心配してるんだよ」
「だったら自分が来ればいいのに」
「確かにそうかも。隣良いか?」
鈴葉は無言で席に立てかけてあったギターケースをどかして席を空ける。
教室の椅子と違い、ふかふかとした椅子は緊張した気持ちを幾分か和らげてくれる。
「何見てるんだ?」
画面を覗き見ると、鈴葉と同じ型のギターを抱えた異国の男性が、暗いステージに挿したスポットライトを浴びて、雄弁にギターを弾いていた。
「すごいよね。たった一人でたくさんの人を魅了しちゃうんだもん」
暗いステージに一人ぼっちの彼が鈴葉と重なる。言いようのない寂しさが心に触れる。
「亀田先輩にはお願いした?」
鈴葉は画面から目を離さず、うわ言のように言う。
「亀田先輩はね、すごいんだよ。何でもそつなくこなしちゃうし、かといって中途半端じゃなくて」
「亀田先輩にお願いする気はない」
「しつこい男は嫌われるよ」
鈴葉は俺を遠ざけようとしている。こんな鈴葉を俺は一度も見たことがない。
「鈴葉に話さないといけないことがあるんだ」
「……」
小さく息を吐いた鈴葉は、パソコンから目を離さない。
俺が鈴葉に話さなければならない事、それはもっと根本的な事であった。
「腕の怪我なんだけど。階段から落ちたなんて、嘘なんだ」
鈴葉に黙っていたことを一つずつ話していく。
「本当はライブの準備を手伝ってる時に怪我をした。大事にすればライブは中止になりかねないし、鈴葉も責任を感じるとおもったから」
話すことで離れてしまった距離を少しでも縮めなくてはならない。この溝を作り出してしまったのは俺だ。だから俺がその溝を埋めなくてはならない。
「それから、顧問には無理やり休部扱いにされたけど、水泳部に戻る気はないんだ。応援してくれていた鈴葉には悪いと思ってる。だけど、もう決めたことだから」
どうしてこんなに重要なことを鈴葉に黙っていたのだろう。やっぱり心のどこかで、話さなくてもわかってくれると思い込んでいたのかもしれない。
「それから」
「知ってるよ」
予想していなかった一言が、俺の言葉を遮る。
「知ってる?」
「うん。全部、知ってる」
ようやくこちらを向いた鈴葉は、申し訳なさそうに微笑む。
「怪我のことは後からその場に居合わせた人に聞いた。水泳部を辞めることはヒロくんがあきちゃんに話してるのを盗み聞きした。それだけじゃないよ。実はヒロくんは凄い選手じゃないってことも知ってるし、後輩に抜かれて選抜から外されたことも知ってる。全部調べた。私はヒロくんが思ってるほど良い子じゃないの。りっちゃんのこと腹黒って言うけど、私の方がよっぽど卑怯で汚い。だからね、私がバンドに入って良いことなんて一つもなんだよ」
冷たく言い放ち、俺との間に距離を置こうとする。
「相手のことが知りたくて調べることは別に悪いことだと思わないよ」
「ヒロくんは優しいね。だけどそうやって調べても私には全然わからない」
乾いた笑顔を浮かべる。
「何がわからないんだ?」
「人の気持ち」
何を思い出したのか、鈴葉は急に憂鬱な表情を浮かべる。
鈴葉が抱えているトラウマはきっとそこにある。
「私、相手の気持ち考えずに踏み込んだこと言っちゃうの。この間、店長に髭のこと言った時もまたやっちゃったて反省した」
清潔感がないと言われたのが余程ショックだったのか、店長はあの日以降、毎日髭を剃るようになった。特に悪いことではないように思える。
「初めて組んだバンドでも同じだった。良いと思って言ったことが人を傷つけてて、私はそれに気が付かなかった。そんなだからバンドの空気も悪くなって、一ヶ月もたずに解散しちゃった。その時に言われたの――」
下唇を噛んで言葉を詰まらせる。
「人の気持ちがわからない人とバンドはできない」
この一言が鈴葉の中で枷となって、踏み出すことを留まらせている。
「このままバンドを組んだら私はまた同じことをする。私にバンドを組む資格なんて」
「だから、何だ」
PCのモーター音が緊張感を駆り立てる。
「どうしてバンドを組まないのか、それはわかった。だけど鈴葉はどうしたいんだ?」
この話には鈴葉の思いが欠けている。
組みたくないと言われたから、周りを傷つけるから、周りを見すぎて自分の世界を縮めて、鈴葉は自分の殻に閉じこもっている。
「組みたいよ。バンドやりたいよ。誰かと一緒に音を創りたいよ」
「だったら」
「でもね、怖いの。バンドを組んで、分かり合えなくて、解散して、そんなことを繰り返したら私は音楽が嫌いになっちゃう」
心の慟哭がかすれた声となって外に漏れだす。
俺には好きなものがなかったから、嫌いになる怖さはわからない。だけど鈴葉に言えることはある。
「やりたいことを諦めるのは、好きなことが嫌いになるよりもずっと辛い」
以前の俺にもやりたいことは山ほどあった。友達とゲームをしたい、違うスポーツをしてみたい、朝練なんてしないでもっと寝ていたい。
水泳を続けるうえで、やりたいことを諦めてきた俺だから言えた言葉だった。
「俺はどんなに辛辣なことを言われても絶対に折れない」
「どうしてそんなこと言えるの?」
「だって、俺は鈴葉の幼馴染だぞ。気づかないうちにどれだけ言われたことか。それでも俺は鈴葉から離れてない」
「ヒロくんが平気でも、あきちゃんは」
「戸神ならもっと平気だ。あいつは被害妄想が激しいタイプだからな。はっきり言ってくれる方が楽だと思う」
鈴葉がつくる逃げ道を一つずつ消していく。
「でもね、でもね」
「諦めろ、鈴葉。俺たちとバンドをする以外にもう道はない。カノンをステージに上げるためには鈴葉の音が必要なんだ」
これでも駄目だった場合、俺にはもう打つ手がなく、後はひたすらお願いするしかない。
鈴葉はPCの画面に視線を移す。動画は切り替わり、先ほど一人でステージに立っていた男性は、仲間たちと音を奏でて笑顔を見せていた。
「私にもできるかな」
ふと、鈴葉の丸い瞳から涙が零れ落ちる。
「私にも、心が弾んで、踊って、昂ぶる演奏が出来るかな?」
「もちろん。俺たちとなら出来る」
俺が豪語すると鈴葉は吹き出して粘っこい視線を向ける。
「ヒロくん。何様だよ」
「初心者だからな。口だけは大きな事を言っておかないと」
「謙虚さも時には大事だよ」
涙をこぼしながら鈴葉は無邪気に笑った。
「そうと決まれば早速練習を」
立ち上がった拍子にポケットにしまってあったクーポンが床に落ちる。
「そう言えば今日までか。もったいないことしたかな」
プレミアムジャンボパフェのクーポンを緩慢な動作で拾おうとしたら、横から何かが飛んできてクーポンを引っ手繰る。
「鈴葉?」
「ヒロくんって確か甘いもの嫌いだよね」
クーポンを握る鈴葉の手はわなわなと震えている。
「うん。だから誰かにあげよ」
「ちょうだい!」
駄目、とは言えない、言わせない圧力に首を縦に振る。
「ありがとうヒロくん!」
荷物を置いたままにPC室を出て行こうとする鈴葉を思わず呼び止める。
「鈴葉、練習は」
「そんなことよりパフェだよ! 練習は逃げないけど、パフェは逃げちゃう」
大切な練習をそんなことと言い切るなんてよほどあのクーポンはレアなようだ。初めからあれを差し出していたらバンドに入っていたんじゃないだろうか。
「上手く説得できたみたいね」
鈴葉の分の荷物も持ってPC室から出ると廊下の陰からカノンが姿を現した。
「おかげさまで」
「上手くいく自信はあったの?」
「ないよ。あたって砕けたらまた立ち上がればいい」
「脳筋が考えそうなことね」
カノンは呆れたように溜息をつく。
「これで新フェスに向けて練習できるな」
「約束は果たされてないわよ」
カノンが入りたいと思えるバンドを組む。メンバーを集めただけじゃそれを果たしたとは言えない。
「その辺は問題ない。すでに完成度の高い演奏はできてる」
「素人が言っても説得力無いわね」
呆れていたカノンに僅かに影がさす。
「どうした? 具合でも悪いのか?」
「ちょっと疲れただけよ。他人ばっかりじゃなくて自分に耳を傾けなさい」
それだけ言うとカノンは逃げるように去って行った。
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