第六話
戸神が帰った後も俺は練習を続けた。ワークソングをコンポで流し、それに合わせてベースを弾く。
さっきのようなことにならないよう、コードはすべて暗譜した。
ベースラインを曲に合わせて弾いていく。耳にたこができるくらい繰り返ししたが、録音した音楽が相手ではソロがどこで盛り上がって、どこで次に引き渡すか。音符一つ一つまで憶えてしまい、弾いていても味気ない。
右手の人さし指と中指は弦を弾く摩擦で赤くなりヒリヒリする。
何をすればいいのかわかっていても、どうすればいいのかがわからない。ベースのことも。戸神のことも。
「リズム隊に焦りは禁物だよ。ゆとりを持たなきゃ」
気付くと鈴葉が微笑みながらドラムセットの前に座っていた。
「焦ってるつもりは」
「嘘は良くない。音は正直だよ」
以前、カノンにも言われたことがある。音は自分を映し出す鏡だと。
「周りが見えてないのはベーシストとしては致命的」
鈴葉の言葉が刃物のように突き刺さる。
さっきのセッションだって、余裕のない俺の所為で台無しにしてしまった。今の俺は心に余裕がない。
「戸神のこと聞いたよ」
「それでどうするの?」
「諦める気はない。戸神がドラムじゃないと駄目なんだ」
俺の中で、戸神のドラムが鳴りやむことはなかった。それは戸神以外のドラムを生で聴いたことがないからじゃない。
「そんなにあきちゃんが良いんだ……」
鈴葉はシンバルを指で叩いて独りごちる。
「そもそも、ヒロくんはステージに上がったことがないのにどうやって誘おうとしたの?」
そこが問題だった。亀田先輩に言われた音の形についてはわかってきた。だけどそれをどう伝えて良いのかわからない。それだけじゃない。俺はライブをしたこともないし、ステージに上がったことすらない。
「ノリと勢いで何とかならないかと」
「ジャズミュージシャンとしてノリは大事だけど、誘い方としては最低だね」
微笑みながら珍しく鈴葉から厳しい言葉を貰う。こうして俺の事をいたぶって楽しんでいるようにも見える。
「でもステージってそう簡単には上がれないだろう。まだまだ素人だし、メンバーもいないし」
「ふふん。そうでもないんだな。これが」
普段はおっとりとしている鈴葉がいたずらな笑みを浮かべた。
言われるがまま、鈴葉について来てみればそこは巨大な鳥籠の建物。音楽堂に来るのはこれで二度目。等間隔につけられた小窓はやはりどこからどう見ても鳥籠。
「関係ない話だけど、鳥籠と烏龍って似てるよね」
「似てるのは漢字だけだな」
本当に関係ない話だな。
鈴葉は俺のツッコミなどお構いなしにスキップをして裏の方へ回っていく。
「なあ、どこに行くんだ? 入口はこっちだろう」
「まあまあ、迷わず行けよ。行けばわかるさー」
ここまで上機嫌の鈴葉も珍しい。
俺の不安を余所に正面入り口を素通りする。
入り口のちょうど真後ろにあたる所に重々しい金属の扉があった。
「非常口? 鍵がないと開かないんじゃ」
「大丈夫だよ。この時間は開いてるから」
鈴葉は何の躊躇もなくドアノブを握り、音がしないようにゆっくりと扉を開けていく。
「ここからは、これ、だからね」
人差し指を口に当てて静かにするように促される。
音がしないように慎重に扉を閉めると、放課後特有のざわめきを持った空気が一変した。
しっとりと質量をもった空気が耳を包み、張りつめた静寂がそこにある。
「ここってまさかステージの裏か?」
「そうだよ。暗いから転ばないようにね」
お互い耳元で囁きながら、忍び足で暗く狭い通路を進んでいく。
天井は途中から暗闇にのまれ正確な高さを図ることはできない。こちらが立てる微かな足音や息遣いは床や壁に吸い込まれてしまう。
まるで大きな生き物の中に入り込んでしまったかのようだ。
『それでは始めてください』
前触れもなく、マイクを通した向島の声がホール内に響く。
異様な静寂の後、夜風のような低音が吹き抜ける。
これは何の楽器の音だろうと考えを巡らせながら、先を行く鈴葉の背中を追う。
ようやくステージの袖の方に出る。
「ここからならよく見えるよ」
鈴葉は子供のようないたずらな笑顔を浮かべながら、四つん這いになってステージを覗き見た。つられて俺も鈴葉の隣でステージを覗き見る。
ステージでは四人の奏者が客席に対して扇型で並んで座っていた。さすが、大ホールと名がつくだけはありステージも広い。吹奏楽団がずらっと並んでようやく埋まるほどの広さ。四人では到底その場を埋めることはできていなかった。
四人ではなんだか見た目が寂しいな。まあ、こっちも予定しているメンバーは四人何だけれども。アンプが置かれたりすると、それなりに埋まるのかもしれない。
「サクソフォーン四重奏か……」
メンバーも集まっていないというのに、見てくれの問題を心配し出した俺を余所に鈴葉はステージの光景に釘付けになっている。
「サクソ何?」
「サクソフォーン四重奏。四つのサックスで演奏する重奏の事だよ。下手(しもて)からソプラノ、テナー、バリトン、アルト」
「下手?」
「私達が居るのは上手(かみて)。向こう側が下手。右左だと見る側で変わっちゃうからそう言うの」
「なるほどな。あ、唯敷さんだ」
上手側には唯敷さんが座っている。つまり唯敷さんはアルトサックスを吹いているという事か。
「あれ? でも吹奏楽ってもっと大勢でやるよな。なんで四人だけ?」
「きっと少人数の部門に出るためだよ。完全にうちを潰しに来てる」
当然だろうな。しかし、唯敷さんが自ら出て来るとは思わなかった。負けるなんて微塵も思っていなんだろうな。演奏している姿からもその自信が窺い知れる。
「この曲って難易度が高くて、特にレベルの高いバリトンがいないと成立しない曲だよ。さすが、名門吹奏楽部だけあるね」
悔しそうに言うけれど、表情はどことなく朗らかで楽しそうだ。
「鈴葉はクラシックも詳しいんだな」
「少しだけだよ。ジャズばっかりじゃ偏っちゃうし」
鈴葉の解説を聞いている間に曲調は大きく変わり、落ち着いた雰囲気の曲は森を駆け抜ける様な軽やかなステップに変わって行く。
先ほど俺たちがやったセッションとは比べ物にならない。次元が違うくらいに実力に差がある。
『止めてください』
曲が最高潮に達そうとしたところで、冷気を纏った声がマイクを通して全体を包み込む。
『出だしの音が不釣り合いで耳に入って来ません。迷いが見えてます。迷うということは楽譜が頭に入っていない証拠。練習不足です。合わせる以前の問題ですよ』
いきなりの駄目出しに、当事者たちは神妙な面持ちでその言葉に耳を傾ける。
『井口君』
「はい!」
バリトンサックスをもった男子生徒が名前を呼ばれ、よく通る声で返事をするが表情は硬く緊張が見える。
『冒頭からお願いします』
「え、どこまで」
『私が良いというまで。無駄な質問は避けてください』
「は、はい」
彼は言われたとおり、冒頭部分を一人で吹いていく。さっき聞いた夜風のような低音。自信に満ちた堂々とした音だ。
しかし、その音は冒頭を過ぎると、不安定に揺らぎ始めた。
『もう結構です……これで新フェスに参加する気ですか?』
「……すみません」
先ほどと打って変わり、掠れた声は袖にいるこちらにも届かない程に弱々しい。
『質問の答えになっていませんね。私はこの稚拙な演奏で参加するのかと聞いているのですよ』
袖で聞いているだけのこちらにまで、凍るような緊張が身体を駆け巡る。
レベルの違いではない。目指している場所が違う。肌でそれを感じ取った。
唯敷さん以外の座っている生徒も怯えるように、床に目を落としている。まるで次は自分の番だというように。
「い、いいえ……」
『それなら、何故こんな演奏で今日を迎えたのですか? 時間なら十分にあったはずです』
「そ、それは……」
『適当に楽譜をさらいましたね。冒頭の繊細な部分を過ぎれば、その後のミスは周りの音に隠れる。そんな気持ちが音からはっきりとみえています。だから一人にされると拙くなるのです。隅々まで楽譜をさらい、無意識化で指が動くようになるまで練習してください。確かに井口君は周りの人よりも経験があり秀でていますが、その差は微々たるものです。それでは簡単に周りに抜かれてしまいますよ』
「はい……すみませんでした」
完膚なきまでに打ちのめされ、井口と呼ばれた生徒は倒れ込むように椅子に座った。
これが向島のやり方らしい。言っていることは何一つ間違ってはいないと思うが、これでは反発する生徒も少なくないだろう。
『次に、林さん』
そうして一人一人にやり過ぎなまでの指導が続く。
「このやり方で去年はいっぱい離脱者が出たんだって」
「でもそれってあの人の責任というより、部員に根性がなかったとも言えるよな」
『このままでは私の顔に泥を塗ることになります。恥をかくのは私なんですよ』
向島節と言えばよいのか、体裁を気にする発言が炸裂した。
「前言撤回だな」
「ああやって世間体を気にするから、部員の反感を買っちゃうんだよね。あれがなかったら良い指導者なのに」
まったく鈴葉の言う通りだ。
『唯敷さん』
「はい」
『当然のことですが、これは四人で奏でる音楽です。全員が同じ質、同じ感性、同じ音の形を持って向き合わなければ良い音には仕上がりません。あなたは彼らよりも先輩なのですから、自分の演奏だけに集中せず、リーダーとしての役割をはたしてください』
「はい。すみませんでした」
あれだけ厳しい事を言われても唯敷さんはいつも通りの厳格な雰囲気を崩すことなく、覇気のある返事でホールを響かせる。その様子を見てなのか、不安の色を浮かべていた他の三人の表情が変わっていた。
『次の合奏で改善が見られないようでしたら辞退させますので、そのことをしっかり肝に銘じていおくように』
不自然な沈黙の後、遠くの方で扉が開閉する音がした。どうやら向島がホールを後にしたらしい。
「相変わらずむかつく」
「でも言ってること間違ってないんだよね」
「一年気にすんな」
客席で聴いていた他の部員たちが堰を切ったように不満の声をあげる。
熱気のこもったざわめきが、異様な静けさを漂わせていたホールを揺さぶった。
「言い方はどうであれ、練習不足だったことは事実。そこは深く反省しましょう。まだ下校時刻まで時間があります。ここからは各自パート練習をしましょう。それとわからない事、演奏に不安な事があれば私に相談してください。もちろん向島先生に直接聞きに行っても構いません」
『はい!』
唯敷さんは広がりつつあった不満の火種を、持ち前の冷静さで消火する。
リーダーとしての気質や人間性は向島よりも唯敷さんの方が優れている。
ぞろぞろとホールを後にする足音がホールに響く。同時に唯敷さん達もステージ上からこちらに向かって引き揚げてきた。
「やばい。こっちに来るぞ」
「隠れなきゃ」
ホールが静かになるまで俺たちは物陰に隠れていた。人のいなくなったホールは異様な圧迫感と濃い静けさを感じさせる。
誰もいなくなったはずなのにステージの照明はついたままだった。
「今がチャンスだよ」
「チャンスって何だよ」
「ここに来た目的を果たすんだよ。ほらっ」
「のわっ!」
いきなり腕を引かれ、引きずられるようにして袖から出る。傍から見ていたよりもはるかにステージは広い。
「ベースは大体この変かな。ギターはあっち」
俺はされるがまま下手の方へ連れて来られる。鈴葉は上手の方でエアギターをしていた。
「ほら、ヒロくんも」
鈴葉の真似をしてエアベースをしようと前を向いた瞬間、蛇に睨まれた蛙のように全身が膠着した。
じりじりと肌を焼く照明はこちらを無条件に照らし続ける。
ステージ上から見た客席は、重く濃厚な暗闇だった。真っ黒な壁と言った方が適切かもしれない。演奏者を拒むわけでもなく、受け入れるでもなく、そこにただ存在している。少しでも気を抜けば飲み込まれてしまいそうだった。
熱を帯びた照明が肌を焼き、視界を白く染めていく。
俺はこんなところで演奏しなくてはならないというのか。大勢の聴衆の目がここに集まるというのに、あちらとこちらではまるで別世界。言いようのない孤独感。
スタート台に立っている時もこれと同じ感覚だ。
張りつめた静寂と圧迫する緊張感。気を抜けば落ちてしまいそうなほど、傾斜のかかったスタート台。左足を角に掛け、右足をスターティングブロックにセットする。前かがみになり両手で角を掴むと、弓を引くように自分の身体を後ろへ。スターターの合図があるまでの一秒フラット。場内の視線は集中し、先に見える水面は照明を反射して不気味揺れる。
この瞬間が――最も孤独を感じる。
「ヒロくーん」
弾んだ声が頭頂部を突き抜け、意識を現実に帰還させる。鈴葉の声は何とも言えない安堵感を感じた。
「何をしてるの? ほらほら」
鈴葉は楽しそうに右手を回して、エアギターをかき鳴らしている。
ここはあそことは違う。ここには孤独も窮屈もない。ここには仲間がいて自由がある。俺はそれに憧れているのかもしれない。
「気は済みましたか?」
聞き覚えのある声に辺りを見たが鈴葉意外に人の姿はない。
「こちらですよ」
声がした方向はステージの先、コツコツと足音が響き、暗闇から浮き出るように唯敷さんが姿を現した。
「いつからそこに?」
「ずっといましたよ。あなたが鈴葉に引っ張られて出て来た時から」
「ずっと……」
ということは俺がぼーっとしている間も、鈴葉の声に妙な安堵感を感じた時も、唯敷さんは今そうしているように、腕を組んで客席で見ていた。ということになる。
もしかしてこれってもしかするんじゃ。
「ど、どうかしましたか?」
「いや。何でもない」
「そうですか。それよりも弁解しないのですか?」
「なんの?」
「ここにいる理由ですよ」
「それは」
有無を言わせない足取りでステージに上がってくる。やばい何かうまい言い訳を。
「ヒロくんにここの凄さを知ってもらおうと思って連れてきたの。ちょうど吹奏楽部がリハやってるの知ってたし」
「おい鈴葉。何でも正直に話せば良いって問題じゃ」
「そうでしたか。鍵は渡しておきますので、戸締りはしっかりするようにしてください」
それだけ!?
唯敷さんは俺の横を通り過ぎて鈴葉に鍵を渡すとホールを後にした。
「いったい何が起こった? 絶対に責められると思ったのに」
「正直に話したから許してくれたんだよ」
「そんなわけあるか」
「あるよ。りっちゃんは正直者には優しいの。もちろん私もそうだよ」
腹黒な唯敷さんのことだから何か考えがあるんだろう。そうに違いない。
「それより戸神のことなんだけど、ちょっと良いこと思いついた」
「えへへ。ヒロくんなら何か思いつくだろうと思ったよ」
いたずらが成功した子供のように鈴葉は喉をころころと鳴らして笑っていた。
まさか、こうなることを見越して俺をここに連れて来たのではないだろうか。一瞬、そんな邪推をしかけたが、鈴葉に限ってそんなことはないか。
「問題はここを使う許可を出してくれるかだよな」
「それなら問題ないよ。明日のリハ、時間を少しもらったから」
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