第二話
いつもよりも数本早い電車内で入り口のドアに肩を預けて、右から左へ流れる風景をぼんやりと見る。油断すると寝てしまいそうで、俺に身を預けている相棒(ベース)を倒しかねない。ケースに入っているとはいえ、倒したら一大事だ。
昨日はあのまま眠ってしまい、早い時間だったことも日が昇る前に目が覚めてしまった。二度寝を試みたものの染みついたカノンの音楽がそれをさせてはくれなかった。
いまでも血流に乗って全身のいたるところに音が響いているように感じる。
同じ曲を永遠と何時間も聞いていればそうなるのも当然かもしれない。しかし、不思議と不快感は無かった。頭の中で流れえるカノンのテーマに合わせて、ベースラインを刻んでいく。最近は鼻歌を歌うように色々な曲のベースラインを考えている。
車内に駅名を告げるアナウンスが流れる。ベースが邪魔にならないように引き寄せる。
どうせならあの時アドレスでも聞いておけばよかった。
窓から見える景色が遮断され、代わりにホームの様子が映し出されと、思わず顔が引きつった。
ドア一枚を挿んだ先はまるでゾンビ映画に出て来るような人の群れ。眠そうな顔をした会社員たちが、今か今かとドアの開く時を待っていた。
普段も多くの人が乗車してくる駅だがここまでではない。数本早い電車に乗ったことでラッシュの時間にぶつかってしまったらしい。
早起きは三文の得どころか、三文は優に損している。
一旦降りていつもの電車に乗るか、我慢するか、迷っている間にドアは開き、堰を切ったように人が流れ込んでくる。ドア付近に立っていた俺は人の群れに逆らえず、車内の中へと押し流されてしまう。
相棒をしっかりと抱きしめて流れに身を任せていた俺は、後ろを気にする余裕もなく背中を誰かに打ち付けてしまう。
「すみません」
何とか身体をねじって頭を下げる。
「ごめんなさい」
控えめで小動物のような声が騒がしさの合間を縫って耳の中に入ってきた。
聞き覚えのある声に視線を下に向けると、琥珀色の瞳を零さんばかりに開いたカノンがこちらを見上げていた。
トランペットが入っているケースを大事に胸に抱えている。
窮屈そうに揺れる金色の髪からは魅惑するように甘い香りが漂ってきて、自身の体温が上昇するのをはっきりと感じた。
お互いに楽器を抱えている分の隙間はあるが、お互いの息使いが感じられるほどに近い。
カノンは気まずさからか視線を下に移して、ケースを力強く抱いている。
こちらも真似するように視線を下に移して、相棒の入ったケースを撫でる。
俺たちの気まずさを余所に電車は動き出し、カノンの小さな身体が後ろによろけた。
(危ないっ!)
咄嗟に腕を掴んで引き寄せるが、引き寄せられたカノンはベースケースに思い切り顔を打ちつける形になってしまった。
カノンが薄っすらと涙を浮かべて睨みつけてくる。
「ハードケースじゃなくて幸いだったな」
「口切ったらどう責任取るのよ」
軽口が過ぎたようで、思いきり足を踏まれた。
機嫌を損ねたカノンは俺から距離を取ろうとするが、結局は触れてしまうほどに近くに立っているしかなかった。
身動きが取れないまま、気まずい時間が流れていく。会話の糸を完全に見失っていた。用意していた言葉が泡のように浮かんでは消えて行く。
カノンも困っているのか、落ち着きのない態度でちらちらとこちらを伺ってくる。
居心地の悪さがいつもの数倍に膨れ上がった車内で中吊り広告で気を紛らせていると、不意に電車が揺れ、袖を引っ張られた感じがした。
見ると袖は誰にも掴まれておらず、その代りに、カノンの手が行き場を無くしてあたふたしていた。
俯いているので表情を伺うことはできないが、僅かに見える白い肌が赤くなっている。
「掴まれよ。吊革届かないんだろ」
「倒れてこないでよね」
「体幹は鍛えてるからその心配はない」
「だから何よ」
耳まで真っ赤にして袖を掴む手に力を入れる。
見渡してみても同じ制服を着ている生徒はどこにもいない。どうしてこんなに早く登校しなければならないのだろうか。いつもこんな早い時間に登校しているのだろうか。だとしたらどうしてそんなことする必要があるのだろう。
汗ばんだ手で吊革を握りながらカノンのことばかりを考える。しかし、浮かんだ質問をカノンに聞くことはできなかった。
結局、会話がないまま学校の最寄り駅に到着し、車内の人いきれから解放される。
駅では俺達以外に学校の生徒は見当たらない。それを確認してからカノンは溜まったものを吐き出すように息をついた。
「脳筋もたまには役に立つのね」
「素直にお礼が言えないのかよ。俺が居なかったら困ってたくせに」
「だから何? それより鼻がじんじんする」
「不可抗力だろ。それともしっかり抱きしめてほしかったのか?」
「そんなわけないでしょ!」
心を抉るような軽蔑の眼差し。二人きりになった途端にこの態度である。
こっちとしては大人しい方が逆に恐ろしいから良いけど。猛獣は大人しい時の方が要注意って言うからな。
改札を抜けてまだ静けさが漂う通学路を歩く。
「ついてこないでよ」
「目的地が一緒なだけなんだけど」
「だから何? 遠回りすれば良いじゃない」
「ならそっちがすれば良い」
「なまいき!」
「その言葉そのまま返すよ」
「ふん。後ろ歩かれると気味悪いから横に来て」
「はいはい」
このやり取りにも、もう慣れた。むしろあのまま気まずい雰囲気になるかもと思っていたので安心した。
「日本人って大変よね。どうしてあんな満員なのに乗るの?」
「それは俺にもわからない。大人になったらわかるかもな。それより」
いつもこんな時間に投稿しているのか? と聞こうとしたところで緊張感のない着信音がカノンの鞄から聞こえてくる。
「出ないのか?」
「ヒロに言われなくても出るわよ」
慣れない手つきでカバンからスマホを取り出す。
『カノンもう少し話し合おう。お前は冷静じゃないんだ』
「もう決めたことなの。それにパパだってそっちの方が困らないでしょ」
どうやら喧嘩中らしい。つまるところ喧嘩の勢いで家を飛び出してあの電車に乗ったという事か。
『でもカノンにもしものことがあったら』
「大丈夫。ママの為にもどうしてもやりたいの」
『いや……だが』
「パパの気持ちもわかってる。でもお願い」
『一つ約束してくれ。絶対に無理はしないって』
「うん。大丈夫。ありがとう」
微笑ましい親子関係に頬が緩む。
『それと変質者には気を付けるんだぞ。カノンは可愛いからな。いきなり家を出ていくからそれが心配で、心配で』
「変質者は、平気」
どうして一瞬こちらを見たんだろう。
「パパもあんまり無理しないでね。それじゃお仕事行ってらっしゃい」
先日もそうだったが親子関係は非常に良好のようだ。なんだか羨ましくなる。
「仲直りできたみたいで良かったな」
「別に。喧嘩なんてしてないし」
白い肌を少し赤くしていつもの様に強がる。
「ところで一週間休んでたみたいだけど体調悪いのか?」
「別に……ママに会いに行ってたの」
本当の事を言うのを迷ったのか、少しの間を置いてぽつりと呟いた。
「離れて暮らしてるのか?」
「うん……そんな感じ」
「そうか」
カノンは多くは語らず、首から下げた革袋を握ると表情が曇った。複雑な家庭環境なのだと察した。
活動拠点を海外に置いているのに、わざわざ日本の学校に来たということは意味があるのだろうか。
そんな素朴な疑問も聞くことが出来ず会話はそれきり。静かな通学路にローファーがコンクリートを打ち付ける音が不揃いに響く。
しばらくして、沈黙に耐えられなくなったカノンがこちらを見ずに話し始めた。
「もう、知ってるんでしょ。私のこと」
「彗星の如く現れた天才トランペッターだっけ?」
「なんかそれってすぐに消えちゃうって言われてるようで嫌い」
まただ。カノンは表情を曇らせる。そんな表情をするときは、いつだってここではないどこか遠くを見ている。トランペットを吹いている時も同じ。
俺はカノンのそんな表情を見ていたくない。
「まあ気にすんなよ。周りの批判なんてさ」
「なに勘違いしてるの? 演奏家は周りの奴には耳を傾けないの。常に自分に傾けるのよ」
旗を打ち立てるように言い放ったが、それは自分に向けて言っているようにも聞こえる。
「で、私がプロだって知ったなら、余計に参加してほしいんじゃないの?」
「そっちこそ勘違いしてる」
今言われた言葉をそっくりそのまま返してやった。
「俺は心が弾んで、踊って、昂る様な音楽をカノンとやりたいって、入部するときに言っただろう。カノンが天才だろうがプロだろうが関係ない」
「素人のくせになまいき」
照れるように顔を逸らすカノンに一枚の楽譜を差し出す。
曲名は「ゼア・ウィル・ネヴァー・ビー・アナザー・ユー」ジャズのスタンダードで初心者でも演奏可能な曲。
「この前、これにたくさんアドバイス書いてくれたよな」
「アドバイスじゃなくて悪口よ」
「わざわざ訂正しなくても」
「だから何? 本当のことを知らないヒロが可哀想になっただけよ」
こうしてまた、余計なことを言って人を遠ざけようとする。
この一週間、カノンをバンドに入れることだけを考えていた。だけどそれではカノンは首を縦に振らない。それどころかこして遠ざけるだろう。それで思いついたのだ。
「カノンが演奏したいって思えるようなバンドを組むから。そしたら一緒に演奏してくれないか?」
――辞める理由がないから続けている――
これは嫌いになる一歩手前だ。自分がそうだったからわかる。そして俺は辞めるために嫌いになってしまった。
だったら俺が続ける理由を作れば良い。
感情の読めない表情でしばらく俺を見つめていたカノンは、差し出された楽譜を俺の胸に投げつけるように突き返す。
「私に楽譜なんて必要ない。楽譜ばかり見てると大切なものを見失うわよ」
「それって、組んでくれるのか!」
「大声出さないでよ。まだ何も言ってないじゃない!」
「大声を出してるのはそっちも同じだぞ」
冷静に指摘してやると瞬間湯沸かし器のように顔を真っ赤に染め上げる。
「精々頑張りなさいよ」
逃げるように上り坂を走っていくその足取りは、どこか軽くリズムを刻んでいるように見えた。
と、いうことで果てしないメンバー探しが始まった。
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